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第一章
愉快な人
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彼は王城を抜け出しては街に紛れて、市場で買い物をしたり、飲み屋で見知らぬ人と乾杯をして楽しんでいるのだと言った。
「誰も気付かないのでしょうか」
「案外、平気。街を彷徨いている間は帽子も被っているし、飲み屋なんて特に、酔っ払いが人の顔なんてジロジロ見たりしないよ。今日は少し盛り上がり過ぎてね。少し風に当たろうと思ってここへ来たんだ。そうしたら先客がいたというわけ」
「そうとは知らず、申し訳ございません。直ぐに片付けて帰りますので」
「いや、邪魔だと言ってるわけではない。君に興味を持ったから話かけたんだ」
「私に……ですか?」
「身なりを見るなり、貴族であるのは一目瞭然なのに、侍女を一人連れただけでこんな所にいるなんて訳ありかなと思ってね」
エルネスト王子殿下の言う通りだ。
貴族が外出をするのに、護衛もつけないなんて通常ならありえない。
けれど家族にとっては、例え突然私が姿を消した所で好都合である。
護衛など必要はない。
真実を説明するべきだ。第三王子殿下に嘘など許されるはずはない。
しかし、どんな言い方をしたところで、ヴェイルハート家が私を虐げていると捉えられそうな気がする。
オメガに生まれた自分が悪いのに、それを家族のせいにするのは間違えている。
母親がよく嘆いていた。「オメガは治らない」と。
どんな手を施しても、アルファにはなれないのだ。
上手く説明できず俯いていると、エルネスト王子殿下は言いたくないのを察してくれたようだ。
「じゃあ、名前だけでも教えてくれないか。せっかく出会えたのに、名前も呼べないんじゃ寂しいだろう?」
「あの……私は、エクラと申します。それ以上は……申し上げられません」
「エクラ。構わない。言いたくないことを無理に聞き出そうとは思わない。でももしも、俺に聞いて欲しいと思った時はいつでも話を聞くよ。いいね?」
「どうして初対面の私に、そんなふうに気を遣って下さるのですか?」
「なんとなく……君の隣が居心地がいいから」
そう言ってエルネスト王子殿下が肩に凭れかかる。
「でっ、殿下!!」
「しっ……」人差し指を立てて口に当てる。鼻先が触れてしまいそうなほど近くまで顔を寄せられ、息を呑んだ。エルネスト王子殿下は声を顰めて言う。
「外で正体がバレてはいけない。そうだな……俺のことはエノと呼んでくれ。それとも、モン・シェリでもいいよ?」
「……エノ様と呼ばせてください」
気恥ずかしくて顔が上げられない。
エルネスト王子殿下が再び私に寄りかかり、身動きが取れない。触れている部分に意識が集中してしまい、頭が真っ白だ。
彼はといえば、特に何も気にしていない様子で、上機嫌で鼻歌まで歌い出した。
ほろ酔いなのか、元々こういう性格なのか判断はしかねる。
王族だというのに平気で平民に混じってフラットな関係を築くなど、現実味が無さすぎて、誰も疑わないのかもしれない。
この人が国の第三王子だと知れば、街の人たちは驚きのあまり凍りついてしまうだろう。
今日は余程盛り上がったようだ。終始上機嫌のまま、帰っていかれた。その背中を見送っている間も、上手く呼吸が出来なかった。
「また、会いに来る」そう言い残したが、きっとそれはただの社交辞令。それでも良い。それでも充分私の心は満たされた。
他人とこんなにも近い距離で接したのは、子供の頃ぶりだ。
こんな出会いがあったものだから、私は帰ってからも彼のことが頭から離れなくなってしまった。
自室のソファーに、体を沈めると、ようやく身体の力が抜けた。
強い抑制剤を飲んでおいて良かったと胸を撫で下ろす。
エルネスト王子殿下がアルファであるのは周知の事実。もしもヒートなど起こせば大問題である。
ほっとする反面、消化しきれないこの気持ちのやり場がない。心臓の音は落ち着く気配もなく、早鐘を打ち続けている。
「そうだ、手紙! 礼状なら渡しても失礼じゃないはずだ」
思い立って、今日買ったばかりのペンを取り出した。
———親愛なるエルネスト王子殿下。
邂逅とはこのことを言うのでしょうか。貴方と過ごした時間は、まるで世界が変わったみたいでした。
大袈裟だと笑われるかもしれませんが、孤独から救い出された気さえしたのです。
静かな日常は平和ですが、時に寂しくもあります。
そんな中、殿下との出会いは私の心に光を与えてくれたのです。
どんな言葉で感謝を伝えれば良いのでしょうか、今の私では適切な言葉が思い浮かびません。
いつかこの気持ちにピッタリな言葉を送ります。
