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第二話 本当の居場所
第二話 一
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記憶が戻らないながらも心穏やかな日々が過ぎ、皐月に入った。
庭の桜の木はとうに薄紅色の花を散らせ、葉桜も終わり、今ではすっかり鮮やかな緑の葉を茂らせている。柔らかだった日射しも徐々に眩しさを増していき、ときどきひんやりと感じられた空気も爽やかなものへと移ろっていた。
春の匂いを残しながらも夏の訪れを予感させる風が、夜桜の亜麻色の髪をそよりと揺らした。
「お待たせ」
戸締りを確認し終えた紫苑が玄関先に戻ってきて、夜桜は緩く頭を振った。
「いいえ。戸締りありがとうございます」
「忘れ物はない? お守りは持ってるよね?」
「はい、もちろん」
夜桜は懐から白地に銀糸が入ったお守りを取り出して、紫苑に見せた。これは夜桜が町へ出かけるようになってから紫苑に持たされたものである。袋の中には折りたたまれた護符が入っているそうで、夜桜の身を守ってくれるという話だった。
夜桜がお守りを仕舞い直すのを確認して、紫苑は「なら行こうか」と町の方へ足を向けたので夜桜も彼に倣う。
二人並び歩きながら竹林を、そして畑の間のあぜ道を抜ける。
初めてこの道を紫苑と歩いたときは道の端を春の草花が彩っていたが、季節が移りかわるにつれて夏を予感させる草花が芽生え始めていた。
桃色の花を咲かせるのは夕化粧、白っぽい花をいくつもつけているのは春紫苑、柔らかな黄色の花は母子草のものだ。他にも花はつけていなくとも緑の葉をいっぱいに広げ、茎をぐんと伸ばす草花もそこかしこにあった。
夜桜が足元を見ながら歩いていると、隣から声が降ってきた。
「今日は何を買うの?」
夜桜は紫苑を仰ぎ見て、好奇心から表情を明るくした。
「今日は広場で市が立つらしいのでそれを見てみたいと思っています」
「へえ、そんなのあるんだ」
「はい。私もこの前町へ行ったときに初めて知りました」
夜桜は微苦笑のような表情を浮かべる。
(紫苑さんはしっかりしているようでいて、案外抜けているというか、あまり他事に関心がなさそうなのよね)
それはここ二月ほど紫苑と暮らしてみて夜桜が発見したことだった。
紫苑は夜桜には優しく、また夜桜に関係することには敏感だが、それ以外の事物にはあまり興味を示さない。料理や掃除などの最低限の家事はやっても、園芸を除いて基本的に凝ったことをしない。衣食住にもこだわりがなく、それぞれの機能さえ果たせればそれでいいようで、人間関係についても頓着を見せないどころか煩わしそうにしている節さえあった。
だから今日の市のことを紫苑が知らないのも無理からぬ話だろう。
まもなく見えてきた町の入り口である大門には、普段以上の人々が吸い込まれ、賑やかな声に溢れている。
「すごい人ですね」
「そうだね。はぐれないように気をつけて」
二人もまた人の流れに乗り、大門をくぐると町に入った。
広い大路にはやはり人が溢れかえっていて、人の歩みは緩やかだった。これでは大路の先にある広場にたどり着くのもひと苦労だろう。人波に紫苑の姿を見失わないよう、夜桜は必死に彼の姿を追いかける。
そうしてやっとの思いで広場に出た。
「わあ……!」
広場を取り囲むようにいくつもの茣蓙が敷かれ、その上にたくさんの商品が並べられている。普段の町では見かけないような食料品や雑貨などがあちこちに溢れていた。
その中で真っ先に夜桜の目を引いたのは花だった。行きつけの花屋にも十分な種類があると思っていたが、市に並ぶ花々には書では見かけたものの実際には夜桜の目にしたことのないものがいくつもある。
「あれは瑠璃唐草で、こっちは大飛燕草ね。本物だわ……」
夜桜が感動に浸っていると、隣でくすりと紫苑が笑んだ。
