13 / 54
第13話(番外編):壮年期の名声、陰謀の胎動
しおりを挟む享保年間の江戸、神田の賑わう町並み。佐久間宗太郎、32歳の壮年は、江戸の食文化を評する者として名を馳せ始めていた。浅草の焼き鳥屋「鳥吉」で筆を握り、最初の評を世に送り出してから12年。宗太郎の評は、深川の蕎麦、本所のうなぎ、佃の佃煮を江戸の名物に押し上げ、庶民の誇りを高めた。母・雪乃の遺した煮込みの味、深川の市場での幼少期、浅草での源蔵との出会いが、彼の舌と筆を支えていた。だが、松葉屋の藤蔵との対立が、息子・藤兵衛に受け継がれ、宗太郎の背後に暗い影を落としていた。
神田の蕎麦屋「藪蕎麦」は、商人や職人、旗本の家臣で賑わう名店だ。宗太郎は、腰に筆と紙を携え、藪蕎麦の暖簾をくぐった。店内は、蕎麦の香りと出汁の湯気が漂い、箸の音が響く。店主の辰蔵、後の柳川のうなぎ屋の主人だ。辰蔵は、40歳ほどの落ち着いた男で、蕎麦を打つ手つきに職人の魂が宿る。宗太郎はカウンターに腰を下ろし、辰蔵の動きを観察した。蕎麦粉をこねるリズム、包丁で切り揃える精度。それは、江戸の食の誇りだった。
「辰蔵殿、もり蕎麦を一枚。それと、鴨南蛮を一品頼む。」
辰蔵は無言で頷き、蕎麦を打ち始めた。宗太郎は、出汁の香りに鼻を動かし、市場での母との記憶を思い出した。客たちは、蕎麦を啜り、酒を酌み交わす。宗太郎は、江戸の活気に心を弾ませた。だが、藤蔵の息子・藤兵衛が松葉屋を継ぎ、宗太郎の評を妬む噂が耳に入っていた。藤兵衛は、父の屈辱を晴らすべく、宗太郎を陥れる策を練り始めていた。
やがて、もり蕎麦と鴨南蛮が運ばれてきた。もり蕎麦は、蕎麦の表面が滑らかで、つゆの香りが立ち上る。鴨南蛮は、鴨の脂が浮かぶ熱々の出汁に、蕎麦が泳ぐ。宗太郎はまずもり蕎麦を手に取り、つゆに軽く浸して啜った。
舌が喜んだ。蕎麦のコシと香りが、舌の上で弾け、つゆの鰹と醤油の旨味が調和する。宗太郎は目を閉じ、つぶやく。
「このもり蕎麦、神田の風そのものだ。蕎麦の香りが、庶民の汗を歌う。」
辰蔵は手を止め、宗太郎をじっと見た。客たちの視線も集まる。宗太郎は次に鴨南蛮を味わった。鴨の濃厚な脂が出汁に溶け、蕎麦の歯ごたえと絡む。葱の辛味が、味を締める。宗太郎は、辰蔵の技に感服していた。
「辰蔵殿、鴨南蛮は江戸の秋の暖かさだ。鴨の旨味が、蕎麦に命を吹き込む。」
辰蔵は微笑み、そっと言った。
「佐久間殿、俺の蕎麦をそう評してくれるなら、試作の一品を食ってみねえか?」
宗太郎は目を輝かせ、頷いた。辰蔵は奥から小さな椀を取り出し、蕎麦を昆布と干し椎茸の出汁で冷やした「冷やし出汁蕎麦」を差し出した。さらに、蕎麦の実を胡麻と味噌で和えた「蕎麦実の胡麻和え」を用意した。宗太郎は二つの創作料理を手に取り、じっと見つめた。
冷やし出汁蕎麦は、蕎麦が透き通った出汁に浮かび、刻み海苔が彩りを添える。蕎麦実の胡麻和えは、蕎麦実のプチッとした食感に、胡麻の香ばしさが絡む。宗太郎はまず冷やし出汁蕎麦を啜った。
舌が驚いた。昆布と干し椎茸の出汁が、蕎麦の香りを引き立て、冷やした清涼感が舌を洗う。海苔の磯の香りが、味を締める。宗太郎は目を閉じ、味の層を解剖した。この一品は、蕎麦の伝統に新たな風を吹き込む、辰蔵の創造だった。
「辰蔵殿、この冷やし出汁蕎麦、秋の川の清らかさだ。出汁の深みが、蕎麦に魂を与える。」
客たちがどよめき、辰蔵は目を輝かせた。宗太郎は次に蕎麦実の胡麻和えを味わった。蕎麦実の弾ける食感が、胡麻の香ばしさと味噌の甘みと調和する。宗太郎は「秋の実和え」と呼び、こう評した。
