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2章 懐かしい風景
4 翡翠の泉
しおりを挟む川沿いの側道をしばらく歩くと、大きな橋の下へ出た。
もしかしたら車だと中心部からすぐなのかもしれない――そんなことを思いながら、瑞生は橋の下を歩きくぐり抜けていく。
天紋岳と呼ばれる山のふもとだけあって、傾斜はややきつかった。
ただ道路が舗装されていること、そしてすぐ脇に木が生えていて木陰が続いていることが、救いだった。
瑞生はふと足を止め、垂れる汗をタオルで拭きながら水を一口飲む。そうしてぱっと振り返ってみると、視線の遥か下には青い河口が見えた。
どうやら川沿いを伝ってかなり登ってきたらしい。ただ進行方向には、相変わらず高さの変わらない山が立ちはだかっていた。
――一体、どこまで歩けば辿り着くのだろう。
瑞生は少し怖くなった。
目的のあの泉がこの先の山の中にあるというのなら、到着するまでまだまだ時間がかかる。それにもしそうであるなら、こんな軽装では到底無理だろう。
出直さないといけないかもしれない――そう瑞生が思ったときだった。
少し先の道の木立に、一か所だけぽっかりと穴があいたところを見つけた。
不思議に思い、急いで駆け寄りそこを覗いてみる。すると森の奥へ細い道が続いているではないか。
そこは舗装されていない、大人ふたりが並んで歩けるほどの幅しかない小道だった。山道ではあるものの踏み固められているようで、獣道というわけではない。
瑞生はどくんと胸が高鳴るのを感じた。
ここだけがまるで異質に見えた。道の中の静けさはもちろん、なぜか入口から小道へと吸い込まれるように風が吹き込んでいたから。
肌の表面を何かがなぞるように、ぞわぞわと鳥肌が立つ。
――きっと、ここだ。
そう思いながらも、身体を襲う恐れにも似た感覚に、足が止まってもおかしくなかった。
なのに瑞生が気付いたときにはその中へ進んでいた。本人も気付かぬうちに、まるで何かに呼ばれるような、不思議な感覚を抱きながら。
木々の中を歩いていくと、ありのままの自然が広がっていた。
日本の原生林なのだろう。生き生きと無造作に枝を伸ばす木々は、自然の天幕のように思えた。
頭上いっぱいに葉を広げ、そのあいだからは光が差し込み、夏にも関わらず涼しい。
瑞生の中でこの道が記憶の中のあの泉に繋がるという確信はなかった。
ただ、たちこめる森と土の香り、そして落ち葉で覆われた柔らかな地面を歩く感覚は、まさに心を震わせる懐かしいものだった。
――大丈夫。さっきのおじいさんも言っていた。あの泉はきっとこの奥にある。
そう思いながら、ひたすら前へ前へと足を進めていた。
瑞生はそんな穏やかな静寂の中で、少しずつ自分の感情が変化していることに気付いていた。
さっきまで早く辿り着きたいという強い思いがあったはずなのに、その衝動に突き動かされてここまでやってきたはずなのに。
それらが今自分の中で、ぽっかり消えていることに気付いた。
――なんでだろう。
ずっと、ここに来るのを楽しみにしていたはずなのに。あれだけわくわくしていた心は一転、今はすっかり落ち着いている。
しかも、それは心の話だけではない。
ここを歩いていると、夏にも関わらず少し肌寒さを感じるのだ。
背がぞわぞわし、それはまるで刃を突き立てられるあの悪夢を思い起こさせ、少しだけ恐怖を感じた。
瑞生は思わず胸の翡翠の勾玉を握りしめた。
――大丈夫。俺はずっとここに来たかっただろう。
そうして、坂を上ったところだった。
森の中なのにぱっと空間が開けた――そう思った瞬間――。
瑞生の目に入ったのは、人影だった。
こちらに背を向けていたのは、ひとりの青年だった。
顔は見えなかった。ただピンとした背筋は思わず見入るほどで、武道か何かをたしなんでいる様子をうかがわせた。
身につけているのは学生服だろうか。
はりのある白いシャツに厚手の黒いスラックスを身に着け、髪は生まれたままの黒髪を短く整えている。
年の近い、若い人影に瑞生は驚いた。
――こんなところに、人がいるんだ。
そう思った瞬間だった。
鬱蒼と茂る木立の中にも関わらず、突然風がぶわりと吹いた。
「うわっ」
木々が揺れ、木の葉が飛び、ざわざわとした音を立てる。
それが落ち着いてようやく瑞生が目を開けたとき。人影は振り返ってこちらを見ていた。
森の中でこちらに向けられたまなざしに、瑞生は驚いた。
はっきりとした顔立ちのな中で意志の強さを感じるきりっした眉。そしてその下に瞳が輝いている。
まるで見たものすべてが吸い込まれてしまうような、漆黒の深い色の瞳。それが今、驚きに見開かれていた。
目が合った瞬間、瑞生も固まってしまった。
なぜか声が出ず、まるで息すらも止まったようだった。
その代わりだとでも言うように、身体の内側からこみ上げたのは、とてつもない悲しみだった。
そして同時に身体を貫くような痛みがあり、そんなむせ返るように重たい感情に、瑞生は思わずしゃがみこむ。
そうして下を向いたときだった。瑞生は自分の頬をつうと流れる雫に気付いた。
――え……なんで?
それは自分の目から流れる大粒の涙だった。
何のために流れているのかよくわからない上、今身体を激しく貫く悲しみに、瑞生は動揺する。
途端、瑞生の意識はなぜか朦朧とし始めた。
やがて霞がかった視界の奥から、青年が近寄ってくるのが見えた。
その黒い瞳をぼんやりと見、意識を手放しながら瑞生は思う。
まるで黒曜石みたいに綺麗な色をしている、と。
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