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7章 水神の記憶
1 光と陰
しおりを挟む水のようにありなさい、そう言ったのは姉だった。
それがいつのことだったかは、まるで記憶にない。
カミに等しい存在の現人神は、生まれもせず、死にもしない。気付いたときにはそこに在り、人とカミのあいだを繋ぐように存在する。
確かに、自分は枠から外れている――オオテキヌシは森の奥深くで、ひとり思っていた。
木々や草花は、生き生きと天に向かって伸び、そして虫や鳥、動物たちはみな、群れをなして生きている。
それに対して、自分はどうだろう。
植物たちが青々と緑を増やし、鳥たちが楽しげに歌う中で、自分は生まれたときからずっとひとり。
与えられたちいさな洞窟と、泉だけが自分のもので。
そこで湧き出る水の流れを感じ、水面を叩く雨粒の音を聞く日々。
水のように、たゆたうように。
一人で生きる日々は、穏やかで心地いい。
ただ、なぜだろう。
自分がここにいる意味も、存在する理由も。
すべてが水に溶けて、なくなっていくように思えた。
オオテキヌシのただひとつの存在意義は、表裏一体の姉弟神――ホスミノヒメの対をなすことだった。
姉であるホスミノヒメは、この豊かな地の光を担うもの。
人々の前に立ち、吉事を叶え、希望を集める存在。
対して、凶事はすべて自分のものだった。
ただ、それは生まれたときから決められたもので、オオテキヌシはその役割も立場も、まるで疑ったことがなかった。
ある年、酷い旱魃が大地を襲った。
この世の理というのは全体を包むもので、ときに現人神が抗おうが、どうにもできないときもある。
山の奥で、動物たちの叫びを聞きながら、オオテキヌシは思った。
ホスミノヒメはきっと民のために力を尽くしていることだろう、と。
ただ、いくらカミに近い存在と言えど、血と肉と大地に縛られたちっぽけな自分たちには、できることに限界があることも知っていた。
だからこういうときに、影である自分の存在意義が発揮されるのだ。
雨が降らずに渇きで命が失われ、何かを疎まなければならない。
そういうときに、吐き出された呪いの言葉を一身に受けるのが自分の役割で、そうして嫌われることが、自分の生きる意味であることを知っていた。
だから、すがるように自分の名を呼ぶ子どもを見たとき。オオテキヌシはどうしたものかと驚いてしまった。
道を歩き近づいてくる少年の存在を、オオテキヌシは感じ取っていた。
彼もきっと死の間際、自分に恨みの言葉を向けるのだろう――そう思っていた。
なのに、少年は自分を頼るように名を呼び、泉へ近づいてくるではないか。
渇きに苦しむ小さな身体で、遥か下流の集落から必死に歩いて。
その姿を見たら、自然と身体は動いていた。
遥か昔、姉が自分に言った言葉が、警鐘のように頭に響くのを感じながら。
『絶対に……地上へ降りてはなりません』
それは自分が影の存在であり、与えられた役割を果たし、理の中で生きるために必要だからだと思っていた。
まさに、そのとおりだったのだ。
本当はこのとき、少年に会ってはならなかった。
オオテキヌシは知らなかった。
まさかこんなにも、自分の名を呼ばれることが嬉しいなんて。
誰かに頼られることで、心躍るなんて。
無垢な瞳を向けられただけで、涙が出そうになるなんて。
何もかもが、知らない感情だった。
少年――イスルはオオテキヌシにとって、はじめての人だったから。
はじめて出会い、はじめて話した、自分を疎まずに、頼ってくれるたったひとりの人間。
だから、本来力を使ってはいけなかったのに。
オオテキヌシは、少年の願いを叶えずにはいられなかった。
たとえ、将来、少年が自分のことを忘れてしまったとしても。
今、名を呼んでくれた――それだけが、オオテキヌシにとってかけがえのない事実だったから。
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