【本編完結】春待つ桜 君待つ紫苑

南 鈴紀

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第三話 束の間の平穏

第三話 八

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 腕の中で穏やかな寝顔を見せる美桜を見下ろして、紫苑は頬を緩めた。
(やっぱり、可愛いな)
 本当なら布団に寝かせた方がいいのだろうが、離れがたくなった紫苑はそのままの体勢でいた。今日は帰りが大分遅くなってしまったから、その分美桜が恋しくて仕方ない。
(もう少しだけ、このままで……)
 本格的な眠りに入ったのか、紫苑にかかる美桜の体重が増す。その拍子に美桜の体がずれたので抱え直そうとして、右腕に走る鋭い痛みに紫苑は顔を歪ませた。
(……本当に、忌々しい)
 怪我のせいで満足に腕が動かせないことも、この傷をつくることになった先刻の出来事も。
 紫苑は内心で舌打ちすると痛みを無視して美桜を抱え直したが、ずきずきとした痛みが嫌でも紫苑に先ほどの戦いのことを思い起こさせた。
美桜には『仕事で少し下手を打っただけ』と言ったが、事実は少し違っていた。
今日も紫苑は定時で仕事からあがっていて、何事もなければ酉の刻を過ぎたころには美桜のもとに帰ることができるはずだった。
しかし勤務先を出ていくらも歩かないうちに、紫苑は背後をつけられている気配を敏感に察知していた。
(式神が一体か)
 楓から忠告を受けていたので、戸塚に狙われる可能性を考えていなかったわけではない。念のために霊符も何種類か携帯している。紫苑自身を囮にして戸塚と決着をつけるという意味では好都合だった。
(だけど……)
 想定外だったのは行動に移す早さだった。まさかこんなに急に仕掛けてくるとは思っていなかったため、紫苑としては一応の準備はできていても十分とは言い難く、確実に片をつけるには少々不安がある。
(かといって、こうして式神につけさせたまま家に帰れば美桜に危険が及ぶかもしれない)
 それだけは絶対に避けなければならない。
 そうであるならば紫苑にとれる選択肢はひとつしかない。
(ここで始末する)
 幸いこの場は人のほとんど通らない閑散としたあぜ道だ。
紫苑は振り向きざま「恐鬼怨雷、急々如律令」と背後の式神に向かって霊符を放った。
「っと! いきなり危ねぇな!」
「言ったはず。次は火傷程度では済まさないって」
「なんだ。憶えてたのか」
 紫苑の霊符からひらりと身をかわした烏の妖はくるりとその場で回転しながら人間姿に変化し、軽やかに着地した。紫苑に射殺さんばかりに睨まれても、風雅はにやにやと愉しげに嗤うばかりだ。
「こっちも主様に命令されてるんでね。何の成果もないまま戻るわけにはいかねぇんだわ」
 言葉では『仕方ない』と言いながらも、その目はらんらんとぎらついていて『戦いたい』と物語っている。そこには絶対に紫苑に負けないという傲慢な自信が見て取れた。
 事実、戸塚の有する式神の中で風雅は美桜の次に強い。けれどそんな風雅に簡単に負けるほど紫苑だって弱くはない。
 風雅は流れるような動作で懐から取り出した短刀の鞘を引き抜くと、一気に間合いを詰めて紫苑に斬りかかってきた。対する紫苑は短刀の軌道を読むと最小限の動きで迫る刃をかわしながら、素早く霊符を取り出して風雅へと投げ放つ。
「雷火焼炎、急々如律令」
 しかし風雅もまた反撃する。飛来してきた霊符に向かって真っ直ぐに短刀を投擲し、刺し貫く。その勢いのまま紫苑目がけて短刀ごと霊符を返した。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
 紫苑は冷静かつ反射的に九字を切って結界を張る。結界に刃が触れると、かんと甲高い音がして、短刀が地に落ちるのと同時に刃へと雷が落ち、炎があがった。
「あーあ、どうしてくれんだよ。新しい短刀が燃えちまうじゃねぇか」
 大して残念には思っていない口ぶりでわざとらしく肩を竦めてみせる風雅を、紫苑は冷たく睨み据えた。
(まだ油断はできない。『新しい』短刀に、あの態度。多分……)
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