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8章 厳寒
2 自分の守るべきもの
しおりを挟む実家に着いてからも、誰とも話す気分にはなれなかった。
出迎えた祖父と祖母、そして母に適当に挨拶をしたあと、荷物を置いてくると言って彼らを振り切り、早々と自室へ向かった。
冷え切った廊下のさめざめとした空気が、肌に刺さり腹立たしかった。
薄暗い部屋に入ると、来ていたコートを床に放り捨てて、暖房も付けずに布団の中に潜り込んだ。
腹から沸き上がるようにこみ上げていたのは、燃え上がる怒りだった。それは父はもちろん、あの場で少しも言い返せなかった自分に対するもので――。
――絶対に言おうと……決めていたのに。
なぜ自分は簡単に流されてしまったのだろう。
父に先に口を出させてしまえば、ああなることは分かっていた。だから先手を切ったはずなのに、父に正論を続けざまに言われ、結局何も反論することができなかった。
なんてぶざまなのだろう。優人はスマホを手に、メッセージアプリを開いた。
――須藤さん……。
今すぐ連絡して、声を聞きたかった。
ただそうしたところで、自分は須藤に何を言おうとしているのだろう――そう優人は我に返った。
大丈夫、とあの穏やかな声で心配されたら、きっと泣いてしまう。それは余計な心配をかけることになり、もしかしたら口走ってしまうかもしれないのだ。
卒業した後も東京にいる予定だったけれど、いれなくなりました。来年はあなたと一緒にいられません、と。
――それは……無理だ。
あの人に直接伝えられるわけがない。悲しい顔をさせると、わかりきっているのだから。
そんなときだった。突然、部屋の扉を叩くノックの音が響いた。
母親かと思いすぐに起き上がるも、その声の主は入ってこず、扉の外からこう呼んだ。
「……兄さん。ちょっといい?」
それはふたつ下の弟、幹人だった。
「ああ、幹人か。どうした?」
「今少し話したいことがあるんだけど」
弟にそう頼られたら、断るわけにはいかなかった。
「……わかった。すぐそっちにいくよ」
隣りにある弟の部屋は、暖房が効いていて明るかった。
幹人は自分のデスクの椅子をこちらに差し出すと、自分はベッドの上に座って口を開いた。
「社長からさ……聞いた?」
「ああ。卒業と同時に戻ってこいって」
「……やっぱり。最近常務とその話ばかりしてるから」
常務とは母親のことだ。
幹人が父と母をこのように肩書きで呼ぶのは、自ら働きたいと言って高校卒業後すぐに会社に入ったからだった。
それを初めて聞いたとき、まさかと優人は信じられなかった。こちらが知らないところで、親たちに強制されたのかと思ってしまったのだ。
だから本人に聞いたものの、幹人は勉強が苦手だから丁度よかったのだと、笑っただけだった。
あのときはその言葉を信じ、優人は自分を納得させた。ただ今思えば、兄である自分のためなのではと思えてならなかった。
幹人は昔から兄である自分に対し、どこか気遣うところがあった。それは生来の優しい性格もあるが、この家に生まれ育ったからという後天的なものもあると思えた。
兄が昔からこの田舎で閉塞感を感じていたことを、弟は気付いていたのだろう。
幹人は昔から物わかりがよすぎるところがあって、優人はひそかに心配するほどだった。
少しだけ学校の成績に差があっただけで、幹人は優人を神のように尊重した。そんな風に「自分より兄」と自分を卑下し、自分の未来を自分で狭めるような姿を、優人は心配していたのだ。
――幹人は相変わらずだな。
ずっとこの田舎にいるから、昔のままなのだろうか――そう思っていた優人に、弟はぼそりと言った。
「嫌…………なんだろ?」
「え…………?」
「ここに戻ってくるのが、さ。よっぽどあっちでやりたいことがあるとか、それとも大切な人がいる、とか?」
その言葉に、優人はどきりとした。実際幹人の言う通りだったから。
修業を建前に卒業したあともあっちで須藤との毎日を続け、いつかあの人と――そんな希望を抱いていたのは事実だった。
そんな優人の表情を読んだのだろう。幹人はさらりとこう言った。
「なら、連れてきたら?俺は先にこの会社に入ったけど、やっぱりここで兄さんの代わりにはなれないって思ったよ。だからできるなら早く戻ってきて欲しいし、早く兄さんとこの会社を変えていきたいと思ってる」
その切実な言葉は、高齢化しつつある会社の内情から来ているのだろう。ようやく二十歳になったばかりのぺーぺーでは、まず一緒に働くことで精一杯だろう。
俺が来たって同じだろう――優人がそう思っていると、弟は続けた。
「だからさ、ここに一緒に連れて来たらいいんだよ。それで紹介して早く結婚しないと、すぐにお見合いさせられるよ?兄さんは……それでいいの?」
弟はそう言って心配の眼差しを向けた。
優人は何とかそれを受け止めて、笑みを作って感謝する。
「……ありがとう、幹人。よく考えてみる」
そう言って、部屋から出た後の記憶はなかった。
ただ気付いたときには自分の部屋にいて、闇の中で布団に顔を抑えつけていた。
「――――ぁっ――――ううっ……」
腹の底から溢れる強い思いは、嗚咽となって口から溢れた。
優人の心を強く嬲ったのは、目前に迫った現実だった。
――俺は、なんて馬鹿なことを考えていたのだろう。
あの人が自分のことを大切に思ってくれて、そしていつか離婚したところで、自分があの人と結ばれることは、絶対に叶わない。
いくら愛を誓っても認めてもらえず、自分は必ずこの牢獄のような場所に戻らなければならない。
だからあの人を愛して、あの人のために生きていくことは俺にはできないのだ。
そう思い、優人はあることに気付き、自分を嗤った。
――いや、違うだろう。
あの人に出会う前から――いや、自分がこの家に生まれたときから。あの人と一緒に生きる未来は、始めから存在すらしなかったのだ。
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