【完結】かつて仕えた水神の貴方を現世では幸せにしたい 〜翡翠と大蛇~

上杉

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5章 ふるさとの日々

5 もうひとつの翡翠

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「瑞生どうした?」

 会計を終えた周吾にそう声をかけられ、ぼんやりとしていた瑞生は、はっとする。

「ごめん、なんでもない」

「そっか。じゃああとは買い物くらいだけど、何か必要なものとかある?」

「今のところ、大丈夫かなあ」

 泉へ向かったときは、最低限の荷物だけ持ってそれ以外は祖母の家に置いていた。先ほどそれらはすべて回収し終えたあとで、必要なものは全て鞄の中に入っていた。
 だから、時間があるなら街の中を少し歩いてみたい――普段の自分ならきっとそう思うはずなのに。
 なぜか、早く帰りたいという漠然とした思いが自分の中で強くなっていた。

 ――なんでだろう。
 
 そう思い返すと、やはり先ほど焼肉屋で、あの視線を浴びてからだと思えた。
 穏やかなはずの眼差しの中に込められていた、どこか妖しい感情。
 それに気付いてから、自分の身体と心はぽっかりと離れてしまったような、不思議な感覚に陥っていた。
 瑞生は、不意にこちらに向けられている、周吾のふたつのまなざしに気付いた。
 それはいつものとおり真剣で、しかし確認するように覗き込まれて、いつもより距離が近かった。

「な、何?」

「……ねえ、瑞生、具合悪い?」

「え?」

 どうやら、周吾もこちらの異変に気付き、心配してくれているらしい。
 ただ、その手はこちらの手首をきゅっと掴んでいて、まるですぐにでも病院に連れていきそうな勢いだった。
 体調が悪いというわけではなかったので、瑞生は周吾の手を優しく話すと、落ち着けるために口を開いた。

「いや、大丈夫。そういうわけじゃないんだ」

「そうか。でも、さっきより顔色が悪い気がする。とりあえず今日は帰ろう」

「うん、ありがとう」

 そうして周吾に言われるがまま、ふたりはやってきた周遊バスに乗り込んだ。
 空調の効いた車内は、こちらに来たときとは違い、人の姿がちらほらあった。
 一番後ろの席にふたりで陣取り、背もたれに身を預ける。
 大きな車窓からはまちの色鮮やかな景色が見え、みるみる流れていく。しかしその間もあの視線が焼きついたように、目から離れなかった。
 初めて会ったはずなのに、前にも感じたことのあるような、恐れを感じる眼差し。
 それはまるで笑顔の殺人鬼と相対し、包丁を向けられたような感覚だった。
 思い出した途端、瑞生の身体はぶるりと震えた。
 そしてあの背筋に走った寒気のような感覚が、今は足がすくむような恐怖に変わっていることに瑞生は気付いた。

 ――あの人は、一体何者なんだろう?

 瑞生はそう思い、ふと隣の周吾に聞いてみる。

「……ねえ、周吾。さっき、お店で声をかけてきた人って」

「ああ、高柳たかやなぎさんか」

「そう、その人」

「あの人は、同じ高校の一つ上の先輩なんだ。ここらへんじゃ由緒ある豪農の歴史ある家の生まれで、じいちゃんと知り合いだから昔からの付き合いがあって。あの人、今は生徒会長してるんだけど、その流れでお前生徒会入らないかってうるさいんだ」

「……そうなんだ」

「悪い人ではないんだけど、飄々として癖のある人ではあるんだよな」

「うん……俺もそう思った」

「だろ?人のペースを乱してくるんだ。だから、あんまり関わらないほうがいい」

 周吾はそうさらりと言って、どうでもいいことのように、窓の外へ視線を向けた。
 その反応に、瑞生はどれだけほっとしただろう。あの男が周吾の友達であったらと思うと、ぞっとした。
 しかし、なぜ自分が初めて会った人に対して、そんなにも嫌悪感を抱いているのかは、よくわからなかった。

 バスは市街地を抜け、海岸線をすぎて山の中へと戻ってきた。
 その頃には車内には人はもうすっかりいなくなり、ふたりだけになっていた。
 最寄りのバス停で降りると、相変わらず夏の熱気は立ち込めていた。しかし日陰だからだろうか、市街地よりも涼しく感じられた。
 それでも、瑞生の視界はなぜかもやがかかったように霞んだ。
 
