30 / 52
第三話 束の間の平穏
第三話 六
しおりを挟む
その翌日、翌々日と紫苑は仕事に出ていた。家事はおろか紫苑の見送りもできずに美桜は寝込んでいたが、その分快復は早かった。
寝てばかりいたせいでときどき足元がふらつくが、風邪の症状はもうほとんどない。家事をするにはまだ体力が足りないが、今朝は数日ぶりに紫苑と居間で食卓を囲めた。その流れで美桜は玄関で紫苑の見送りに出た。
「まだ治りきってないんだから無理はしないでよ」
「わかってるわ。紫苑もお仕事頑張ってね」
「うん、ありがとう。行ってきます」
「いってらっしゃい」
何気ない日常の一幕。美桜も紫苑も、今日という日が平穏無事に過ぎるのだと信じて疑わなかった。しかしその日、亥の刻を過ぎても美桜は家にひとりきりのままだった。
居間に灯した行灯の火影がゆらりとゆらめくと、壁に映る美桜の影も頼りなげに揺れる。
(今までこんなことなかったのに……)
紫苑は酉の刻を少し過ぎたころに帰宅することが多く、どんなに遅くとも戌の刻ごろには家に着き、美桜と夕食を共にしていた。
酉の刻になっても紫苑が帰ってこなかったので、美桜は無理しない程度に夕食の準備を済ませていた。帰りが遅くなるようなら先に食べていていいと紫苑からは前もって言われていたが、彼を待っているうちに気づけば夜が更けていた。かといってこの状況でひとり夕食を摂る気になるはずもなく、美桜は居間で紫苑の帰りを待ち続けていた。
似たような状況に心当たりがある美桜の不安は大きくなるばかりで、時だけが静かに流れていく。
(おじさんが亡くなったと聞かされた時も、こんなふうに静かな夜だった……)
美桜のいう『おじさん』とは紫苑の父のことである。美桜の両親と紫苑の母親が他界した後、実の息子である紫苑だけでなく美桜にまで愛情を注いでくれた、美桜の第二の父親ともいえる人だった。
彼もまた今の紫苑のように呪詛や呪詛返し、解呪を得意とする陰陽省所属の陰陽師だった。腕の立つ陰陽師として名高かった紫苑の父は毎日忙しそうにしていたが、どんなに遅くなっても必ずその日のうちには帰ってきてくれた。
それがあの日は日付が変わっても帰宅せず、美桜は心配と不安のあまり眠気すら忘れて、紫苑と身を寄せ合いながら居間で彼の帰りを待っていた。
そうして丑の刻が近づいてきたころ、玄関の方で物音がした。
美桜は弾かれるように立ち上がると玄関に向かって駆け出した。紫苑もそのあとを追う。
玄関の戸を引き開け「おかえりなさい」と言おうとした。しかし喉まで出かかったその言葉を美桜は飲みこんでしまった。
玄関先に佇んでいたのは陰陽省所属を示す上下が黒の袴姿の男性だった。彼は美桜と紫苑も面識のある、紫苑の父の部下だった。朧げな月の光の下でも、彼の表情が沈痛に歪んでいるのがわかる。
嫌な予感がする。言葉を失う美桜に代わって、後から玄関先に出てきた紫苑が口を開く。
「父はどうしましたか」
しばらくの沈黙の後、部下は声を震わせながらようやく紫苑の問いに答えた。
「……呪詛返しに、失敗して……。お亡くなりに、なりました……」
「え……」
一瞬で美桜の頭の中は真っ白になる。紫苑の父の仕事が命懸けのものであることは知っていたが、それが現実になる日が来るとは想像もしていなかった。現実を受け入れられない美桜の思考は空回るばかりで、呆然としたままその場に立ち尽くすことしかできない。
一方で紫苑は「……そうですか」と呟いたきり、黙り込んでしまった。
その後のことはよく憶えていないが、今でも鮮明に思い出せることがあるとすれば胸に開いた穴に隙間風が吹き込むような喪失感だった。
(大丈夫。大丈夫よ……)
何度目になるかわからない『大丈夫』を自身に言い聞かせるように心の中で繰り返し唱える。紫苑は大丈夫だと信じたいのに、現実の非情さを嫌というほど知っている美桜の不安が完全に払拭されることはない。
