【本編完結】春待つ桜 君待つ紫苑

南 鈴紀

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後日談

ある特別な日

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 時が流れて迎えた神無月一四日。
 朝のうちにやるべきことを済ませた美桜は庭に出た。秋の香りを乗せた風がさあっと吹き抜け、庭に咲いた薄い青紫色をした紫苑の花を揺らす。その側には紫苑がかがんでいて雑草を抜いているところだった。
「ねえ、紫苑」
 縁側から美桜が呼びかけると、紫苑はすぐに振り返った。
「うん、どうしたの?」
「今から町へ出ようと思って。紫苑はどうする?」
 紫苑はいくらも間を置かず「僕も行くよ」と立ち上がる。
 戸塚が美桜を狙っていたときはあまり出歩かないようにと言いつけられていたが、今ではわりと自由に町へ行けるようになった。紫苑が仕事でいない間に美桜ひとりだけで買い物に出かけることもあるが、紫苑が休みの日は大抵ふたり一緒に町へ繰り出す。そんな些細な違いが美桜にとってはこの上なく幸せなことのように感じられるのだ。
 美桜は小さな笑みをもらす。
「なら、すぐに支度を済ませるわ」
「うん。僕もすぐに準備するよ」
 紫苑もくすぐったそうに目を細めた。
 一緒にいる時間が少しでも長くなるようにと、ふたりはいそいそと支度にとりかかるのだった。

「それで、今日は何の用事があるの?」
 町までの道程を並んで歩きながら、紫苑は不思議そうな顔をして美桜に尋ねた。
 美桜は僅かに目を見開き、大きな目をぱちぱちと瞬かせ、そうして苦笑した。
「……そうね。和菓子屋さんに行きたいの」
「もうなかったっけ?」
 時間があるときにはふたり一緒に縁側でお茶を淹れて休息をとることが定番になっているので、家には保存のきく菓子が置いてある。
 美桜は緩く首を左右に振った。
「あるにはあるけれど。今日は違うものを用意したいの」
「そう、なんだ……?」
 いまいち分かっていなさそうな返事に、美桜は困ったように笑った。
 それから他愛のない話をしながら歩き続け、町に到着した。
目的である和菓子屋には真っ直ぐ向かわず、小間物屋や花屋などに立ち寄り、昼食も済ませる。午の刻を半刻過ぎたあたりでようやく和菓子屋の暖簾をくぐった。
「こんにちは」
 美桜が挨拶すると、店主の男性はにこやかにふたりを出迎えた。
「やあ、美桜ちゃん。紫苑くんも、いらっしゃい」
「お世話になってます」
 贔屓にしている和菓子屋なので、店主とはそれなりに親しい。紫苑の言葉に「こちらこそ、毎度ご贔屓に」と笑うと、店主は美桜に向き直った。
「頼まれてたものを取りに来たのかな?」
「はい」
「今とって来るから少し待っててね」
 店主は店の奥に消えると、小さな風呂敷包みを持って戻ってきた。
「はい、これね」
 美桜は中身を確認し、ほっと目元を緩めた。
「きれい……。ありがとうございます」
「喜んでくれるといいね」
 代金はすでに支払っている。美桜は頷くと踵を返した。
「用事はこれだけ?」
「ええ。帰りましょうか」
 今度は寄り道することなく、美桜と紫苑は帰路を辿った。

