【完結】まほろばに鳥はもう来ない

上杉

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エピローグ

春、再び

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 眩さに目がくらんだ須藤が目を覚まし、まず感じたのは既視感だった。

 ――また僕は眠ってしまったのか。

 大抵優人が激しく愛するので、気付いたときには眠りに落ちていて、ふたりで泊まるといつも先に目覚めてしまうのだ。
 今回は出張で疲れていたのもあるのだろう――そう思いながらベッドの脇に視線を送るも、そこに彼の姿はなかった。

 ――あれ、いない。

 中谷優人の姿は珍しくそこになく、荷物もなかった。どうやらすでに着替えて出たらしく、ベッドの脇には、部屋に用意されたメモに書き置きがあった。

『忘れ物をしたので、先に一度戻ってから式に向かいます』

 残されていたのはそれだけだった。

 今日、二十五日の午前に、優人も出席する大学全体の卒業式が、都内のとあるホールで開催される予定だった。学部だけでなく、修士も博士課程も合同で行われるため、それが終わり次第、午後から研究室の皆でお祝いのパーティが行われるらしい。
 修士一年が準備をしていることもあり、基本的に須藤が関与する必要はなかった。
 だからこのまま一度家に帰って、出張の荷物を置いてから大学へ行こう――そう須藤は思っていた。

 そんな彼が違和感を抱いたのは、ホテルのカウンターで受付に、すでにお代はお済みですと言われたときだった。
 これまで一度も自分より早く起きたことがなく、スマートに会計を済ませておくこともなかった優人が、今日に限って一体どうしたのだろう。

 ――そういえば、昨日も少し変だったな。

 そう思い考えると、次第に不可解な点が思い浮かんだ。
 昨日の食事中、ひとたび暗い顔をしたと思えば、とびきり明るい事を言い、また何か考える顔をしては、作り笑いを浮かべていた。
 その不思議な様子は行為中も同じで、思わず声をかけたものの、意味ある返答は何も返ってこなかった。

 ――卒業したら、毎日顔を合わせられなくなるからだろうか。

 いいところで食事をして、わざわざ思い入れのあるこのホテルに泊まって。中谷優人は会ったときからどこか冷静で、それは付き合ってから今も変わらず、人一倍大人びていると思っていた。しかし、実はロマンチストなところもあるのかもしれない。
 須藤はメッセージアプリを開き、間に合った?と連絡をいれた。
 すぐに既読になるはずもなかったので、期待せずにすぐに画面を消して駅へと向かう。

 ――まあ、今日は同級生もいるだろうし、僕の出る幕はない。

 須藤は小さくあくびをしながら、朝の爽やかな日差しを浴びて、ゆっくりと歩き始めた。


 一度家に戻り、大学へ着いた頃にはすでに昼前だった。
 須藤はというと、研究室脇の休憩スペースで、スマホを見ながらひとりため息を付いていた。
 なぜなら午前中優人に送ったはずのメッセージにいまだ返信が来ておらず、既読にすらなっていなかったからだ。
 思わず電話をかけるも、やはりそれが繋がることはなかった。

 ――どうしたのだろう。

 背もたれに寄りかかり、ぼんやりと窓の外を眺めながら疑問に思う。窓の外に見える桜はまだ開く前で、青空のもと枝を空に力強く伸ばしていた。
 背後では賑やかな声が聞こえ始め、どうやら卒業式に出ていた学生たちが戻ってきたことがわかった。
 ちらりと視線を送ると、確かに室島研の学生の姿もあった。その中には四年生もいたものの、なぜか彼の姿だけが見えなかった。
 不意に、背に冷たいものが走った。
 まるで優人の不可解な行動がかちりと噛み合っていくような感覚があり、須藤はぞっとする。
 
 ――まさか、な。

 しかし一度考えてしまえば、思考を止めることはできなかった。
 なぜ昨日に限って家ではなく、泊まりだったのだろう?なぜ彼は先にチェックアウトしたのだろう?
 そんな疑問が次々と浮かぶたび、ドレスアップした学生たちに声をかけたくなった。しかしそうする訳にもいかず、何とか思いとどまった。

「…………はあ」

 そうしてため息をひとつ漏らしたときだった。

「ははは。まだダメージを受けてるのか?」

 背後から声をかけたのは室島だった。
 ずかずかと歩み寄り、空いているベンチにどかりと座ったので、何やら言いたいことがあるらしい。

「室島先生。そういう訳ではないんですけど」

 そう答えると、教授はこちらを見ずに窓の外へ視線を向けながら口を開いた。

「いい公募だったが、まあタイミングがあるさ。……それより僕の知り合いの先生が引退しようとしてるみたいで、また新しい公募が出るかもしれない」

 どうやら、ため息の理由を、前回の公募の件だと思っているらしい。
 正直、室島の口から出る公募の話は、研究者なら飛びつきたいくらいにいい案件だった。ただ、選ぶ権利のない今の自分には、不相応な話ではあったが。

