【本編完結】春待つ桜 君待つ紫苑

南 鈴紀

文字の大きさ
13 / 52
第二話 本当の居場所

第二話 一

しおりを挟む
 記憶が戻らないながらも心穏やかな日々が過ぎ、皐月に入った。
 庭の桜の木はとうに薄紅色の花を散らせ、葉桜も終わり、今ではすっかり鮮やかな緑の葉を茂らせている。柔らかだった日射しも徐々に眩しさを増していき、ときどきひんやりと感じられた空気も爽やかなものへと移ろっていた。
 春の匂いを残しながらも夏の訪れを予感させる風が、夜桜の亜麻色の髪をそよりと揺らした。
「お待たせ」
 戸締りを確認し終えた紫苑が玄関先に戻ってきて、夜桜は緩く頭を振った。
「いいえ。戸締りありがとうございます」
「忘れ物はない? お守りは持ってるよね?」
「はい、もちろん」
 夜桜は懐から白地に銀糸が入ったお守りを取り出して、紫苑に見せた。これは夜桜が町へ出かけるようになってから紫苑に持たされたものである。袋の中には折りたたまれた護符が入っているそうで、夜桜の身を守ってくれるという話だった。
 夜桜がお守りを仕舞い直すのを確認して、紫苑は「なら行こうか」と町の方へ足を向けたので夜桜も彼に倣う。
 二人並び歩きながら竹林を、そして畑の間のあぜ道を抜ける。
 初めてこの道を紫苑と歩いたときは道の端を春の草花が彩っていたが、季節が移りかわるにつれて夏を予感させる草花が芽生え始めていた。
 桃色の花を咲かせるのは夕化粧、白っぽい花をいくつもつけているのは春紫苑、柔らかな黄色の花は母子草のものだ。他にも花はつけていなくとも緑の葉をいっぱいに広げ、茎をぐんと伸ばす草花もそこかしこにあった。
 夜桜が足元を見ながら歩いていると、隣から声が降ってきた。
「今日は何を買うの?」
 夜桜は紫苑を仰ぎ見て、好奇心から表情を明るくした。
「今日は広場で市が立つらしいのでそれを見てみたいと思っています」
「へえ、そんなのあるんだ」
「はい。私もこの前町へ行ったときに初めて知りました」
 夜桜は微苦笑のような表情を浮かべる。
(紫苑さんはしっかりしているようでいて、案外抜けているというか、あまり他事に関心がなさそうなのよね)
 それはここ二月ほど紫苑と暮らしてみて夜桜が発見したことだった。
 紫苑は夜桜には優しく、また夜桜に関係することには敏感だが、それ以外の事物にはあまり興味を示さない。料理や掃除などの最低限の家事はやっても、園芸を除いて基本的に凝ったことをしない。衣食住にもこだわりがなく、それぞれの機能さえ果たせればそれでいいようで、人間関係についても頓着を見せないどころか煩わしそうにしている節さえあった。
 だから今日の市のことを紫苑が知らないのも無理からぬ話だろう。
 まもなく見えてきた町の入り口である大門には、普段以上の人々が吸い込まれ、賑やかな声に溢れている。
「すごい人ですね」
「そうだね。はぐれないように気をつけて」
 二人もまた人の流れに乗り、大門をくぐると町に入った。
 広い大路にはやはり人が溢れかえっていて、人の歩みは緩やかだった。これでは大路の先にある広場にたどり着くのもひと苦労だろう。人波に紫苑の姿を見失わないよう、夜桜は必死に彼の姿を追いかける。
 そうしてやっとの思いで広場に出た。
「わあ……!」
 広場を取り囲むようにいくつもの茣蓙が敷かれ、その上にたくさんの商品が並べられている。普段の町では見かけないような食料品や雑貨などがあちこちに溢れていた。
 その中で真っ先に夜桜の目を引いたのは花だった。行きつけの花屋にも十分な種類があると思っていたが、市に並ぶ花々には書では見かけたものの実際には夜桜の目にしたことのないものがいくつもある。
「あれは瑠璃唐草で、こっちは大飛燕草ね。本物だわ……」
 夜桜が感動に浸っていると、隣でくすりと紫苑が笑んだ。
「せっかくだし何か買っていこうか」
「はい……!」
 夜桜が見つけた涼やかな青紫色が美しい瑠璃唐草やふわふわと縦にたくさんの花をつける大飛燕草の他にも、見たことのない品種の薔薇や阿蘭陀石竹などが並んでいる。
 夜桜が選びかねていると店主である好々爺が話しかけてきた。
「お嬢さん、花がとても好きなようだね」
「あ、は、はい」
「これなんか珍しいんだが、どうかね?」
 店主が指差したのは優しい紫色の小花を穂状につけた鉢植えの花だった。
「これはね、薫衣草といって香りも楽しめる花だよ」
「薫衣草……」
 店主に勧められるまま、夜桜は葉を揉んで指先に移った香りを嗅いでみた。すると花がもつ瑞々しい香りとはまた違う、ふんわりと心が落ち着くような柔らかな香りがした。
「紫苑さん、紫苑さん」
 夜桜の半歩後ろに控えていた紫苑を振り仰げば、彼は「いいと思うよ」と優しく微笑んだ。
 薫衣草をひと鉢買い、夜桜と紫苑は市をぐるりと見て回った。
 そうしているうちに午の刻を報せる鐘が鳴った。
「お昼ご飯はどうしましょうか」
「市には食事処がほとんどないし、大路の方に戻ろう」
「そうですね」
 お昼時とあって、路は広場に向かう者と大路へ戻る者とでごった返していた。人波に飲まれてうまく身動きがとれない。はじめのうちは紫苑の姿を追えていたのだが、押し寄せる人々に紛れていつしか彼の姿を見失ってしまった。
(いけない。はぐれないように言われていたのに)
 とりあえずこの人混みを抜けなければと、夜桜は目についた細い路へと足を踏み入れる。
(確かこの細い路の先に裏通りがあったはず)
 町へは何度か足を運んでいる。夜桜は脳内の地図を頼りに歩を進めた。
 細い路はすぐに抜けられ、裏通りに出る。表の大路に比べればずっと人が少なく動きはとりやすいものの、日陰になっているせいかやや薄暗く、どこかうら寂しさを感じさせた。
(ここから大門に戻れば合流できると思うのだけれど)
 なんだか胸がざわつく。早いところこの路を後にしてしまおうと夜桜が一歩を踏み出したとき。
「あれ、夜桜?」
「…………え」
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

処理中です...