【完結】春の珈琲は甘く

上杉

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 中に入ると、からりとベルが揺れた。
 店内はやはり薄暗かった。部屋全体を照らす照明はなく、窓からのぼんやりとした光があたりを照らしていた。
 隅にはぽつりぽつりと小さなライトの明かりがあって、その穏やかな光がいまのわたしには心地よかった。
 入口右手側には棚が見えた。コーヒーミルやフィルターなどのコーヒーグッズが丁寧に並べられ、ひとつひとつがスポットライトで照らされている。その棚に向かい合うようにして、反対側には一枚板の長いベンチが置かれていた。
 そして、注文カウンターは入口からもっとも奥にあった。狭い床に置かれた青々とした観葉植物に出迎えられながら、わたしは恐る恐る奥へと進む。

 ――なんだか、お洒落で今どきのお店だ。

 しかしその割には、他にお客さんの姿が見当たらなかった。
 ちょうど昼どきだから、皆ランチを食べに行っているのかもしれない。そう思っていると、奥から男性があらわれた。

「いらっしゃいませ」

 来客に気付いて出てきたその人は、くたびれているものの定年にはまだ早い初老の男性だった。
 白髪混じりのくせ毛を後ろに撫でつけてひとつにくくり、その顎には一応整えてはいるであろうひげをたくわえている。顔の中央で構える大きな鷲鼻のうえには、黒の円縁眼鏡がちょこんと乗っかっていた。
 それが似合っているからなのか、不清潔な印象は受けず、むしろラフで柔らかな印象を受けた。身につけた紺色の洗いざらしのTシャツも、そんな雰囲気をまとめあげている。

「あの、コーヒーを……」

 そう言いながらわたしがカウンター近寄ると、店員さんは天板に伏せられていたメニューを手に取りこちらに見せた。
 そこには産地の名前なのだろうか。国の名前とコーヒーの特徴がずらりと並んでいた。
 カフェラテとかカプチーノとか、そういうものを想像していたわたしは、見慣れぬ文面に一瞬呆気に取られた。
 すると、それに気付いたように、店員さんは優しく言った。

「うちはいわゆるドリップしかないんですけど……アイスかホットか決めてもらえれば、おすすめのものをご用意しますよ」

 そう言われ、わたしは思わず言う。

「アイスの…………その……一番苦いのを」

 いまの自分をすっきりと洗い流してくれるような、そんな力のある一杯。
 そういうコーヒーを心から求めていたのに、それに反して店員さんは申し訳なさそうな顔をする。

「すみません……うちの店は浅煎りしか置いてないから、その要望にはちょっと応えられないかもしれません」

 ――え……これだけ専門的なことが書いてあるのに?

 反射的にそう思ってしまったわたしのあたまの中を、店員さんはぱっと読み取ったらしい。
 こちらを見てふっとはにかんだと思えば、次にこんなことを言った。

「……でも、今日にぴったりのぱっとする一杯、ご用意させていただきます」

 そう言われ目をぱちくりするわたしに、店員さんはおかけになってお待ちくださいと一言いうと、がさごそと準備を始めた。
 わたしは入口前のあの長いベンチに座わりながら、途端に心配になった。

 ――このお店……大丈夫だろうか。

 よく考えればコーヒー専門店なのにいい香りはしないし、ほかにお客さんがいた形跡もない。
 そもそもなぜこんなお洒落なお店なのに、表の大通りではなくて裏通りにひっそりと構えているのだろう。
 そう疑問に思いながら、わたしは不意に暖かな熱を感じ、窓から入り込む光の方を眺めた。入口に面した大きな窓からは、相変わらず春に浮かれる人々の姿が見えた。
 ただ、なぜだろう。彼らはさっきよりも微笑ましく見えた。ガラス一枚挟んだだけなのに、彼らを見て感じていた疎外感みたいなものは、なぜか小さくなっていた。
 まるで別世界の光景を見ているかのように、穏やかに眺められている自分に気付く。
 とりあえずコーヒーは駄目でもここに来た価値はあったのかもしれない――わたしはそう思うことにした。

 実際このお店の居心地はよかった。
 裏通りだからだろうか、車の走る騒音も聞こえなければ、川べりではしゃぐ人たちの声もかすかだ。
 ときおり、開いたままの入口から柔らかな風が入りこみ、カラリと入店ベルが揺れるだけ。
 優しく通りすぎていく春の風は心地よく、ここに座っているだけでなにかが綺麗に浄化されていく気がした。

