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第一話 優しい日常
第一話 一一
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弥生が終わり、卯月を迎えた。
庭の花々は盛りとなり、優しい色でいっぱいになっている。ついこの間まで芽だけしか見ることのできなかった鬱金香は赤と白の花を咲かせていて、その下には淡い青紫の花韮が植えられている。そしてその側にある木を幹伝いに見上げると、柔らかな薄紅色の桜の花が満開となり咲き誇っていた。
その桜の花の美しさに見惚れた夜桜は、庭の掃き掃除をしていた箒を持つ手を思わず止めてしまった。
(ここには色々な花があるけれど……、私は桜の花が一番好きかもしれないわ)
春本番の穏やかな青空の下、柔らかな陽光を受け止めて優しいそよ風に花びらが舞う。人によっては儚くて寂しいという感想もあるだろうが、夜桜は儚いからこそ美しいと思う。
夜桜が夢中になって桜の木を見上げていると、背後から声が掛かった。
「きれいだよね」
軽く笑みを含んだ紫苑の声に、夜桜は現実に引き戻され、振り向いた。
紫苑が盆を持って縁側に立っていることから、巳の刻になったのだとわかる。紫苑の仕事がない日には、こうして家事の合間に一緒に縁側でお茶をすることが定番となっていた。それは夜桜にとって一日の楽しみのひとつでもある。
「今片付けますね」
夜桜はいそいそと箒や塵取りを片付け、手を洗ってから縁側に戻る。
縁側では既に準備を整えた紫苑が桜の花を眺めて待っていた。
「お待たせしました」
「ううん。お疲れ様」
盆を挟んで夜桜は紫苑の隣に腰かけた。紫苑から湯飲みを受け取り、なんとはなしに盆の上のお茶菓子を見る。そこで夜桜は軽く目を見開いた。
「わぁ、かわいい……!」
夜桜の視線を追った紫苑が小さく笑う。
「喜んでくれたなら、嬉しい」
夜桜の視線の先には桃色の桜の花を模した練りきりが二つあった。今までお茶菓子といえば干菓子や果物がほとんどで、上生菓子が出たのは初めてのことだった。
「珍しいですね。何かありましたか?」
「……桜の花が満開だから、ちょっとしたお花見にしようかと思って」
「すてきですね……!」
この美しい桜と庭の花々を愛でながら、可愛らしいお菓子とともに紫苑と時間を過ごせる。それはなんて贅沢なことだろう。
さっそく練りきりに黒文字を入れると中から白餡がのぞいた。小さく切って口に運ぶと、上品な甘さが口中に広がって、ふわふわとした幸せな心地になる。
夜桜の隣で紫苑が珍しく小さく声を立てて笑った。
「最近のあなたは、表情豊かになったね」
「そう、でしょうか……?」
しかし言われてみればそうかもしれない。はっきりとした笑顔こそないものの、感情を知り、それが顔に出やすくなったような気がする。
「うん。最初は不安だったけど、今は少し安心できるかな」
「きっと紫苑さんのおかげです」
「僕の?」
紫苑は意外そうに僅かに目を見開く。その反応から彼が夜桜にくれる優しさは無意識で純粋なものだとわかった。
「紫苑さんが寄り添ってくれたから、私はここまで変われたのだと思います」
無理に感情を引き出すようなことはせず、かといって無責任に突き放すようなことはしない。ひたすらに寄り添って、夜桜と同じ世界を見ようとしてくれた紫苑だったからこそ、夜桜はこうして心穏やかなままでいられるのだと思う。
その感謝を笑顔に変えることはまだ難しいけれど……。
「ありがとうございます、紫苑さん。あなたの優しさに、私は救われました」
もらった分の優しさと同じくらいの優しさをのせた『ありがとう』を贈ることならできるから。
夜桜は桜の花のように淡く儚く、優しい優しい表情を紫苑に向けた。
それは、ともすれば風によってかき消されてしまう春霞のようにひどく繊細で。
紫苑はその霞の向こうに夜桜ではない人の影を見たような気がし、はっとして、それから今にも泣き出しそうな微笑みを浮かべ、「……ありがとう」とこぼすように呟いた。