「せっかくだし何か買っていこうか」
「はい……!」
夜桜が見つけた涼やかな青紫色が美しい瑠璃唐草やふわふわと縦にたくさんの花をつける大飛燕草の他にも、見たことのない品種の薔薇や阿蘭陀石竹などが並んでいる。
夜桜が選びかねていると店主である好々爺が話しかけてきた。
「お嬢さん、花がとても好きなようだね」
「あ、は、はい」
「これなんか珍しいんだが、どうかね?」
店主が指差したのは優しい紫色の小花を穂状につけた鉢植えの花だった。
「これはね、薫衣草といって香りも楽しめる花だよ」
「薫衣草……」
店主に勧められるまま、夜桜は葉を揉んで指先に移った香りを嗅いでみた。すると花がもつ瑞々しい香りとはまた違う、ふんわりと心が落ち着くような柔らかな香りがした。
「紫苑さん、紫苑さん」
夜桜の半歩後ろに控えていた紫苑を振り仰げば、彼は「いいと思うよ」と優しく微笑んだ。
薫衣草をひと鉢買い、夜桜と紫苑は市をぐるりと見て回った。
そうしているうちに午の刻を報せる鐘が鳴った。
「お昼ご飯はどうしましょうか」
「市には食事処がほとんどないし、大路の方に戻ろう」
「そうですね」
お昼時とあって、路は広場に向かう者と大路へ戻る者とでごった返していた。人波に飲まれてうまく身動きがとれない。はじめのうちは紫苑の姿を追えていたのだが、押し寄せる人々に紛れていつしか彼の姿を見失ってしまった。
(いけない。はぐれないように言われていたのに)
とりあえずこの人混みを抜けなければと、夜桜は目についた細い路へと足を踏み入れる。
(確かこの細い路の先に裏通りがあったはず)
町へは何度か足を運んでいる。夜桜は脳内の地図を頼りに歩を進めた。
細い路はすぐに抜けられ、裏通りに出る。表の大路に比べればずっと人が少なく動きはとりやすいものの、日陰になっているせいかやや薄暗く、どこかうら寂しさを感じさせた。
(ここから大門に戻れば合流できると思うのだけれど)
なんだか胸がざわつく。早いところこの路を後にしてしまおうと夜桜が一歩を踏み出したとき。
「あれ、夜桜?」
「…………え」
庭の桜の木はとうに薄紅色の花を散らせ、葉桜も終わり、今ではすっかり鮮やかな緑の葉を茂らせている。柔らかだった日射しも徐々に眩しさを増していき、ときどきひんやりと感じられた空気も爽やかなものへと移ろっていた。
春の匂いを残しながらも夏の訪れを予感させる風が、夜桜の亜麻色の髪をそよりと揺らした。
「お待たせ」
戸締りを確認し終えた紫苑が玄関先に戻ってきて、夜桜は緩く頭を振った。
「いいえ。戸締りありがとうございます」
「忘れ物はない? お守りは持ってるよね?」
「はい、もちろん」
夜桜は懐から白地に銀糸が入ったお守りを取り出して、紫苑に見せた。これは夜桜が町へ出かけるようになってから紫苑に持たされたものである。袋の中には折りたたまれた護符が入っているそうで、夜桜の身を守ってくれるという話だった。
夜桜がお守りを仕舞い直すのを確認して、紫苑は「なら行こうか」と町の方へ足を向けたので夜桜も彼に倣う。
二人並び歩きながら竹林を、そして畑の間のあぜ道を抜ける。
初めてこの道を紫苑と歩いたときは道の端を春の草花が彩っていたが、季節が移りかわるにつれて夏を予感させる草花が芽生え始めていた。
桃色の花を咲かせるのは夕化粧、白っぽい花をいくつもつけているのは春紫苑、柔らかな黄色の花は母子草のものだ。他にも花はつけていなくとも緑の葉をいっぱいに広げ、茎をぐんと伸ばす草花もそこかしこにあった。
夜桜が足元を見ながら歩いていると、隣から声が降ってきた。
「今日は何を買うの?」
夜桜は紫苑を仰ぎ見て、好奇心から表情を明るくした。
「今日は広場で市が立つらしいのでそれを見てみたいと思っています」
「へえ、そんなのあるんだ」
「はい。私もこの前町へ行ったときに初めて知りました」
夜桜は微苦笑のような表情を浮かべる。
