【完結】まほろばに鳥はもう来ない

上杉

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3章 新緑

3 暗がりの中で

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「……次は、別のものも試してみてもいいですか?」

 日本で作られたという希少なウイスキーを空にしたあと、グラスをコースターの上に置きながら優人は須藤にそう言った。

「……ん」

 その反応がおかしいことに気付いた優人は、ぱっと彼の方を見る。

 ――どうしたんだろう。

 目に入ったのは、さっきよりも確実に赤く頬を染めて目もとろんとした須藤の姿だった。
 先ほどの会話のあと、気まずくなって互いに酒を飲み進めていたからだろうか。どうやら酔いが回り始めているらしい。
 ただ、その表情はさっきまでの悲しそうな顔とは変わって穏やかだった。優人はほっと安堵しながらとりあえず声をかけてみる。

「須藤さん……まさか酔ってます?」

「……きみが、強すぎなんだよ」

 それは今まで聞いたことのない浮ついた声だった。
 普段の須藤はというと、淡々としていて感情とはまるで無縁だ。それが今は若返ったように軽やかで親しみ深く感じられた。
 もっと聞きたい――無意識にそう思った優人は、煽るように言ってしまう。
 
「すみません、俺、ぺーぺーなのにこんなに酒強くて」

「……本当だよ。きみ、何でそんなに酒強いの……」

「それは、その……そうなるべくしてなったというか……」

「……ん?」

 須藤の唸るような返事は、まるでこちらを挑発するように優人に聞こえた。そんな普段なら絶対にありえない砕けたやり取りに、優人は嬉しくなって調子に乗ってしまう。

「しょうがないんですって。生まれつきみたいなものですから」

「…………ん」

 その子どもみたいなやりとりのなかで、優人はふと思う。

 ――この人は……酔っぱらったらこんな感じになるんだ。

 いつも頼りがいがあって、余計な言葉ひとつ発しないのが須藤静河だ。なのに、今の彼はまるで子どものようだった。

 ――こんな隠された一面もあるんだ。

 お酒が好きみたいだし、進捗が進んだらまた飲みに誘ってみよう――そう思いながら優人が再び口を開いたときだった。

「もう、謝ってるじゃ――ないです、か……」

 気付けば右肩の上に重さを感じていた。
 なんだろう――そう思うより先に、それが須藤の頭であることに気付いた。同時に彼の柔らかい髪が首を掠め、そして右半身にもたれる彼の身体のぬくもりが伝わる。
 そして優人がよく知っている香りがふわりと漂い、不意に思った。

 ――これは……須藤さんのデスクの匂い。

 研究室の一番奥――須藤が座っている静かなあの空間の匂いがした。今はすっかり心落ち着くようになったその馴染みのある香りに、優人ははっと気付いた。

 ――そうか。この匂いは……須藤さんの匂いなんだ。

 それを自覚した瞬間だった。何故か優人の胸は突然高鳴り始めた。
 理由は明白だった。それは自分のゼロ距離に、人嫌いで有名なあの須藤がいるからだ。
 まったく想像もしていなかった出来事に優人は固まった。

 ――お、落ち着け。

 そうしてしばし自分に言い聞かせたあとで、ちらりと須藤の方を見た。
 もたれかかる彼は目を閉じ、すうすうと寝息を立てていた。
 どうやら酔って眠ってしまったらしい。長いまつ毛と病的に白い陶器のような頬を見た優人は、どきりとして視線を元に戻す。

 ――どうしようか……。

 これまでもこのように酔っ払いに絡まれたときはあった。しかしすぐに引っ剥がしてそれで終わりだった。
 しかしこの人が相手ではなぜかそうできなかった。身体は固まったようにまったく動こうとしない。
 そうして困惑しながらも、優人は気付いた。その迷惑に思う気持ちと相反するように、胸に少しずつ嬉しさがこみ上げていることに。

 ――これはきっと、須藤さんに頼られているみたいだからだ。

 いつもは頑なに他人を拒む須藤が、まるで幼子のように自分に体重を預けてくれている。少しだけど信頼されているように思えた。
 もしかしたら自分にだけかもしれない――そんな期待が湧き上がる中、優人は不意に自分の腕時計を見て焦った。

「――す、須藤さん!やばいです。終電なくなっちゃいます!そろそろ帰りましょう」

 小声で彼の肩を揺さぶりながら言うと、須藤は身体をもぞもぞと動かした。
 一応起きてはいるらしい。こちらに体重を再度かけ直したあとで、ぼそりと言った。

「…………うん」

「す、須藤さん、大丈夫ですか?」

「…………もう少し飲もうよ」

「もう無理ですって」

「ははは」

 そう適当に笑う姿は、須藤というよりただの酔っ払いだった。
 しかしそうだとしても、優人には引き剥がすことはできなかった。

 こんな薄暗いバーにふたりきりでこれだけ密着されて。普通の人ならば絶対に嫌なはずなのに。
 何故だろう、須藤はまるで大丈夫だった。

 ――むしろ。

 優人の心の中に浮かび上がっていたのは、小さな小さな望みだった。

 ――このままずっとこの人と、こうしていられたらいいのに。

 それはまるで淡く儚い刹那の願いのように。



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