【完結】まほろばに鳥はもう来ない

上杉

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9章 惜春

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 研究室の私物をひととおりまとめ、帰ろうとしたときだった。

「おつかれー」

 廊下で後ろから声をかけてきたのは立石ありさだった。どこかすがすがしい表情で駆け寄ってくる彼女に、すっかりやるべきことが終わったのだろうと納得する。

「……お疲れ」

 優人がそっけなく返したときだった。立石はこちらを見てなぜか少し笑みを浮かべながら、ぼそりと言った。

「……ねえ。卒業っていう晴れ晴れとした感じとはまるで逆の酷い顔してる理由、あたしに教えてよ」


 その日は須藤が出張で不在だったこともあり、急遽立石と飲みに行くことになった。こちらの事情をよく知る彼女は、今の優人にとって願ってもないありがたい存在だった。
 ただシラフでは話せないと思ったので、学生で込み合うチェーンの居酒屋に行くことになった。
 ハイボールを頼んで小さく乾杯したあと、ひととおり注文したものの皿が並んだあとで、立石は口を開いた。

「三隅くんから聞いたんだよね。内定辞退するかもって」

「……まずその話か」

 先日、研究室で休憩中の三隅に声をかけられ、話すことにしたのだ。
 三隅は地元が同じでこちらの内情をよく知っている。案の定、しょうがないと言われたが、まさかこの話が立石に話が及んでいるとは、思ってもいなかった。
 いきなり本題に向かうところが彼女らしい――そう優人が思っていると、立石は静かに言った。

「……あたしはね、本人が選んだなら別にいいと思うんだ。確かに内定先からしたら、優人は伝説の内定辞退者になると思うけど。誰にだって事情も考えもあるし、ね」

 その比較的柔らかな言葉に促されるように、優人は思っていることを口にする。

「……今も正直、迷ってるんだ」

「……うん」

 立石は珍しく、そう頷いて聞くだけだった。
 たたそれが優人にとってありがたかった。言葉はぽつりぽつりと出て、次第に束になって流れ出る。
 あのひとを守りたいこと。
 でも自分にはできないこと。
 自分には守るべきものがあって、同じように須藤にもあること。
 だから、彼の気持ちも十分にわかること。
 彼の家族にとって、あの人がかけがえのないひとであり、たったひとりの父親であるから。
 自分が会社と従業員を見捨てられないように、彼もきっと家族を捨てられないということ。

「――だから……別れようと思っているんだ。それも、一方的に跡形もなく目の前から消えて」

 ――まるで、自分の存在がまぼろしだったかのように。

 人としてあり得ないって、絶対に非難されるだろう――優人がそう思っていると、立石はジョッキを置いてこう言った。

「偉いよ」

 まさかそう言われると思っていなかったので、優人は声を荒らげる。

「……なんで?褒められたことじゃないだろ?人の気持ちを裏切って最悪じゃないか。俺は自分に誓ったのに……あのひとを守るって」

 優しくて、面倒見がよくて、研究者としても優秀で、大好きなあの人。
 そんなかけがえのない大切なひとの笑顔を、これから自分が奪ってしまうのだ。
 笑っていてほしいと自分自身が願ったはずなのに。
 なんて矛盾しているのだろう――そう優人が悶々としていると、立石は微笑みながらこちらに強い眼差しを向けて言った。

「……でも、選んだんでしょ。あたしが褒めてるのはそこ」

「え……?」

「人生は選ぶことで成り立っているっていうじゃん。与えられた選択肢のどちらかを得て、どちらかを捨てる。それはこれからも生きていくうえで一生続いていくんだよ。物事の大きさは異なれど、ね」

「…………」

「しかもさ、その選択に答えはなくて、結局いつまで待っても答えは出ないんだよ。正解だと思っていたものでも、あとで間違えたと思うこともあるし、失敗だと思っても、それがよかったと思う日が来るかもしれない。だから今、納得できるほうを選ぶしかない。そう思わない?」

 立石の言葉はすっと胸に響いた。
 人生において、どちらかしか選べないなんてことはこれまでもざらにあった。
 そしてそのどちらが正解だったかなんて、結局わかっていない。だって答えはいつまで待っても出ないのだから。
 それはこの世界の真理のように思えた。

「――だからあたしは、優人が選んで決めたならそれでいいと思うよ。あたしはさ、優人ならきっとそっちを選ぶと思ってた。悪く言えば頑固で、よくいえば筋が通ってる中谷優人なら」

「…………冷酷な奴だろ」

 そうほくそ笑むと、立石は軽やかに笑った。

「あはは。そうかなー。むしろ悩む優人を見てると、人の心があったんだなーって感慨深いけどね。あたしの知るひと昔前の優人だったら、選ぶ時間すら無駄って、一刀両断しそうだから」

「………そっか」

 確かに、昔の自分――須藤を知る前の一年前の自分なら、いとも簡単に選び、そして軽やかに切り捨てただろう。
 この一年ですっかり自分が人間らしくなって、そして盲目になっていたことに気が付いた。
 立石はテーブルの上の揚げ物をつまみながら、不意にこう言った。

「でも、あたしがわかるくらいだから、そもそも相手も察しているかもしれなくない?」

「そんな……」

 思わず反射的に言ってしまったのは、確かにそのとおりかもしれないと思ってしまったからだった。
 鋭い観察眼で、淡々と物事を見ることのできるあの人だ。中谷優人がどんな判断をするのか、何を考えているのか。察しがついている可能性はあった。
 だからこそ最近は無言で、意識的に何も言わないようにしているとも思えた。

「……確かに、それはあるかもしれない」

「うん、なら――」

「……怖いんだ。言えないんだ。……もし言ってしまったら、離れられなくなってしまいそうで」
 
 現実から逃げている、それは人としておかしい、そう非難されてもおかしくなかった。
 ただ、今の自分は理性で自らを抑え、未来を選ぼうとしていた。だからあの人に向き合ってしまえば、自分が何をしでかすか分からなかった。
 すると立石は何故かにやにやしながら言った。

「はー、あの合理主義男の優人君がねえ……」

「俺も、まさか自分がこんなになるなんてって思ってるよ」

 自嘲気味に答えると、立石は再びジョッキを取り、優人のものにカツンと当てて言った。

「……まあ、今日は飲もうよ、卒業祝いということで。これから会えなくなるし、最後ってことで、思う存分話聞いてあげるから」
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