(紫苑さんはしっかりしているようでいて、案外抜けているというか、あまり他事に関心がなさそうなのよね)
それはここ二月ほど紫苑と暮らしてみて夜桜が発見したことだった。
紫苑は夜桜には優しく、また夜桜に関係することには敏感だが、それ以外の事物にはあまり興味を示さない。料理や掃除などの最低限の家事はやっても、園芸を除いて基本的に凝ったことをしない。衣食住にもこだわりがなく、それぞれの機能さえ果たせればそれでいいようで、人間関係についても頓着を見せないどころか煩わしそうにしている節さえあった。
だから今日の市のことを紫苑が知らないのも無理からぬ話だろう。
まもなく見えてきた町の入り口である大門には、普段以上の人々が吸い込まれ、賑やかな声に溢れている。
「すごい人ですね」
「そうだね。はぐれないように気をつけて」
二人もまた人の流れに乗り、大門をくぐると町に入った。
広い大路にはやはり人が溢れかえっていて、人の歩みは緩やかだった。これでは大路の先にある広場にたどり着くのもひと苦労だろう。人波に紫苑の姿を見失わないよう、夜桜は必死に彼の姿を追いかける。
そうしてやっとの思いで広場に出た。
「わあ……!」
広場を取り囲むようにいくつもの茣蓙が敷かれ、その上にたくさんの商品が並べられている。普段の町では見かけないような食料品や雑貨などがあちこちに溢れていた。
その中で真っ先に夜桜の目を引いたのは花だった。行きつけの花屋にも十分な種類があると思っていたが、市に並ぶ花々には書では見かけたものの実際には夜桜の目にしたことのないものがいくつもある。
「あれは瑠璃唐草で、こっちは大飛燕草ね。本物だわ……」
夜桜が感動に浸っていると、隣でくすりと紫苑が笑んだ。
「せっかくだし何か買っていこうか」
「はい……!」
夜桜が見つけた涼やかな青紫色が美しい瑠璃唐草やふわふわと縦にたくさんの花をつける大飛燕草の他にも、見たことのない品種の薔薇や阿蘭陀石竹などが並んでいる。
夜桜が選びかねていると店主である好々爺が話しかけてきた。
「お嬢さん、花がとても好きなようだね」
「あ、は、はい」
「これなんか珍しいんだが、どうかね?」
店主が指差したのは優しい紫色の小花を穂状につけた鉢植えの花だった。
「これはね、薫衣草といって香りも楽しめる花だよ」
「薫衣草……」
店主に勧められるまま、夜桜は葉を揉んで指先に移った香りを嗅いでみた。すると花がもつ瑞々しい香りとはまた違う、ふんわりと心が落ち着くような柔らかな香りがした。
「紫苑さん、紫苑さん」
夜桜の半歩後ろに控えていた紫苑を振り仰げば、彼は「いいと思うよ」と優しく微笑んだ。
薫衣草をひと鉢買い、夜桜と紫苑は市をぐるりと見て回った。
そうしているうちに午の刻を報せる鐘が鳴った。
「お昼ご飯はどうしましょうか」
「市には食事処がほとんどないし、大路の方に戻ろう」
「そうですね」
お昼時とあって、路は広場に向かう者と大路へ戻る者とでごった返していた。人波に飲まれてうまく身動きがとれない。はじめのうちは紫苑の姿を追えていたのだが、押し寄せる人々に紛れていつしか彼の姿を見失ってしまった。
(いけない。はぐれないように言われていたのに)
とりあえずこの人混みを抜けなければと、夜桜は目についた細い路へと足を踏み入れる。
(確かこの細い路の先に裏通りがあったはず)
町へは何度か足を運んでいる。夜桜は脳内の地図を頼りに歩を進めた。
細い路はすぐに抜けられ、裏通りに出る。表の大路に比べればずっと人が少なく動きはとりやすいものの、日陰になっているせいかやや薄暗く、どこかうら寂しさを感じさせた。
(ここから大門に戻れば合流できると思うのだけれど)
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「あれ、夜桜?」
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