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7章 水神の記憶
2 あの少年
しおりを挟む雨が降り、乾いた大地がすっかり潤いで満たされたあと。
ホスミノヒメの使いがやってきたのは、すぐのことだった。
はじめ、オオテキヌシは戸惑った。
自分は約束を破り、人の前に姿をあらわしてしまった。
そして恨みを引き受けなければならないはずの自分が、人の願いを叶えてしまった。
さらに、旱魃を傍観するはずだったのに力を使い、雨を呼んでしまったのだ。
それらのすべてが、確実に理に反する行為だった。
どれだけの非難を浴びるだろう――そんなオオテキヌシに対して使いの鳥が発したのは、怒りではなく、まるで誘うようなホスミノヒメの言葉だった。
『面白い子が私のもとにいる』
オオテキヌシは、信じられずに耳を疑った。
しかし、それは確実にあの少年――遠路はるばるやってきて、自分の名を呼んだ少年イスルを示していた。
雨を呼んだあのあと。少年は願いを叶えた代償にと、自らを捧げようとした。
だから、とりあえずとオオテキヌシは彼と適当な約束を交わしていたのだ。この場所にまた来いという、よくわからない約束を。
それはきっと忘れられてしまうだろうとあまり期待していなかった。
なのに、まさか彼の記憶に残っていて、しかも必死に叶えようとしてくれているなんて。
オオテキヌシは想像もしていなかった。
だから、勢いのままに姉に使いを飛ばし、ムラへ降りたのもしょうがなかった。
姉――ホスミノヒメに願うと、一度だけ泉を離れることを許してくれた。
こちらのつまらない毎日を察したのか、それとも、依代である勾玉を少年に預けたことを見て、自暴自棄になったのだと哀れんだのかは、わからない。
オオテキヌシはそんなことなど気にせずに、すぐさま小さな白蛇に姿を変えると、するする川を下っていった。
ホスミノヒメのすまう社に、少年イスルはいた。
そこで現人神に仕えるために、日々修行をしているらしい。
カミへの礼拝、狩猟、捧げ物の用意の仕方など。それらは、オオテキヌシにとって形式張ったように見え、心底どうでもいいものだった。
しかし、ほかのカミたちは、形が整っていてようやく人を認識するものだ。
そういう理由で、自分に仕え、あの森にすまうカミたちに受け入れてもらうためにも、必要なことだと思えた。
必死に励むイスルを見たあと、オオテキヌシは白蛇の姿で川を上りながら、自分が不思議と満たされている気がした。
身体が地から浮いているような、どこかふわふわとした気持ち。そんなにも自分が浮ついているのは、きっとイスルのおかげなのだと思えた。
これまで、泉の中ですごしていた毎日は、酷く単調だった。
日が何度沈み、何度昇ろうが、自分の存在意義は変わらない。ただそこに在るだけだった。
それが、彼と出会い、すでに変わろうとしていた。
オオテキヌシは、自分の内に訪れた変化に驚いていた。
これまで、時の流れなど気にしたことのなかった自分が、日々を数えている。
そして、未来のことを考えているではないか。
いつか、イスルがここにやってきたら。
あの無垢で純粋な眼差しと向かい合って。
そしてふたりで対等に言葉を交わしあうのだ。
イスルがいれば、毎日はきっと楽しくなる。
水面に波紋がすっと広がる様に。彼の存在がこの森のすべてを変えてくれるだろう。
つまらないひとりの日々は去る。
そして自分も皆のように、誰かとわかちあえるようになるのだ。
喜びや、悲しみ。そんな新しい感情を知って。
自分も人のように、生きていくことができるだろう。
それから、あともう少しと、何度繰り返しただろう。
次に、花が咲くころには――。
いや、日が燦々と照り付ける頃には――。
やっぱり、山が赤く染まる頃には―――。
きっと白い雪が降り積もる頃には――。
そうしてオオテキヌシが、待ちわびていたときだった。
姉の使いが現れ、いよいよかと思った矢先のこと。
使いが口にしたのは、大和という侵略者の名だった。
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