 ――……なんでだろう。

 午前中は、なんともなかったはずなのに。
 何とか周吾の後ろを歩き、瑞生は青海家に帰ってきた。
 丈司はまだ仕事なのだろう。家には誰もおらず、玄関を開けて中に入った瞬間、猛烈な熱気に襲われた。
 ただいまという周吾に続き、靴を脱いで玄関に上がる。
 しかし、途端に瑞生の身体は限界を迎えてしまったらしい。まるで強い熱気に、一瞬で身体がやられたように、足が震えて身体に力が入らなかった。
 このままでは倒れてしまう――瑞生がそう思ったときだった。

「……瑞生!」

 叫びにも似た声が響き、気付けば周吾の腕に抱きとめられていた。
 がっしりとした身体が全身を受け止め、汗で湿った肌同士がかすかに触れ合い、ひやりとした感覚があった。
 また世話になってしまった――そう瑞生は申し訳なくなって、小さな声で言う。

「あ、ああごめん。少しくらっとして……」

「大丈夫。水持ってくるから、待ってて」

 周吾がそう言い、身体を離そうとした時だった。

「――待って!」

「え?」

 瑞生は、自分がなぜそう口走ったのか、よくわからなかった。
 しかし、考えるよりも先に、手が彼の腕を掴んで離さなかった。
 瑞生は周吾の腕に抱かれたまま、なぜか心が穏やかなもので満たされていることに気付いた。
 それはまるで、抱きしめられているほうが自然だと思えるほどで。自分を支配していたはずの強い恐怖は徐々に薄れ、感覚が四肢に戻っていく。

 ――なんで、こんなに落ち着くのだろう。

 そうして身を委ねようとしたときだった。

「…………瑞生?」

「ん……ああ、ごめん!」

 瑞生ははっとして立ち上がり、そして身体を離した。

 ――自分は今、何をしようとしていたのだろう。

 そう我に返り、ぞっとした。
 まるで自分から周吾に抱きつくように手を伸ばして、その腕の中でまるで眠るように目を閉じてしまった。
 突然、同年代の男にそんなことをされたら、ひかれるに決まってるだろう。
 瑞生はそう思い、おそるおそる顔を上げた。
 周吾はというと、なぜかさっと頭を下げると静かに言った。

「こちらこそごめん、汗臭かっただろ」

「いや、そういうわけじゃ……」

 そうして顔を上げた周吾とは、少しも目が合わなかった。
 まるでこちらを見たくないかのように、くるりと振り返って言う。

「俺、シャワー浴びてくる」

 そしてそのまま、ひとり廊下の奥へと向かってしまった。

「周吾……待って!」

 思わず追いかけるも、脱衣所にたどり着いたときにはもう遅かった。
 浴室の扉は閉められていて、水の流れる音が響き渡っていた。

 ――嫌だったからじゃ、なかったのに。

 まるで拒絶するようにぱっと身を離したことが、逆に周吾に誤解されてしまったかもしれない。
 目が合わずに逃げるようにシャワーを浴びはじめた周吾を前に、そう瑞生が落ち込んでいたときだった。
 何かきらりとしたものが視界に入ったのは――。
 見れば、洗面台の脇に、輝く緑――翡翠の勾玉が置かれているではないか。

 ――えっ。

 ひと目見た瑞生は驚いた。そしてとっさに自分の胸に手を当て、首の紐を引っ張る。
 出てきたのは、まるで同じ勾玉に見えた。
 大きさも、艶々とした表面の輝きも、そして色合いも。
 若干、置かれているもののほうが色が淡いだろうか。それでも、ほぼ同じものであることに違いはなかった。

 ――なんで、同じものを持っているのだろう。

 瑞生はそう思い、そして気付けば手を伸ばし、それに触れていた。
 その瞬間――。
 ぱちっと弾けるような振動があり、そして瑞生の目の前に蘇ったのは、青年イスルのあの夢の光景だった。

 自然に覆われたムラとクニ、そしてそこで生きる人々。
 現人神と呼ばれる、白銀の髪を持った、人間離れした様相の兄弟。
 そして――。

『……そなたには関係なかろう』

 ――ああ、そうだ。

 瑞生はひとり納得した。
 自分に向けられた恐ろしい瞳の既視感の理由。
 それは、あの不思議な夢の中でイスルに向けられた、ヤオギノカミの目だったのだ。
 不意に、瑞生は不思議に思う。

 ――ならなぜ、今、突然あの夢が鮮明に蘇ったのだろう。

 自分の中では、少しずつ霞みつつあったあの夢の光景。
 それが今、目の前にありありと浮かび上がったのは――。

 瑞生はごくりと息を飲み、そそくさと脱衣所をあとにした。
 その頭をいっぱいにしていたのは、夢の中の青年が、この勾玉の秘密そのものである可能性。
 そして、もうひとつ。
 勾玉の存在を知りながら、自分に教えなかった周吾。彼も何か大切なことを隠しているということだった。
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