 家に帰りつくと、未の刻を半刻ほど過ぎた時間だった。
「ねえ、紫苑。お茶にしない?」
 大体このくらいの時間にお茶をすることが多いので、紫苑は特に考えもせず「そうだね」と答えた。
緑茶を淹れ、小皿と黒文字を用意し、縁側に向かう。
 腰を落ち着けたところで、美桜は受け取ってきたばかりの風呂敷包みを引き寄せ、そっと開いた。中には木の小箱があり、その蓋を外す。
「……この花……」
 紫苑にしては珍しく目を見開いて驚いているようだった。
 中には薄紫色の花を模した上生菓子が二つ収まっている。見る人が見ればその花が紫苑の花であるとわかるくらいに、上生菓子はよくできていた。
 そこで美桜はふふっと笑みの吐息をもらし、紫苑に微笑みかけた。
「お誕生日おめでとう、紫苑」
「…………あ」
 そこでようやく紫苑は今日が自分の誕生日であったと思い至ったようだった。美桜は可笑しそうに小さく笑う。
「やっぱり忘れてたのね。私の誕生日はちゃんとお祝いしてくれたのに」
 春先に庭の桜の木を愛でながら、桃色をした桜の花を模した上生菓子を一緒に食べたことを思い出す。あのときはまだ自分を『夜桜』というただの少女だと思い込んでいた。珍しく上生菓子が出てきたのでどうしたのだろうと思ったが、紫苑からは「お花見だから」としか答えが返ってこなかった。今になってみれば美桜の記憶を無理矢理引っ張り出すことで負担をかけないようにという紫苑なりの配慮だったのだとわかる。しかし、記憶を取り戻せば、あの日は美桜の誕生日で、昔から上生菓子を祝い菓子にしていたことを思い出した。反対もまた然りで、紫苑の誕生日は美桜がこうしてお祝いしていたことも。
 紫苑は美桜に関することはきちんとしているのに、それ以外のことは彼自身を含めて無頓着なきらいがある。だからこの反応も予想済みといえば予想済みだった。
「それは、美桜は特別だから。自分のは別に……」
「私にとっては紫苑の誕生日だって大切よ」
 少し不満げに美桜が言うと、紫苑は困ったように口を閉ざした。だから美桜はここぞとばかりに続ける。
「紫苑がいるから私は今ここにいられるのよ。生きていてもいいんだって、生きなくちゃいけないって思えるの」
「……」
「だからね、紫苑。私の側にいてくれてありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう」
 ふわりと花がほころぶように、優しく笑う。
 すると手が伸びてきて、一瞬のうちに美桜は紫苑の腕のなかにすっぽりと収まっていた。
「あ、あの。しお……」
「……夢みたいだなって」
 美桜の戸惑いの声は、紫苑の切なげな囁きによって遮られた。
「美桜がいなくなった後、もうこんな日は来ないんじゃないかって思ったこともあったんだ。祝ってほしい人がいない誕生日なんて空しいだけで、どうでもいいって」
「紫苑……」
「でも、そっか。他でもない美桜に祝ってもらえるなら、こんなに幸せな日はないね」
 そう言って紫苑は腕の力を強める。大切な人がもういなくならないように、幸せをかみしめるように。紫苑の顔は見えなかったが、その声音から穏やかに微笑んでいるのだろうと想像できた。
「ねえ、美桜」
 抱きしめる力が強くなったことで二人の距離はさらに近づいた。美桜の耳朶をくすぐる吐息の音が先ほどよりも明瞭に聞こえる。紫苑の小さな囁き声が妙に艶っぽくて、美桜の心臓はうるさいくらいに早鐘を打っていた。
「な、何……?」
「誕生日祝いに欲しいもの、お願いしてもいい?」
 幼い日、紫苑と別れてからは当然誕生日を祝うことなんてできなかった。その期間の分も考えれば、上生菓子だけでお祝いというのもなんだか無味乾燥な気がする。だから美桜はこくりと頷いた。
「ええ。私で叶えられるものなら」
「美桜じゃないと駄目」
「そうなの?」
「うん。……だって、欲しいのは美桜だから」
 熱い吐息が耳に触れる。
「美桜の全部が欲しい。……叶えてくれる?」
 愛しい人に求められているように、美桜もまた彼を求めている。そのことに気づけば、返す言葉はひとつだけだった。
「……はい……」
 恥ずかしくて消え入りそうな声だったが、紫苑はちゃんと美桜の声を拾ってくれた。
「良かった……。美桜」
 紫苑は美桜から僅かに体を離すと、顔を覗き込んだ。隙間なくくっついていたので、少し離れるだけで寒くなるような気がする。紫苑の体温を恋しく思っていると、唇に熱を感じた。深くなっていく口づけに互いの熱が交じり合って、心地よさに酔いそうになる。酩酊に近い感覚でくらりと傾いだ美桜の体を紫苑が支えた。
 美桜の薔薇色に染まった頬と熱に潤んだ瞳を目にすると、紫苑は「かわいい」と目を細め、今度は軽い口づけを落とした。
「続きは夜に、ね?」
 紫苑は妖しく艶やかに微笑むが、美桜はといえばこくこくと頷くだけで精一杯だった。
 紫苑は美桜の頭を撫でると「じゃあ、ちょっと休憩」と言って、小皿に取り分けた上生菓子を美桜に手渡してくれた。
「せっかく美桜が僕のためにって用意してくれたし、美味しいうちに食べよう」
「そ、そうね」
 「いただきます」と声をそろえ、各々黒文字で上生菓子を切り分けて口に運ぶ。滑らかな舌触りとやさしい甘さに、美桜はほっと息を吐いた。隣をちらりと仰ぎ見ると、紫苑もくつろいだ表情をしていた。
 美桜がそのまま紫苑の横顔を見つめていると、ふいに目が合った。紫苑は何を言うでもなく、ただ柔らかに微笑んだ。だから美桜も同じように笑み返す。
 これからも互いの誕生を祝い合おう。私の隣にはあなたが、僕の隣にはあなたがいる。そんな穏やかで幸せな日常を共にしながら。
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みんなの感想(1件)

橘花やよい
2024.01.18 橘花やよい

最初の方の、主人公たちの穏やかな日常が素敵ですね。そこから記憶を取り戻したあとの切なさや苦しさ……。もう一度、穏やかな日々が戻ってくることを祈りたいです。

2024.01.18 南 鈴紀

ありがとうございます!
彼らの今後がどうなるのか、見届けていただけますと大変嬉しく思います。

解除

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