【完結】まほろばに鳥はもう来ない

上杉

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9章 惜春

4 最後の日

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 晴れ渡る空の広がる、穏やかな朝だった。
 最後の一日は、淡々と幕を開けた。

 この日、須藤との待ち合わせは午後だった。
 というのも本人はつい先日企業との共同研究を決め、その打ち合わせで直前まで長期出張に行っていたのだ。
 大学と企業のコラボレーションとなるこの研究は、須藤の念願だったらしい。だから、表向きはそれが叶ったお祝いとして、食事の約束を取り付けたのだ。

 そういう訳で、引っ越しのタイミングを伺っていた優人は、思わぬ運のよさに安堵した。
 須藤が出張中の一週間に部屋の荷物をまとめると、今日の午前中にはきれいさっぱり空にして、退去の手続きも終えたのだ。荷物が少なかったのもあってスムーズに進み、残りはリュック一つに収まってしまった。
 そうしてふたりが戻る場所はついに失われた。
 優人は空になった部屋に一度も視線を向けることなく、四年住んだその場を静かに後にした。

 須藤さんが好きそうな店、探しておきます――そう言って予約したのは、本格的な懐石料理が楽しめるという和食の店だった。
 個室があり、静かに二人時間をすごせ、極上の酒と同時に料理も楽しめるここは、最後を締めくくる場所に相応しいと思えた。
 約一年前、初めて一緒に酒を飲んだ場所は、こことは比べものにならない安居酒屋だった。
 学生たちの負担にならない歓迎会にはもってこいのあの場所は、今思えばすべての始まりだったと、優人は思う。
 すでにあのときには、須藤から心の壁を感じることはなくなっていた。しかし酒を片手に目が合うことは一度もない、そんな空気感だった。
 けれどふたりの間で話題は途切れず、絶えず穏やかな時間が流れていた。波の中にたゆたうようなあの心地よさを、ずっと味わっていたいと思った。
 だから終わる間際に声をかけたのだ。ふたりで二次会行きませんか、と。
 そうして始まったんだ――優人はそう思いながら、正面に座る須藤の視線を感じ思わず聞く。

「須藤さん、どうしました?」

「いや、君……今日やけに静かだなと思って。何かあった?」

 目的の店に辿り着き、個室に案内されたあと。メニューを手にしたまま須藤はそう首を傾げて聞いた。
 彼の視線はもうあのときとは違い、痛いほどぴったりとこちらに向けられていた。
 優人はそれを自然に躱しながら、話題を須藤の共同研究の方へと持っていく。

「……いや。須藤さんがどんどん俺の手の届かないところへ行ってしまう気がして、感慨深いんですよ」

 実際、それはそうだったので思ったまま告げると、彼は微笑みを向けた。

「君のおかげみたいなものじゃないか」

「え?」

「……いや、忘れてくれ」

 その言葉尻とは裏腹に、口調はとろけるほど優しかった。
 わかっているだろう、そう同意を求めるような口ぶりに、優人の中でこれまでの日々が蘇る。
 思わず胸にこみ上げるものを必死に抑えながら、平静を装って高らかに聞く。

「……えー、教えてくださいよ!俺のおかげってどういうことですか?」

「……わかっているだろう?さ、機嫌も戻ったようだし、食事を楽しもうか」

「ははは。何言ってんですか。俺は最初っからご機嫌ですよ」

 注文した日本酒が運ばれて、ふたりはそれを注ぎあってかちりと乾杯した。内容はもちろん、今回の須藤のプロジェクトの成功と発展を願って。
 実際、今日の須藤は至極饒舌だった。
 今回の研究については、昔から力を入れていると事前に聞いていたので、こうなるだろうと優人は予想していた。
 だから彼の口からこちらの卒業について、話題になることはないと踏んでいたのだ。
 そもそも須藤は、明日が変わらずに訪れると思っている。だから言うとすれば、きっと明日の卒業式後で、「かりそめの別れのことば」を皆の前で口にするつもりなのだろう。
 だから今日のことも、きっとこれから続いていく、あまたある一日のうちのひとつだと思っている。
 優人にとってはそれで十分だった。

 いい気分で食事と日本酒を楽しんだ後、会計を済ませると須藤はこう言った。

「今日は特別な日だし……そこで一杯やっていこう」

 指を差した場所は、以前二次会にと須藤が連れてきてくれたバーだった。
 つまみとドリンクを適当に注文する須藤の脇で、優人は嬉しくなった。
 予定になかったこの場所は、はからずも一年前の春とまったく同じだったのだ。老齢のマスターが静かに酒を作る姿も、手元だけを静かに照らすスポットライトが、ぼんやりと輝く光景も。

 ――須藤さんも、出会った頃のことを思い出してくれているのだろうか。

 ちらりと脇を見やると、ほのかに赤く頬をそめた須藤の顔が見えた。
 そのぼんやりと照らされた優しい笑顔を、優人は脳内に焼き付けながら思った。

 ――これからもどこかへ行くたび、きっとこうしてこの人のことを思い出してしまうのだろう。
 
 提供された酒を口に含み、今のほうが飲みなれているはずなのに、なぜ味がわからないのだろう――そう思い、優人は気付く。

 ――ああ、もう終わりなんだ。

 須藤とすごすふたりの幸せな時間。
 永遠に思えていたその終わりが、ついそこまで迫っていることに、優人はようやく気付いたのだった。

 
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