寝てばかりいたせいでときどき足元がふらつくが、風邪の症状はもうほとんどない。家事をするにはまだ体力が足りないが、今朝は数日ぶりに紫苑と居間で食卓を囲めた。その流れで美桜は玄関で紫苑の見送りに出た。
「まだ治りきってないんだから無理はしないでよ」
「わかってるわ。紫苑もお仕事頑張ってね」
「うん、ありがとう。行ってきます」
「いってらっしゃい」
何気ない日常の一幕。美桜も紫苑も、今日という日が平穏無事に過ぎるのだと信じて疑わなかった。しかしその日、亥の刻を過ぎても美桜は家にひとりきりのままだった。
居間に灯した行灯の火影がゆらりとゆらめくと、壁に映る美桜の影も頼りなげに揺れる。
(今までこんなことなかったのに……)
紫苑は酉の刻を少し過ぎたころに帰宅することが多く、どんなに遅くとも戌の刻ごろには家に着き、美桜と夕食を共にしていた。
酉の刻になっても紫苑が帰ってこなかったので、美桜は無理しない程度に夕食の準備を済ませていた。帰りが遅くなるようなら先に食べていていいと紫苑からは前もって言われていたが、彼を待っているうちに気づけば夜が更けていた。かといってこの状況でひとり夕食を摂る気になるはずもなく、美桜は居間で紫苑の帰りを待ち続けていた。
似たような状況に心当たりがある美桜の不安は大きくなるばかりで、時だけが静かに流れていく。
(おじさんが亡くなったと聞かされた時も、こんなふうに静かな夜だった……)
美桜のいう『おじさん』とは紫苑の父のことである。美桜の両親と紫苑の母親が他界した後、実の息子である紫苑だけでなく美桜にまで愛情を注いでくれた、美桜の第二の父親ともいえる人だった。
彼もまた今の紫苑のように呪詛や呪詛返し、解呪を得意とする陰陽省所属の陰陽師だった。腕の立つ陰陽師として名高かった紫苑の父は毎日忙しそうにしていたが、どんなに遅くなっても必ずその日のうちには帰ってきてくれた。
それがあの日は日付が変わっても帰宅せず、美桜は心配と不安のあまり眠気すら忘れて、紫苑と身を寄せ合いながら居間で彼の帰りを待っていた。
そうして丑の刻が近づいてきたころ、玄関の方で物音がした。
美桜は弾かれるように立ち上がると玄関に向かって駆け出した。紫苑もそのあとを追う。
玄関の戸を引き開け「おかえりなさい」と言おうとした。しかし喉まで出かかったその言葉を美桜は飲みこんでしまった。
玄関先に佇んでいたのは陰陽省所属を示す上下が黒の袴姿の男性だった。彼は美桜と紫苑も面識のある、紫苑の父の部下だった。朧げな月の光の下でも、彼の表情が沈痛に歪んでいるのがわかる。
嫌な予感がする。言葉を失う美桜に代わって、後から玄関先に出てきた紫苑が口を開く。
「父はどうしましたか」
しばらくの沈黙の後、部下は声を震わせながらようやく紫苑の問いに答えた。
「……呪詛返しに、失敗して……。お亡くなりに、なりました……」
「え……」
一瞬で美桜の頭の中は真っ白になる。紫苑の父の仕事が命懸けのものであることは知っていたが、それが現実になる日が来るとは想像もしていなかった。現実を受け入れられない美桜の思考は空回るばかりで、呆然としたままその場に立ち尽くすことしかできない。
一方で紫苑は「……そうですか」と呟いたきり、黙り込んでしまった。
その後のことはよく憶えていないが、今でも鮮明に思い出せることがあるとすれば胸に開いた穴に隙間風が吹き込むような喪失感だった。
(大丈夫。大丈夫よ……)
何度目になるかわからない『大丈夫』を自身に言い聞かせるように心の中で繰り返し唱える。紫苑は大丈夫だと信じたいのに、現実の非情さを嫌というほど知っている美桜の不安が完全に払拭されることはない。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる