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9章 惜春
1 家族の存在
しおりを挟む季節がこんなにも残酷にすぎていくなんて――優人はそう実感しながら、卒業までの日々をすごしていた。
大学行事の最後を締めくくるのは、卒論発表という研究発表だった。ただそれは気付けばあっという間に終わっていて、卒論の提出も同じだった。
周りが最後まで苦しむ中、悠々と終えたにも関わらず何故か終わった気がしなかったのは、須藤とのことがあるからだと思えた。
須藤はというと、あの日目の前に酷い顔をして現れて以来、すっかり落ち着いたように見えた。
ただ、優人のワンルームに泊まる回数が以前よりも増え、そのたび身体を求めてくるようになった。
「中谷くん」
須藤はいつもそう呼んで、食事の片付けをする優人の腰に触れた。それが彼の精一杯の甘えなのだと気付いたとき、優人は頼られていることに嬉しくなった。
それはどちらかというと優越感に近いもので、無意識のうちに、須藤の周りにいる見えない誰かに対抗していたのだ。
この人を喜ばせて安心させてあげられるのは、俺しかいないのだ、と。
そうして身体ばかりが交わる日々の中で、ふたりが交わす言葉は、以前よりも確実に減っていた。
互いが踏み入れられない領域を察して足を止めるように、ふたりの間にはしばし沈黙が流れるようになった。
優人はもちろん須藤に聞きたかった。
あんな顔をさせた原因――自分が年末年始に帰省している間に、何があったのか、と。
もちろんそうできずにいた理由は、優人も同じように須藤に言えない秘密を抱えていたからだ。
自分は卒業後すぐに地元に帰ることになった――そう何よりも早く伝えなければならなかったのに、このときにはもう完全に言うタイミングを失っていた。
ふたりはそうして互いに秘密を抱えたまま、流されるように関係を続けていたという訳だ。
きっと互いに気づいていたのだと優人は思っていた。
ただそうして見て見ぬふりをしていたのは、互いにそれが大人の対応であると思っていたのだろう。
ある日、優人が研究室に訪れて、次の四年生のために席を片付けようとしていたときだった。
「おう、中谷くん、いま時間ある?」
突然室島に声をかけられ、ちょいちょいと手を振られ呼ばれたので、それに従い彼の個室へ向かう。
「失礼します」
来客者のために用意された椅子に腰かけると、室島は以前と同じように、お菓子を差し出して何故か得意げに言った。
「やっぱり、僕の言ったとおりだっただろう?」
「……はい?」
何を言われているかわからずにそう聞くと、室島は笑って答えた。
「ほら、君が研究テーマを変えたいって言ったとき、僕、須藤くんに見てもらえって言ったろう?」
「……ああ、あのときの!」
「結局、君の学年で一番スムーズに卒論が終わったのは君だったって訳だ。須藤くんのおかげだな」
そう言われれば、三隅をはじめ同級生の皆は今も苦戦している最中だった。
確かに須藤に師事したおかげで学業上苦労はしなかった、そう思えた。
――まあ、別のいろいろなことで悩むことになったけど。
ただそれは自分の範疇なので、室島には関係がない。優人がそう思っていると、不意に室島にこう聞かれた。
「須藤くんさ、最近元気?」
「え、はい。元気ですけど……」
そう答えたあとで、優人は室島の質問が須藤のあの表情に繋がっていることに気付いた。
だから興味を抑えられずに口を開いてしまった。
「あの、少し前に酷い顔をしていたので心配していたんですけど……何かあったんでしょうか」
「……うーん、ちょっとね。少し前にいいパーマネントの公募が出たんだけどさ、嫁ブロック食らっちゃって……諦めることになったんだよね」
「……そんな」
公募というのは研究職の募集のことだ。
その中でもパーマネントは終身雇用を意味し、大抵の研究者に雇用期間がある中で、非常に珍しく人気もかなり高い。
「君は分かると思うけど、須藤くんなら教授クラスで登用される実績を持っている。今回は専門もぴたりだったし須藤くんの母校でもあるから、出せば通る確率が高かったんだけどね。深くは聞かなかったけど、あそこは嫁さんがクセ強で……」
「……そうなんですね」
顔も知らない須藤の伴侶に対し、どす黒い感情が沸き上がる。
――あの人の中でどれだけ研究が大切なのか、少しもわかっていないんだ。
なぜそんな人間が彼の人生の隣りにいるのだろう――優人の困惑を、どうやら室島は悟ったらしい。諦めたように笑ってこう言った。
「……まあ、誰にとっても家族あっての自分だからな。どうしようもないんだ」
室島との面談を終え自分の席に戻ったあと、優人は思った。自分が選べない誰かのために生きる意味はなんだろう、と。
――ひとりで選んで、ひとりで生きていけたらどれだけいいだろう。
思い浮かんだのは自分を縛り付ける家族の顔だった。
実は優人は少し前に、父親に再度連絡していたのだ。
それは内定先に辞退の連絡をいれる直前、そもそもこんなぎりぎりになってから非常識ではないか、そう思ったからだった。
どうにか、決まっている内定先にこのまま入社して、三年くらいはいられないか――そう頼み込んだものの、父はもう決まっているから無理だと言うだけだった。
そのあとで、助成金だとかこちらがわからないことをぶつぶつ言い、聞き分けの悪いやつだと静かに罵倒した。
いま胸の奥で静かに燃え上がる怒りは、そのときとまったく同じだった。
自分の人生に失望し、すべてのしがらみを捨てて、自分が一緒にいたいと思う人のために生きられたら、どれたけいいだろう。
ただ、そう思うたび現実が迫るのだ。
戻ってきて一緒に頑張ろう――そう自分に願った弟の顔がふっと浮かぶ。
まるで逃げ道を塞ぐように。
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