【本編完結】春待つ桜 君待つ紫苑

南 鈴紀

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終章

終章 一

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 戸塚を倒してから数日後、美桜と紫苑の日常は静けさと穏やかさを取り戻していた。
 美桜は戦いの中で細かなかすり傷以外に傷を負うことがなく、紫苑も霊符の効果と陰陽省に存在する医療班の治癒のおかげですぐに日常生活に戻ることができた。楓も大きな怪我はなく、普段通りに過ごしているらしい。
 瀕死だった戸塚は東の陰陽省に身柄を引き渡され、その後何とか一命は取り留めたものの呪詛により蝕まれた身命がそっくりそのまま回復することはなく、ひどい後遺症を負ったという話だ。また、戸塚に使役されていた風雅と純子も東の陰陽省に預けられ、追って沙汰を知らされるだろうということだった。
 美桜の選択によってもたらされた結果が果たして本当に最善なものだったのかはわからない。美桜の心の片隅には彼らに対して僅かな同情があるが、それでも後悔はしていないと断言できた。
 奪った命がある。傷つけた身がある。
 犯してきた罪を償うなら、どんなに苦しくとも今を懸命に生きるしかないのだ。後悔し、立ち止まる方がよっぽど無責任な生き方だと美桜は思う。
 だけれど割り切れない思いというのも少なからずあった。
 同じ邸で寝食を共にし、死線を潜り抜けてきたことは覆しようがない。心を寄せるわけではないけれど、その事実が美桜の心に翳りをもたらす。
 美桜は内心複雑な思いでいた。
 そうして新しい一日がまた始まる。