 ――そういえば、さっき店員さんが言っていた「ぱっと」って……どういうことだろう。

 コーヒーというと、じんわり下に広がる苦味と、せいぜいふわりと広がるあの香りだろう。しかも、アイスコーヒーならなおさら香りが弱くなって、ぱっとという擬音語が少しも当てはまらない。
 わたしかぼんやりとそう考え始めたときだった。
 突然、奥からぎゅいんというけたたましい音がしそちらを見ると、店員さんが豆を挽きはじめたところだった。
 わたしの視線などお構いなしにぎゅいんぎゅいんと機械で豆を砕き、粉にする。
 こんな目の前で粉にしてくれるお店は初めてだったので、途端わたしの中で消えかけていた期待感に火が灯った。
 店員さんはというと、ひき終わった粉を丁寧にフィルターの上に移し、とんとんとならしてから、氷をいっぱい入れたカップの上に置いた。
 このときわたしはようやく気付いた。あたりには、ようやくコーヒーの甘い香りが漂い始めていることに。

 ――なんだろう。初めての感じ。

 そう、それはわたしがこれまで嗅いだことのない未知の甘酸っぱさを含んでいた。だからかもしれない。このころにはもう店員さんの手元に目は釘付けで、このひとは次に一体どんなことをするのかと目が離せなくなっていた。
 店員さんはお湯が沸き上がるのを少し待ったあとで、湯気のあがる熱湯をドリップケトルに移した。そしてフィルターの上に、ぱらりとお湯を一回しする。

 ――あ、なんていい匂い。

 わたしが一瞬で夢心地になってしまうほど、そこから、甘い香りがふわんと広がった。
 店員さんはゆっくりというより、軽やかにお湯を回し注いでいた。まるでスプリンクラーのように、くるくるとケトルの先端を回しながらも、それを見守る眼差しは真剣そのもので。
 わたしがそれに見入っているあいだも、その甘く香ばしい香りは、広がり続け――。

「――お待たせしました」

 そんな店員さんの声に、わたしは現実に引き戻された。ベンチから急いで立ち上がり、カウンターの前に向かう。
 そこに用意されたものに、わたしは驚いて声を上げそうになってしまった。
 透明なカップに入れられていたのは、アイスコーヒーなのだろう。ただ、それはまるでビールのようで、黄金色の泡と、その下の淡い褐色の液体の二層になっていたのだ。
 見たこともないコーヒーの姿にわたしは戸惑って、思わず店員さんの顔を見上げてしまう。
 ぱちりと視線が合った瞬間、店員さんは見るからに楽しそうで、その手のひらはどうぞと言わんばかりにコーヒーに向けられていた。

「まずは淹れたてを一口」

 お金をまだ払ってないのにと思いながらも、言われるがままそれに手を伸ばす。

「い、いただきます」

 わたしはそれをゆっくりと手に取ると、ひとくちすすった。
 その途端、初めての感覚にあたまは混乱した。
 これは、コーヒーなのだろうか――そう疑問に思ってしまうほどまろやかで、軽く、すっきりとした味わいの飲み物だったから。
 新鮮な感覚に、わたしは夢中になってもういちど口に含んだ。香りを広げるように口の中で液体を回すと、広がったのはベリーのような甘酸っぱさだった。なのに、ごくりとそれを飲み込むと、コーヒーのあの香ばしい香りも立ち上った。
 思わず顔を上げると、そこにはすっかり満足気な笑みを浮かべる店員さんの姿があった。

「どう?ぱっとしたでしょ?」

「………はい」

 わたしはそう頷いて、そして気付いた。
 たった一杯のアイスコーヒーを飲んだだけで、さっきまでのあの煩わしさはどこかへ行ってしまったらしい。
 まるでぼんやりと曇っていた感覚が研ぎ澄まされたように、店の入口から覗く外は、明るくわたしを待っているように見えた。
 代金を支払うと、店員さんはこれもどうぞと小さな紙をくれた。それには今日のアイスコーヒーに使われた豆の産地や味の特徴が書かれていた。
 素人同然のわたしには難しかったが、きっとひとつのコーヒーに対して一枚の紙が用意されているのだろう。
 それを思うと、このコーヒーショップは一体どれほどの驚きを隠しているのだろうと、わたしは思った。
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