紫の蛹

星川過世

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 「......え」
 「あ......」
 放課後、学校の図書室。何週間かに一度、俺はここに来て適当に何冊か借りる。もっともラインナップが豊富とはいえないのでそろそろ借りたいものもなくなってきたのだが。
 そんな訳で俺がここに俺が来るのはいつも通り。古い本の匂いも、本を読んだり勉強をしたりして過ごす数人の姿も、静か故に響く貸し出し用機械の音も、いつも通り。
 しかしそこに、いつも通りでない姿が。

 「氷室?」
 いや、ここは学校の図書室で、全校生徒が自由に利用できる場所で、氷室が居たところで全くおかしくないわけで。
 「あ、ああ、やっほー」
 図書館ではお静かに。そんな張り紙があるとはいえあまりにも声のトーンとセリフが合っていなかった。ダウナーな雰囲気を纏っている。
 「よぉ。......お前も小説とか、読むんだな」
 何度か入った部屋には小説どころか教科書と参考書しかなかった。それなのに辞書や実用書の棚ではなく小説の棚の前に氷室が立っているのが不思議な感じだった。
 もっとも本は全て借りて済ますから部屋になかった、という可能性もあるが。

 氷室はしばらくの間何かを考えるような表情をしたあと、「なんか、読んでみようかと思って」と言った。
 「春川君、選ぶの手伝ってくれない?」
 意外な申し入れだった。それとも場を繋ぐために言ったのだろうか。
 「別に、いいけど......。どういうのがいいんだ?」
 氷室はしばらく黙って本棚を見つめていた。その横顔をこっそり盗み見る。
 ひさしぶりにこんなに近づいた。まだ俺よりは小さいがかなり一気に身長が伸びている。前よりも筋肉がついて、少年の様だった体つきは紛れもない男のものになっている。

 触れたい。

 そんな不埒な思いが浮かんでしまって慌てて頭から追い出した。氷室はもう無理だと言ったのだ。

 しかしその無理、は何に対してだったのだろう。好きな人が居るのに他の相手と肉体関係を持つこと? それともその相手が自分のことを好きなこと? 俺が余計なことを言ったから?もしそうなら、他の誰かは今も氷室に触れているのだろうか。

 「......春川君? 大丈夫?」
 「あ、ああ。悪い、ちょっとぼーっとしてた」
 不埒な思いというのは、一度顔を出してしまうと根気よく居座るらしい。筋張った手や襟の奥に覗く喉仏に目が引き寄せられそうになる。

 「で、どんなのがいい?」
 「春川君は普段、どんなの読んでるの」
 「俺は純文......だけど、あんま本読んだことないならお勧めしないな」
 「じゃあ、僕はどんなのが好きそう?」
 「えぇ......?」
 そんな、私をイメージして一杯、みたいなことを言われても。
 「せめて読みたいジャンルとか無いのかよ。恋愛とかミステリーとか」
 首を傾げている。
 「......一旦、出ないか」
 声量を落としているとはいえ、図書室であまり長々と会話したくない。氷室の方もそうだったのか、素直に頷いた。

 駅までの道を、久しぶりに氷室と二人で歩く。すっかり日が沈むのが早くなった。
 「......寒いな」
 「そうだね」
 本屋にでも寄るか、と言おうとしてやめる。
 「俺んち、来る?」
 マフラーに顔をうずめていた氷室が勢いよく顔を上げたことで自分の発言の意味を遅れて理解し、バツが悪くなる。
 「いや、ごめん。変な意味じゃなくて。本貸そうかって、ことで......」
 もう母さんと妹が帰ってくると思うから、と付け足した。 
 「貸してくれるの」
 「そんなに冊数ねぇけど......。まあ、逆に選びやすいだろ」
 言ったあとに持っているのがさっきお勧めしないと言ったばかりの純文学だらけなことに気が付いたが、その中で読みやすいものを貸せばいいだろう。

 電車の中で両親と妹に友達を家に上げたい旨をチャットで伝えた。
 氷室はスマホをひたすらスクロールしていたが、目が不自然なほど動いていなかった。
 「あ、降りるぞ」
 「うん」

 一駅戻れば氷室の家がある。七駅戻れば学校がある。そのどちらも当然氷室の生活圏だ。
 なのにそこからほとんど離れていない我が家の最寄り駅に氷室が居るのが非現実的だった。

 「手土産、いるよね」
 「あー」 
 俺も家族も気にしないが、氷室の方が気にするだろう。俺が逆の立場なら気にする。
 駅から俺の家の間にあるショッピングモールで適当なものを見繕い、あとは俺から「俺が急に呼んでしまった」と伝えることにした。
 「春川君は、ここよく来るの?」
 「そうだな。この辺だとここが一番デカいし」
 家に着くまで、氷室は興味深々とばかりにあたりを見回していた。
 俺たちはお互いのことを、何も知らない。
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