 その日、美桜は久しぶりに庭に降りていた。というのも梅雨のために連日雨続きで庭で作業ができなかったのだ。約一週間ぶりの晴れ間に、美桜の心は軽くなる。
 風通しを良くするために葉をすきたいし、伸び放題の枝を剪定したい。見栄えを悪くする花がらも摘んでしまいたいところだ。
 汚れてもいいように木綿の着物をたすき掛けし、美桜の準備は万端だ。いざ作業を始めようとしたところで横合いから声をかけられた。
「あれ、美桜も?」
 美桜がふっと顔を上げると、美桜と似たような恰好をした紫苑が園芸道具を腕に抱えて庭に出てきたところだった。
 目を瞬かせる美桜に紫苑はそっと微笑みかける。
「せっかくだし一緒にやろう」
「ええ、そうね」
 美桜もまた柔らかく目を細めて紫苑に答えた。
 美桜が衝羽根朝顔の花がらを摘み取る隣で、紫苑は薫衣草の枝葉をすきこむ。
 二人の間には沈黙が降りていた。
 二人とも口数が多い方ではないので、こうなること自体は珍しくない。平時であれば心地よくも感じられる無言の間だ。
 しかし今ばかりは異なっていた。美桜は心ここにあらずといった様子で動作が緩慢になっていて、もちろんそれに気づかない紫苑ではない。ぎこちなささえある沈黙に少しの居心地悪さを感じながら、それでも紫苑は何も言わずにいた。
 美桜が言いたくないなら無理に聞き出そうとはしない。知らないふりをするのも優しさだと思うから。でももし美桜が話してくれたのなら全てを受け止めたかった。
 紫苑が鋏で丁寧に枝葉を切る音だけが辺りに響く。ぱち、ぱち……。
 ぱちん。
 三度目の音が鳴る。
「これしか、なかったのかな……」
 剪定の音に紛れてしまいそうなほどに、小さな声だった。
 紫苑は手を止め、ちらりと美桜に目を向ける。無言の促しに、美桜は訥々と話し出した。
「別に傷つけたかったのではないのに、こうする他に終わらせ方がわからなくて。私自身で決着をつけると決めたときに、傷つけることは覚悟したつもりだったわ。だから後悔はしていない。けれど……」
 できることなら戦わず、誰も傷つかない方法で解決したかった。
 夢見がちで甘い考えだとは思うが、それでも美桜は彼らの存在を無情に切り捨てられるほど非情にはなれない。
 こんなことを言ってはさすがの紫苑も呆れるだろうか。
 美桜がそろそろと隣を見上げると、紫苑は正面の薫衣草をじっと見つめているように見えた。しかし彼の瞳はひんやりと冷たく、ここではないどこか、あるいは誰かを睨み据えているようにも見える。
 そうして紫苑は低い声でぽつりと呟いた。
「僕はこの結果ですら甘いと思うよ」
 吐き捨てるような呟きには、美桜のような葛藤がない。戸塚は一時瀕死に陥ったが、それすら甘い結果だと紫苑は言う。言外に死んでしまっても構わなかったと彼は言い切った。
「戸塚もその式神も、完全にいなくなってくれた方が良かった。僕としてはその方が安心できたから」
 口調こそ淡々としたものだったが、言葉の端々には憎悪が滲んでいる。
 しかし、継いだ「だけど」という声にはもう冷酷さは宿っていなかった。
「美桜はそうは思わないんだよね」
「……呆れないの?」
「呆れないよ。僕と違って、美桜は誰かを傷つけると美桜自身をも傷つけてしまうくらいに優しい。そんな美桜だから、僕は守りたいと思うし、好きだから」
 この結末は迎えるべくして迎えたのだ。何が良かったのか、誰が悪かったのか。そういったものはもとより存在しないのだから。
「それに約束したでしょ? 美桜の側にいる、一緒に生きようって」
 鋏を置き、紫苑は美桜に向き直るとそっと右手を差し出した。待っていると、一緒に行こうと。紫苑の思いが聞こえる気がする。
 血に塗れ、罪に染まった手だけれど。迷いばかりで頼りない足取りだけれど。
 相手が紫苑なら、美桜は手を伸ばせる。隣に並び、歩ける。
 ありのままの美桜でいいと、紫苑が全てを受け止めてくれたおかげか、美桜の胸に残り続けていたわだかまりはいつの間にか解けて消えてしまっていた。
 それが罪深いことだと知りながら、美桜の胸を満たすのは背徳的なまでの愛しさだった。
 想いのままに美桜が紫苑に手を伸ばすと、くいっと腕を引かれる。気づけば美桜は紫苑の胸の中にいた。驚いたのは一瞬で、美桜は自然と紫苑に身を預けた。
(ここが、私の居場所だわ)
 美桜が美桜らしくいられる唯一絶対の場所。
一番に感じられるのは大好きな人の柔らかな体温と心地よい鼓動の音だ。それから降ってきたのは優しい声だった。
「美桜」
 誘われるようにして顔を上げた美桜の視界いっぱいに映ったのは、心底愛おしげに微笑む紫苑の顔だった。
いつしか柔らかだった体温は熱を帯び、心地よかった鼓動はとくとくと速まっていたが、それがどちらのものかはもうわからないし、どうでもいいことだった。
 求めるまま、求められるままに二人は口づけを交わし合う。
 今だけは言葉は要らなかった。
 あなたが私の居場所で。あなたのいる世界が生きたいと思える場所で。隣にあなたがいてさえくれれば、それが私にとっての幸せで。不変の愛を祈りながら、これから先ずっと共にあることを誓う。
 それが私の想いで、あなたの想い。
 花を咲かせることを忘れても春を待ち望んでいた桜には気づけば数多の蕾がつき、膨らみ、やがてほころび、満開の花を咲かせた。
 遠い君を想い続けるように紫苑の花はただひたすらに咲き続け、ようやくその想いが報われるときを迎えた。
 桜は春を待ち、紫苑は君を待っていた。
 その想いが成就した今ではこう願う。
 春を過ぎても咲き誇る満開の桜の花と今なお君を想い続けて咲く紫苑の花が、永遠に共にありますように、と。
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