「……お気遣いありがとうございます。でも――」

 そう言いかけて、室島に阻まれる。

「いいたいことはわかるけど、とりあえず聞け。僕はいつもできる限り責任を取りたいと思ってるんだ。須藤くんのことは……僕のせいみたいなもんだからな」

「そんなことは……」

 大学で出会い、なぜか責任を取れと言い結婚することになった妻の、ヒステリックな声が聞こえた気がした。
 田舎は絶対に嫌――それは須藤が安定したパーマネントの職に就こうと探していた時、妻が言った言葉だった。しかしそんな仕事が運良く見つかるはずはなく困っていたところ、妻が勝手に親経由で頼ったのが室島だった。
 当時、イタリアから帰国し研究室を立ち上げることになっていた彼は、メンバーが誰もいないこともあって、いいよの一言で受け入れてくれたのだ。
 だから室島の責任と言う訳ではまったくなく、むしろ妻とその親――権威ある研究者に忖度し続けている、自分の弱さのせいだと思えた。
 室島はそんな須藤の思考を遮るように言う。

「まあ聞きなって。次の公募は、一応地方名門大の教授待遇だ。それもそうなんだが、何よりあそこは食べ物飲み物なんでも美味しい。米に魚に日本酒に、グルメな須藤くんの心を癒やせること間違いなしだ。確か……中谷くんが地元だったか?」

「…………そうなんですね」

 やけにタイミングがいいな――そう須藤が驚いていると、次に室島はそれ以上に衝撃的な言葉を口にした。

「……あーあ。今日、あの子もいれば話が聞けたのに、酒置いて帰っちゃったんだよね」

「え…………どういうことですか」

 須藤は驚きのあまり咄嗟に聞いてしまった。
 室島が驚いた顔でこちらを見たので、ようやく我に返る。

「……まさか、聞いてないのかい?」

 それになんとか頷くと、室島の口から語られたのは、今までのすべての疑問が噛み合う中谷優人の抱えていた現実だった。


 須藤が研究室に戻った頃には、皆パーティー会場に向かったようで、もう誰の姿もなかった。
 早春のいまだ冷ややかな光が窓から差し込み、本と実験設備ばかりの無機質な空間を照らしていた。
 その入口に須藤はしばらく立ち尽くし、室島の言葉を反芻していた。

『……中谷くんは帰ったんだよ。家業の――会社の締め日が早いらしくて。入社手続きがあるから、急遽卒業式に出られなくなったって、連絡があったらしい。須藤くん、本当に聞いてなかったんだ』

『……君が寂しがると思って言わなかったんじゃない?ははは。まあ、実際急遽内定蹴って戻ることになったらしいから、本当に急だったってことじゃないか?連絡先、知ってるんだろう?今生の別れでもないんだから、いつでも連絡取れるじゃん』

 確かに連絡先は手元にあった。
 ただ、未だ返信もなく、折り返しの電話もなかった。

 ――ということは。

 須藤の沈んだ心とは対照的に、窓際のカーテンがふわりと揺れた。
 誰かが小さく開けたままにしていたらしい。
 須藤はのろのろと足を動かしそれを完全に閉めると、行く当てもなく自分のデスクへ向かった。
 心の中にぽっかりと穴が空いたようで、何も考えられなかった。
 ただその途中で目に入ったのは、優人がかつて使っていたデスクで、そこはすでにいつでも新人が使えるように整頓されていて、彼がいた痕跡はもう残されていなかった。
 須藤は自分のデスクに腰かけると、薄暗いそこで電気も付けず、明るい窓の外を見ながら思った。

 ――いつか、この日が来るとわかっていただろう。

 若く未来ある学生の彼と、研究員の自分。しかも男と男で、なおかつ自分は結婚している。
 だから冷静になって考えると、なぜここまで続いたのかという疑問すら浮かび上がってきた。
 思いを伝えてくれたのは彼からで、自分は流されていたようなものだった。しかし確かに自分は彼のことが好きだった。
 生きている価値すらない――本来の伴侶からそう言われ傷付けられ、自分に絶望していたとき。彼はそんな自分に居場所を与えてくれたようなものだった。
 だから息ができるようになって、すこしずつ自分もいい方に変われているような気がして。彼のおかげで人生が好転し始めた――そう思っていた。けれど――。