「蕎麦実の歯ごたえは、秋の畑の鼓動。胡麻と味噌は、庶民の知恵。この一品、神田の秋を和える。」
食事を終えた宗太郎は、店の隅で筆を取り、評を書き始めた。彼の文章は、蕎麦の素朴さと創作の奥深さを映し出す。
神田藪蕎麦の蕎麦、江戸の秋の風を啜りし一品。もり蕎麦は神田の汗を、鴨南蛮は秋の暖かさを宿す。冷やし出汁蕎麦は川の清らかさを閉じ込め、蕎麦実の胡麻和えは畑の鼓動を和える。この味、江戸の誇りなり。
その夜、宗太郎の評は版元を通じて刷られ、翌日には神田の茶屋や芝居小屋に広まった。藪蕎麦は客で溢れ、辰蔵は目を丸くした。冷やし出汁蕎麦は「神田の清流蕎麦」として、蕎麦実の胡麻和えは「秋の実肴」として、商人や職人の間で評判となった。宗太郎の筆は、蕎麦を江戸の秋の名物に押し上げ、彼の名はさらに広がった。
だが、宗太郎の名声は、藤兵衛の嫉妬を掻き立てていた。松葉屋を継いだ藤兵衛は、父・藤蔵の屈辱を晴らすべく、宗太郎を敵視していた。藤兵衛は、宗太郎の評が自分の店の客を奪うと確信し、浅草のならず者・弥蔵を雇った。藤兵衛は、薄暗い蔵で弥蔵に囁いた。
「佐久間宗太郎の筆、ちと厄介だ。奴の評が、松葉屋を霞ませる。偽の評を流し、奴の名を貶めな。」
弥蔵はにやりと笑い、頷いた。藤兵衛はさらに、川柳の平蔵と手を組み、宗太郎を陥れる策を練った。平蔵は、柳川のうなぎ屋が宗太郎の評で繁盛するのを妬み、藤兵衛の提案に乗り気だった。
数日後、宗太郎は、偽の評が神田に広まるのを耳にした。藪蕎麦を「出汁が薄く、蕎麦はコシがない」と貶める文章が、宗太郎の名で出回っていた。辰蔵は、宗太郎を訪ね、憤慨した。
「佐久間殿、お前の筆がこんな評を書くはずねえ! 誰がこんな真似を?」
宗太郎は偽の評を読み、藤兵衛の影を確信した。彼は、辰蔵を落ち着かせ、こう言った。
「辰蔵殿、こいつは俺の名を騙る策略だ。藪蕎麦の味は、俺の舌が知ってる。必ず真相を暴く。」
宗太郎は、版元の親方・庄兵衛に相談し、偽の評の出所を追った。庄兵衛は、弥蔵が偽の原稿を持ち込んだことを白状。宗太郎は、藤兵衛と平蔵の企みを確信し、偽の評を打ち消す新たな評を準備した。
その夜、宗太郎は神田の路地を歩きながら、背後に怪しい気配を感じた。振り返ると、弥蔵と平蔵の手下が尾行している。宗太郎は、浅草での藤蔵との対立を思い出し、警戒を強めた。彼は、路地裏に身を隠し、人混みに紛れた。そこに、源蔵が現れ、宗太郎を助けた。
「佐久間、危ねえとこだったぜ。奴ら、ただのならず者じゃねえ。誰かに雇われてる。」
宗太郎は、藤兵衛と平蔵の名前を挙げ、偽の評の策略を説明した。源蔵は拳を握り、憤慨した。
「そんな奴ら、許せねえ! 佐久間、お前の筆は俺たち庶民の誇りだ。俺も力になるぜ。」
宗太郎は、源蔵の忠義に感謝し、辰蔵と源蔵の支えを感じた。彼は、江戸の食文化を守る決意を新たにした。だが、藤兵衛の陰謀は、偽の評を超え、命を狙う暗殺に変わろうとしていた。
宿に戻った宗太郎は、筆を走らせた。彼は、藪蕎麦の味に感じた「江戸の秋」を記録し、辰蔵の創作を称賛する新たな評を準備した。だが、路地の闇の中、弥蔵と平蔵の手下は、宗太郎の宿を見張っていた。藤兵衛は、宗太郎の名声が止まらないことに苛立ち、暗殺の計画を立て始めた。
宗太郎は、筆を握り、次の店を思い描く。本所のうなぎ屋、佃の佃煮屋。そして、若い奉公人・太郎が、彼の弟子を志願する未来が待っていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる