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プロローグ
あの頃、それは夢のような日々
しおりを挟む「……お疲れ様でした」
すでにほとんどの人が帰宅した後だった。
中谷優人は半分電気の消された事務所を出ると、薄暗い廊下をひとり歩いた。更衣室のロッカーから上着を取りひやりとする空気を感じながら、玄関を出てとぼとぼと従業員駐車場へ向かう。
広い空にはすでにうっすらと星が現れ始めていた。
靄で覆われたようにぼんやりとした春の空を眺めながら、本社社屋から駐車場へと向かう。その下り坂の途中に見えたのは、従業員を出迎えるように立つ桜の巨木だった。
優人が物心ついたときからある、大きな桜の木。
それは今年もすでに花を付けていて、白い花が春の宵のまだ冷たい風に揺れていた。
――ここは少しも変わらない。
また今年も春がきた。そう思わせるような、ありふれた風景、うだるような日常の光景だった。
優人はふと、小さな記憶が頭に湧き上がるのを感じた。反射的にそれを封じようとしたものの、別にいいかと諦めそのままにする。
――もういいだろう。
自分はもう大人になった。
だからあの時とは違い分別があって、あの頃の――自分がまだ青く未熟な大学生であったときのことはもう俯瞰して見れる。
流れた時間とこの田舎の変わらぬ日々が、気持ちを穏やかに均したのだろうか。
そうして桜を見上げながら、優人は思いを馳せた。
――自分があの人を好きになったのも、春のこんなときだった。
あの人に出会い、あの人の優しさに触れ、あの人のすべてを知りたいと願った大学四年のこと。
はじまりはちょうどこんな春のことで、まるで霞のように朧な想いだった。
――それがまさか、あんな激情に変わるなんて。
優人はふっと笑った。
それは無知で幼い過去の自分に対する嘲笑だった。
――あの頃は、愛があれば救えると思っていた。
あなたにいてほしい、そう言うだけで、苦しむあの人を助けられる気がした。愛で心を満たせば、あの人が安らげると思っていた。
ただ、それはただの現実逃避にしかならなかった。
そうして結局、誰も悪くないこの現実世界で、愛だけのために生きることはできなかった。あの人と生きる未来なんて、始めから存在しなかった。
不意に、冷たい風がふわりと吹いた。
それは咲いたばかりの桜を揺らし、白い花弁を散らしながら優人を現実に引き戻した。
優人は止めた足を再び動かし始めた。そして桜の下を通り駐車場へと向かいながら思った。
――あの頃の自分は子どもだった。
だからあの頃見えていなかったものが、大人になった今の自分には見えている。
微かに傷み始めた胸の奥にあるのは、あの時、あの人を前に抱いた確かな気持ちだった。
『こんなにも誰かを愛することは、もう二度とないだろう』
その気持ちは今も少しも変わらずここにある。
そんな自分はこれから先、一体誰を愛せると言うのだろうか。
――これは罪、代償だ。
あの人を愛して、甘んじて受け入れた罰。
きっとこれからの人生、自分は誰も愛することなくひとりで生きていくのだろう。
暗くなった空を眺めながら、優人は寂しく自分を待つ白い車に乗り込んだ。
彼の車の放つエンジンの響きとランプの光は、春の闇の中に溶けるように消え、やがて見えなくなった。
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