 ――ずっと、苦しめていたことはわかっていた。

 冬季休暇に地元に帰って以来、優人の顔色が変わったのは明らかだった。ただ、自分が抱えた問題をさらけ出せない自分が、彼にだけそれを見せろと望むのは、野暮だと思えた。
 だから何に悩んでいるのか聞けなくて、うやむやにしていたツケがようやく今回ってきたという訳だ。
 それは、現実に向き合えない自分の弱さそのものだと思えた。

 ――僕は……なんて弱いんだろう。

 この人生で、逃げることに慣れすぎてしまったのだろうか。
 傷つくたび、自分はこれまでどれだけ彼を頼っただろう。あの十数も年下の青年が抱えたものに見ないふりをして、自分はどれだけ甘えて、負担をかけていたのだろう。

 不意に、視線は柱の奥の優人の席へと向かった。
 ここからちらりと見えた彼の横顔を、見ることはもう二度と叶わないのだ。

 ――ほんの少し前まで、そこにいたのに。

 今日みたいな誰もいない静かな研究室で、彼は自分が後ろから近づくと、いつも笑ってこう言った。

『須藤さん……実は暇なんですか?』

 そうして雑談を交わして、人目を見計らって物陰でキスをした、あの日々。
 あの時間は、もう二度と戻ってこない。

 須藤は泥のように重たい身体を背もたれに預け、脱力した。
 そのぼんやりとした視線の先には、別世界のように明るい窓の外で、春を楽しむように二羽の小鳥が戯れていた。
 いいなあ――そう無意識に須藤が思ったときだった。

「――あれ、須藤くんまだいたの?」

 奥から声をかけられぱっと身を起こすと、室島が自分の部屋の前から心配そうな視線を送っていた。どうやら、教授が研究室に入ってきたことにも、まったく気付かなかったらしい。

「春の日差しが気持ちいいので、すこしまどろんでました」

 すると室島は小さく笑った。

「……確かに。ここは温度管理もしているから、夢を見るのに理想的な場所かもしれないね。……じゃあ、僕は先にいくから。中谷くんがいなくて淋しいのもわかるけど、落ち着いたら顔出すように」

 室島はそう言って立ち去ろうとした。おそらく、ゼミのパーティーへ向かうのだろう。
 須藤は思わず声をかけた。

「…………先生!」

「何、どうしたの?」

 室島は微笑んで待ってくれていたものの、言葉は少しも見つからなかった。

「いや……なんでもないです」

「そうか。まあ、公募については気長に待つんだ。僕からも声かけとくから」

「はい」

 室島は手を振り、研究室を出て行った。
 その姿を見送った後で、須藤は再び窓の外に視線を戻した。するとなぜか二羽いた鳥は一羽だけになっていて、もう一羽はすでに飛び立ったのか、姿が見えなかった。

 ――……これでよかったんだ。これで。

 須藤は窓を大きく開けた。
 転落防止柵にもたれるように身を乗り出すと、空いっぱいに広がる蒼穹を仰いだ。
 穏やかな風が吹いており、風が心地よかった。
 須藤はそれを浴びながらふと思う。

 ――彼みたいな優秀な人物はきっとこの風のように。人生の流れに乗って、どこまでもいくのだろう。

 彼にとってこの場所はただの通過点でしかなく、もう二度とこの場所を訪れることも、不意に思い出すこともない――そう須藤はとりとめもなく感じた。
 窓を閉め、光から逃げるように背を向けてデスクへ向かう。
 そのとき、不意に外から鳥の鳴き声が聞こえた気がした。
 呼ばれたように思い振り返るも、そこに彼らの姿は見えなかった。
 須藤は小さく笑い、思う。

 ――あの鳥が飛び立ったのか消えてしまったのか、行方は誰にもわからない。

 ただひとつだけ言えることがあるならば――あの鳥はもう二度と、この場所に戻ることはないだろう。

 自分のデスクに戻ると、机の上に実験ノートが置かれていること気付いた。
 これは先日、中谷優人に用意しておいてと伝えたもので、彼の一年間の実験の結果がまとめられたノートだった。
 ふたりの日々が確かにあったことを示す唯一の痕跡に、須藤は思わずふっと微笑んだ。
 それを腕に守るように抱えた瞬間――そこから逃げるように落ちた白いものに須藤は気付かなかった。その小さな封筒はひらりと宙を舞い、床に落ちてデスクの下へと消えていく――。

 須藤は目もくれずに白衣を翻すと、誰もいなくなった研究室をあとにした。
 そうして扉を閉めようとした瞬間だった。遠くで小鳥の声が聞こえた気がした。
 しかし彼はもう振り返らなかった。
 まるで夢から醒めたようなさっぱりとした顔をして、研究室から遠ざかっていく。
 扉はその後を追うように、ひっそりと音もなく閉まった。まるで彼の大切なものを守るように、粛々と。
 部屋の主たちが戻るのを、ただそこで待っていた。


(終)
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