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3章 新緑
2 ふたりだけの二次会
しおりを挟む案の定、須藤は誘いを断らなかった。
いい店があるんだ――そう言って連れてきてくれたのは、繁華街の裏手にあるこじんまりとしたバーだった。
そこは薄暗いというより最低限の明かりだけが灯るひっそりとした空間で、初めて感じるただならぬ雰囲気に優人は少しだけ怖じ気付いた。
「いらっしゃい」
老齢だが、きちんとした身なりのマスターが暗がりの奥に見えた。どうやら彼がひとりで切り盛りしている店らしい。
大量の酒瓶が並ぶカウンターの前にふたりが腰掛けると、温かいおしぼりが出された。
須藤はここによく来ているのだろうか、テーブルに置かれていたメニューも開かずにマスターに何かを注文していた。
「きみが好きそうなの選んでみたから、試してみるといい」
そう静かに言った須藤に優人は思わず聞く。
「何で……こんなお洒落なところに?」
「ああ、お洒落っていうより、きみ舌が肥えてるみたいだし、ウイスキー好きそうだったから」
「……ウイスキー好きそうってどういう意味ですか」
初めて言われた言葉にそう問うと、須藤は微笑みながら横顔を向けたまま言った。
「きみは酒強いし、飲み方も知ってるみたいだから。……それに、ああいううるさい店よりも、こういう静かな店のほうが好きだと思って」
確かにその通りだった。
実際この暗い店は居心地がよかった。ほかに客はいるのだろうが、皆静かにひっそりと酒を楽しんでいるのだろう。包み込むような闇の中で、それぞれの席を照らすライトが各々の世界であるかのように思えた。
「――お待たせしました」
マスターの声が響き、須藤と優人の前にも酒とチェイサー、そしてナッツとドライフルーツの盛り合わせが出された。
須藤はそれをどうぞと手で示したので、優人は琥珀色のとろりとした液体を口に含む。
それはまるで味わったことのない至福の体験だった。
飲み慣れた日本酒とは違うウイスキーの華やかで力強いフレーバーは初めての味わいで、また度数が高いからこそ口の中で弾けて鼻に香りが上るのだ。須藤はきっとこれを伝えるためにここに連れてきてくれたのだと思えた。
優人は思わず須藤に向かって小声で言う。
「須藤さん、ウイスキー……やばいっすね」
「気に入ってもらえたようでよかったよ」
「正直、日本酒より美味いかも……」
思わずそうこぼすと、須藤は小さく苦笑した。
「……それは好みにもよるだろう」
「皆違って皆いいってやつですか?」
「そうは言ってないさ。ただ、ふたつのベクトルが違うっていうだけだろう」
須藤はそうして微笑んだので、優人は思わず嬉しくなった。
――よかった。楽しそうだ。
あの一次会の場で思わず誘ってしまったものの、どうやら須藤も楽しんでくれているらしい。彼が穏やかな表情をする姿を見て優人は安堵すると同時に、こんないいお店に連れてきてくれた須藤に心の中で感謝した。
この店には、一次会の居酒屋にあったあの騒がしさもなければ、邪魔するものもいなかった。
優人はその事実に気付き、一次会では言えなかったあることを口にした。
「……それにしても、今日のゼミ酷かったですね」
「君もそう思えるようになったか」
「……はい」
優人がそう思ったのは、研究室内で行われる進捗報告――ゼミについてだった。
配属された当初は気付かなかったが、最近須藤の指導を受けながらゼミに出るたび、違和感を感じていたのだ。
それは室島研のゼミが、とにかく馴れ合いだということだ。
本来ならば進捗報告の場は、普段須藤が優人に対してしてくれるように、アドバイスや異なる視点からの言葉を投げかけ、研究があるべき方向へ進むように確認する場なのだ。
なのにこの研究室のゼミはそうではなかった。
まるで仲がいいのが仇となっているように、質疑応答はただの馴れ合いのように行われた。それだからか研究自体が進んでいない人もいるように思えた。
だからこそ、この研究室では須藤の異質さが際立つのだろう。優人は思わず言ってしまった。
「須藤さんが厳しいのって……わざとですよね」
その優人の言葉に、須藤は返事をしなかった。ただ、変わらずに笑みを浮かべたまま静かに口を開いた。
「……室島先生がああいう方だから、就職はツテで上手くいくんだ。ただ、これまでも修士で卒業できない生徒はかなりいたんだ」
――やっぱり卒業で苦労するのか。
四年で就職するならまだしも、この調子で先延ばしにしていれば大学院で大変なことになる――それは今の優人にさえ簡単に想像ができた。
だから思わず、室島に直談判に行ったあのとき、須藤が声をかけてくれてよかったと優人は思った。
――まさか……俺がそうなることを案じてくれていた、とか。
室島の個室の扉はすりガラスになっている。そのため室島が誰かと話していることは、外から容易にわかるのだ。そんな中で、須藤はわざわざあのタイミングで声をかけた。よっぽど急な案件でない限り、そんなことはしないだろう。
少し考えすぎだろうと思えたものの、優人はすでに須藤が面倒見のいい人であることを知っていた。だからその可能性もあるかもしれない――そう思い優人は、ずっと気になっていたことを思わず聞いてしまった。
「須藤さんは、なんで室島先生の下にいるんですか?須藤さんならきっとゼミ持てるんじゃ――」
優人が調べたところによると、須藤は以前研究所で研究員をしていたようで、著名な雑誌に論文もたくさん出しており、研究者として申し分なかった。
だからなぜと聞いたものの、須藤の表情を見て優人は言葉を失った。
彼はこれまで見たことのない、まるで苦しみを耐えるように顔を歪めながら、遠くを見つめていたのだった。
それはまるでいつか必ず訪れる地獄を知っていて、その事実から逃れることを諦めているように。
――聞いてはいけないことを聞いてしまったみたいだ。
優人がそう焦っていると、須藤が淡々と口を開いた。
「知り合いの……紹介なんだ。たまたま困っていたときに声をかけてもらって以来か。だから今の職からどうこうすることは考えていないんだ」
「……そうなんですね」
優人はとりあえず相槌を打ち、口先で当たり障りのない会話を始めながら思った。
――この人の抱える、言いたくない闇はこれなんだ。
そしてちらりと横目で須藤を見た。あの悲しい顔はもうすっかり息をひそめるように消えていた。
そんな彼を見ながら優人は思った。
この優しい人に、あんな悲しい顔をさせるのはどんな理由なのだろう、と。
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