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6章 錦秋
3 告白
しおりを挟む翌日、緊張はあったものの自分の学会発表は予定通りに進み、気付けばあっという間に終わっていた。
昨晩ホテルでプレゼンを何度も見直し、準備万端で臨んだのがよかったのかもしれない。また須藤が前日会場に連れてきてくれたから、本番のイメージがついていたのかもしれない。
質疑応答の時間に著名な先生からの質問があったものの、須藤に言われ想定質問を準備しておいたおかげで、無事切り抜けることができたのだった。
そうして自分の発表が終えた優人は、須藤の講演が行われる大ホールへと向かった。無心でとにかく急いでいたので、通りすぎた人たちから何事かと思われただろう。
ちょうどこちらに歩いてくる姿が見えて、優人は思わず叫ぶ。
「……須藤さん!」
それに気付いた彼と目が合い、晴れやかな笑顔で迎えられた。
「……無事、やり遂げたみたいだな」
秋の陽光が色づく葉を照らすなか、須藤が優人を連れてやってきたのは、大学近くの喫茶店だった。
建物自体が古く、半地下になっているからだろう。室内も薄暗く、レトロな昭和の雰囲気の漂う店だった。室内はパーテーションで区切られ個室風になっており、ほかの客の姿は見えなかった。
ジャズの心地いいサウンドが微かに響くなか、老齢のマスターが案内してくれたのは、奥の窓際の席だった。
「ごゆっくり」
マスターがコーヒーをふたつ置いていったあともしばらくふたりは無言だった。
そして優人が一口含んだあとだった。須藤は自分のものに手を付けずに静かに言った。
「……ここは、穴場なんだよ。実はこう見えてWi-Fiが飛んでてコンセントも使えるから、静かで作業がはかどるんだ。僕が学生時代に――」
「――須藤さん」
声は意外と響いた。
須藤とぱちりと目が合った後で、彼はふうっと息を吐いて言った。
「……ごめん。弱い奴で」
「……そんなことはないですよ」
須藤の顔は上部の窓から入る外の光に照らされ、どこか青白く見えた。
「……まず、あのゼミ合宿の夜のことについて話そうか。僕としては…………なかったことにして貰いたいと思ってる」
「……どういうことですか?」
優人は静かに声を荒らげた。
須藤の言うことが少しも納得できず理解できなかったのだ。あの晩に感じた熱も、心が繋がりあった感覚も。すべてなかったことにするなんてありえない――そう思った。
「俺は…………嫌です」
「……中谷くん」
優人は振り絞るように言葉を連ねる。
「俺は……確かにあの日、貴方に触れました。それは泣きそうになっている貴方を、あのまま見ていられなかったから。貴方が………………好きだから。貴方を心から愛しいと思っているから、俺はそうしたんです」
須藤の眼差しは、すべてを受け止めるように優しかった。しかし――。
「……ありがとう。でも僕には……人に愛されるような資格はないんだ」
「そんな……」
――愛されるような資格だって?
そんなものはそもそも存在しないだろう――そう疑問を抱いた優人は、思わず言ってしまった。
「それは……パートナーがいらっしゃるからですか?」
「…………ああ。そうだよ」
「――それなら!」
咄嗟に言うも須藤の身体がぴくりとしたので、優人は一度呼吸を整えてから感情を抑えるように言った。
「その人は……その痣のことを知っているんですか?貴方が傷付けられていることを……」
すると、須藤は目を逸らして恥じるようにぽつりと口を開いた。
「妻なんだ」
「…………え?」
「僕の妻なんだよ。この痣を付けているのは」
優人は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
あの酷い暴力の跡は、須藤の実の奥さんによって付けられた――その事実は優人にとって理解しがたいものだった。優人の地元の女性たちも旦那を尻に敷く強いタイプが多かったものの、そんな話は聞いたことすらなかったから。
頭が追い付かずにいる中で、須藤は淡々と続けた。
「いわゆるDV――家庭内暴力だ。ただ、誰に言っても信じてはもらえなかったけど」
「……そんな」
「世間一般では、女性が男性から受けるものだと思われているんだ。……実際そうだろう?男の方が肉体的には強いのだから、ありえないって。僕も一度相談したことがあるんだが、信じてもらえなかったよ」
そんな須藤の話を聞いて、優人は腑に落ちてしまっあ。
この人が何もかもすっかり口を閉ざしてしまった原因は、きっとここにあるのだと。
「……昔から、妻には兆候があったんだ。付き合ったのは博士のときだったけど、あの頃から精神的に幼く不安定だった。ちょうど僕が研究所に就職が決まって、妻も就職しようとしていたんだけどなかなかうまくいかなくて。……それからだ。ものに当たるようになって、次第に僕に当たるようになったのは」
話し続ける須藤の瞳には、何も映っていなかった。
「……自尊心の強い人でね。とにかく周囲をみては、自分を人と比べてよく見せたがった。ああ、子どものときもそうだ。友人と比べたんだろうな。自分だけ子どもがいないのはお前のせいだって言われて。そうして始めた不妊治療は…………あれは堪えたなあ」
「何故……逃げなかったんですか」
すると、須藤はバーで見たときとまったく同じ顔をした。すべてを諦めたような、あの悲しい顔を。
「妻の親がある学問の権威に位置する教授でね。影響力も発信力もある人だから、若い日の僕は怖くて少しも動けなかったんだ」
察した優人は青い顔をする。
「まさか……須藤さんがうちの大学にいるのも」
「はは。君のそういうところは説明が楽でいい。……そうさ。子育てに協力しろって言われて近い職場を探したんだけど、結局いいポストが見つからなくて。その間に、妻か勝手に実の親に連絡していて、気付けば知り合いだという室島先生の元に決まっていた。もちろん、僕の話は何も聞かれず勝手に、だ」
――なんてことだろう。
この人は大切にしていたキャリアもすべて、勝手に奪われてしまったのだ。
優しいこの人に付け入って、自分の事ばかり考えて、なんて最低な人間がこの世にいるのだろう。
優人の中で、ふつふつと怒りが込み上げた。
須藤はそんなことなど知らず、微笑みながら言った。
「……君を巻き込みたくはないんだ。君は僕にとって、闇のなかで輝くひとすじの光だったから。明るいところに連れて行ってくれる、学生だけど友人のような……至極特別な。だから、これまでずっと君に縋りすぎていたんだ。だから――」
気付けば優人は須藤の手を取り、その甲に優しく口付けていた。
「中谷……くん……」
「…………俺は、とっくに覚悟はできてるんです」
――とにかく、この人を助けなければ。
今、優人の頭にあるのはそれだけだった。
家族に危害を加えられ、誰にも助けてもらえない彼を、救えるのは自分以外にいるだろうか。
この人の抱えているものすべてを受け入れる覚悟は、もうとっくにできていた。あのゼミ合宿の夜に身体に触れ、愛を伝えたあのときから。
「貴方は俺にとって大切な人なんです。俺は……貴方のことが好きなんです」
その静かな告白を受けた須藤は、しばらくの間下を向いていた。そして顔を上げたと思えば、頬にひとすじの雫を輝かせて、微笑んだ。
「ああ…………僕も。僕もだよ」
手元のコーヒーはすでに冷めていた。
しかしふたりはそれを口に運んだ後で、静かに微笑みあった。
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