優しい日常が確かにここには存在していた。
庭の花々は盛りとなり、優しい色でいっぱいになっている。ついこの間まで芽だけしか見ることのできなかった鬱金香は赤と白の花を咲かせていて、その下には淡い青紫の花韮が植えられている。そしてその側にある木を幹伝いに見上げると、柔らかな薄紅色の桜の花が満開となり咲き誇っていた。
その桜の花の美しさに見惚れた夜桜は、庭の掃き掃除をしていた箒を持つ手を思わず止めてしまった。
(ここには色々な花があるけれど……、私は桜の花が一番好きかもしれないわ)
春本番の穏やかな青空の下、柔らかな陽光を受け止めて優しいそよ風に花びらが舞う。人によっては儚くて寂しいという感想もあるだろうが、夜桜は儚いからこそ美しいと思う。
夜桜が夢中になって桜の木を見上げていると、背後から声が掛かった。
「きれいだよね」
軽く笑みを含んだ紫苑の声に、夜桜は現実に引き戻され、振り向いた。
紫苑が盆を持って縁側に立っていることから、巳の刻になったのだとわかる。紫苑の仕事がない日には、こうして家事の合間に一緒に縁側でお茶をすることが定番となっていた。それは夜桜にとって一日の楽しみのひとつでもある。
「今片付けますね」
夜桜はいそいそと箒や塵取りを片付け、手を洗ってから縁側に戻る。
縁側では既に準備を整えた紫苑が桜の花を眺めて待っていた。
「お待たせしました」
「ううん。お疲れ様」
盆を挟んで夜桜は紫苑の隣に腰かけた。紫苑から湯飲みを受け取り、なんとはなしに盆の上のお茶菓子を見る。そこで夜桜は軽く目を見開いた。
「わぁ、かわいい……!」
夜桜の視線を追った紫苑が小さく笑う。
「喜んでくれたなら、嬉しい」
夜桜の視線の先には桃色の桜の花を模した練りきりが二つあった。今までお茶菓子といえば干菓子や果物がほとんどで、上生菓子が出たのは初めてのことだった。
「珍しいですね。何かありましたか?」
「……桜の花が満開だから、ちょっとしたお花見にしようかと思って」
「すてきですね……!」
この美しい桜と庭の花々を愛でながら、可愛らしいお菓子とともに紫苑と時間を過ごせる。それはなんて贅沢なことだろう。
さっそく練りきりに黒文字を入れると中から白餡がのぞいた。小さく切って口に運ぶと、上品な甘さが口中に広がって、ふわふわとした幸せな心地になる。
夜桜の隣で紫苑が珍しく小さく声を立てて笑った。
「最近のあなたは、表情豊かになったね」
「そう、でしょうか……?」
しかし言われてみればそうかもしれない。はっきりとした笑顔こそないものの、感情を知り、それが顔に出やすくなったような気がする。
「うん。最初は不安だったけど、今は少し安心できるかな」
「きっと紫苑さんのおかげです」
「僕の?」
紫苑は意外そうに僅かに目を見開く。その反応から彼が夜桜にくれる優しさは無意識で純粋なものだとわかった。
「紫苑さんが寄り添ってくれたから、私はここまで変われたのだと思います」
無理に感情を引き出すようなことはせず、かといって無責任に突き放すようなことはしない。ひたすらに寄り添って、夜桜と同じ世界を見ようとしてくれた紫苑だったからこそ、夜桜はこうして心穏やかなままでいられるのだと思う。
その感謝を笑顔に変えることはまだ難しいけれど……。
「ありがとうございます、紫苑さん。あなたの優しさに、私は救われました」
もらった分の優しさと同じくらいの優しさをのせた『ありがとう』を贈ることならできるから。
夜桜は桜の花のように淡く儚く、優しい優しい表情を紫苑に向けた。
それは、ともすれば風によってかき消されてしまう春霞のようにひどく繊細で。
紫苑はその霞の向こうに夜桜ではない人の影を見たような気がし、はっとして、それから今にも泣き出しそうな微笑みを浮かべ、「……ありがとう」とこぼすように呟いた。
優しい日常が確かにここには存在していた。
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