身分も明かさず失礼極まりない私に、親切に接して頂きありがとうございました。
この手紙が渡せる日が来ることを祈っています。
「誰も気付かないのでしょうか」
「案外、平気。街を彷徨いている間は帽子も被っているし、飲み屋なんて特に、酔っ払いが人の顔なんてジロジロ見たりしないよ。今日は少し盛り上がり過ぎてね。少し風に当たろうと思ってここへ来たんだ。そうしたら先客がいたというわけ」
「そうとは知らず、申し訳ございません。直ぐに片付けて帰りますので」
「いや、邪魔だと言ってるわけではない。君に興味を持ったから話かけたんだ」
「私に……ですか?」
「身なりを見るなり、貴族であるのは一目瞭然なのに、侍女を一人連れただけでこんな所にいるなんて訳ありかなと思ってね」
エルネスト王子殿下の言う通りだ。
貴族が外出をするのに、護衛もつけないなんて通常ならありえない。
けれど家族にとっては、例え突然私が姿を消した所で好都合である。
護衛など必要はない。
真実を説明するべきだ。第三王子殿下に嘘など許されるはずはない。
しかし、どんな言い方をしたところで、ヴェイルハート家が私を虐げていると捉えられそうな気がする。
オメガに生まれた自分が悪いのに、それを家族のせいにするのは間違えている。
母親がよく嘆いていた。「オメガは治らない」と。
どんな手を施しても、アルファにはなれないのだ。
上手く説明できず俯いていると、エルネスト王子殿下は言いたくないのを察してくれたようだ。
「じゃあ、名前だけでも教えてくれないか。せっかく出会えたのに、名前も呼べないんじゃ寂しいだろう?」
「あの……私は、エクラと申します。それ以上は……申し上げられません」
「エクラ。構わない。言いたくないことを無理に聞き出そうとは思わない。でももしも、俺に聞いて欲しいと思った時はいつでも話を聞くよ。いいね?」
「どうして初対面の私に、そんなふうに気を遣って下さるのですか?」
「なんとなく……君の隣が居心地がいいから」
そう言ってエルネスト王子殿下が肩に凭れかかる。
「でっ、殿下!!」
「しっ……」人差し指を立てて口に当てる。鼻先が触れてしまいそうなほど近くまで顔を寄せられ、息を呑んだ。エルネスト王子殿下は声を顰めて言う。
「外で正体がバレてはいけない。そうだな……俺のことはエノと呼んでくれ。それとも、モン・シェリでもいいよ?」
「……エノ様と呼ばせてください」
気恥ずかしくて顔が上げられない。
エルネスト王子殿下が再び私に寄りかかり、身動きが取れない。触れている部分に意識が集中してしまい、頭が真っ白だ。
彼はといえば、特に何も気にしていない様子で、上機嫌で鼻歌まで歌い出した。
ほろ酔いなのか、元々こういう性格なのか判断はしかねる。
王族だというのに平気で平民に混じってフラットな関係を築くなど、現実味が無さすぎて、誰も疑わないのかもしれない。
この人が国の第三王子だと知れば、街の人たちは驚きのあまり凍りついてしまうだろう。
今日は余程盛り上がったようだ。終始上機嫌のまま、帰っていかれた。その背中を見送っている間も、上手く呼吸が出来なかった。
「また、会いに来る」そう言い残したが、きっとそれはただの社交辞令。それでも良い。それでも充分私の心は満たされた。
他人とこんなにも近い距離で接したのは、子供の頃ぶりだ。
こんな出会いがあったものだから、私は帰ってからも彼のことが頭から離れなくなってしまった。
自室のソファーに、体を沈めると、ようやく身体の力が抜けた。
強い抑制剤を飲んでおいて良かったと胸を撫で下ろす。
エルネスト王子殿下がアルファであるのは周知の事実。もしもヒートなど起こせば大問題である。
ほっとする反面、消化しきれないこの気持ちのやり場がない。心臓の音は落ち着く気配もなく、早鐘を打ち続けている。
「そうだ、手紙! 礼状なら渡しても失礼じゃないはずだ」
思い立って、今日買ったばかりのペンを取り出した。
———親愛なるエルネスト王子殿下。
邂逅とはこのことを言うのでしょうか。貴方と過ごした時間は、まるで世界が変わったみたいでした。
大袈裟だと笑われるかもしれませんが、孤独から救い出された気さえしたのです。
静かな日常は平和ですが、時に寂しくもあります。
そんな中、殿下との出会いは私の心に光を与えてくれたのです。
どんな言葉で感謝を伝えれば良いのでしょうか、今の私では適切な言葉が思い浮かびません。
いつかこの気持ちにピッタリな言葉を送ります。
身分も明かさず失礼極まりない私に、親切に接して頂きありがとうございました。
この手紙が渡せる日が来ることを祈っています。
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