【本編完結】春待つ桜 君待つ紫苑

南 鈴紀

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第三話 束の間の平穏

第三話 六

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 その翌日、翌々日と紫苑は仕事に出ていた。家事はおろか紫苑の見送りもできずに美桜は寝込んでいたが、その分快復は早かった。
 寝てばかりいたせいでときどき足元がふらつくが、風邪の症状はもうほとんどない。家事をするにはまだ体力が足りないが、今朝は数日ぶりに紫苑と居間で食卓を囲めた。その流れで美桜は玄関で紫苑の見送りに出た。
「まだ治りきってないんだから無理はしないでよ」
「わかってるわ。紫苑もお仕事頑張ってね」
「うん、ありがとう。行ってきます」
「いってらっしゃい」
 何気ない日常の一幕。美桜も紫苑も、今日という日が平穏無事に過ぎるのだと信じて疑わなかった。しかしその日、亥の刻を過ぎても美桜は家にひとりきりのままだった。
 居間に灯した行灯の火影がゆらりとゆらめくと、壁に映る美桜の影も頼りなげに揺れる。
(今までこんなことなかったのに……)
 紫苑は酉の刻を少し過ぎたころに帰宅することが多く、どんなに遅くとも戌の刻ごろには家に着き、美桜と夕食を共にしていた。
 酉の刻になっても紫苑が帰ってこなかったので、美桜は無理しない程度に夕食の準備を済ませていた。帰りが遅くなるようなら先に食べていていいと紫苑からは前もって言われていたが、彼を待っているうちに気づけば夜が更けていた。かといってこの状況でひとり夕食を摂る気になるはずもなく、美桜は居間で紫苑の帰りを待ち続けていた。
 似たような状況に心当たりがある美桜の不安は大きくなるばかりで、時だけが静かに流れていく。
(おじさんが亡くなったと聞かされた時も、こんなふうに静かな夜だった……)
 美桜のいう『おじさん』とは紫苑の父のことである。美桜の両親と紫苑の母親が他界した後、実の息子である紫苑だけでなく美桜にまで愛情を注いでくれた、美桜の第二の父親ともいえる人だった。
 彼もまた今の紫苑のように呪詛や呪詛返し、解呪を得意とする陰陽省所属の陰陽師だった。腕の立つ陰陽師として名高かった紫苑の父は毎日忙しそうにしていたが、どんなに遅くなっても必ずその日のうちには帰ってきてくれた。
 それがあの日は日付が変わっても帰宅せず、美桜は心配と不安のあまり眠気すら忘れて、紫苑と身を寄せ合いながら居間で彼の帰りを待っていた。
 そうして丑の刻が近づいてきたころ、玄関の方で物音がした。
 美桜は弾かれるように立ち上がると玄関に向かって駆け出した。紫苑もそのあとを追う。
 玄関の戸を引き開け「おかえりなさい」と言おうとした。しかし喉まで出かかったその言葉を美桜は飲みこんでしまった。
 玄関先に佇んでいたのは陰陽省所属を示す上下が黒の袴姿の男性だった。彼は美桜と紫苑も面識のある、紫苑の父の部下だった。朧げな月の光の下でも、彼の表情が沈痛に歪んでいるのがわかる。
 嫌な予感がする。言葉を失う美桜に代わって、後から玄関先に出てきた紫苑が口を開く。
「父はどうしましたか」
 しばらくの沈黙の後、部下は声を震わせながらようやく紫苑の問いに答えた。
「……呪詛返しに、失敗して……。お亡くなりに、なりました……」
「え……」
 一瞬で美桜の頭の中は真っ白になる。紫苑の父の仕事が命懸けのものであることは知っていたが、それが現実になる日が来るとは想像もしていなかった。現実を受け入れられない美桜の思考は空回るばかりで、呆然としたままその場に立ち尽くすことしかできない。
 一方で紫苑は「……そうですか」と呟いたきり、黙り込んでしまった。
 その後のことはよく憶えていないが、今でも鮮明に思い出せることがあるとすれば胸に開いた穴に隙間風が吹き込むような喪失感だった。
(大丈夫。大丈夫よ……)
 何度目になるかわからない『大丈夫』を自身に言い聞かせるように心の中で繰り返し唱える。紫苑は大丈夫だと信じたいのに、現実の非情さを嫌というほど知っている美桜の不安が完全に払拭されることはない。
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