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第五話 覚醒
第五話 一
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一刻後、鴇羽が本部に戻ってきた。
「ただいま」
本部長室の扉を潜る鴇羽は家に帰ってきたときと同じような明るい挨拶をした。ぱっと見たところ怪我もなさそうだ。
「ときちゃん」
襲われたときの衝撃は完全には覚めやらない。危険なあの場を任せた遥杜のこと、わざわざ鴇羽を赴かせたこと、まだ帰ってこない雅仁のこと。
胸を占める恐怖と不安を早くなくしたくて、鈴音は鴇羽に駆け寄るとぎゅうと腰に抱きついた。
「わわっ」
(あったかい)
骸は冷たくなるとはっきり覚えている。鴇羽が生きていると実感した鈴音の両目からぽろぽろと涙がこぼれた。涙の味も温度もとうの昔に忘れていたのに、どうして忘れられていたのか不思議なくらい胸が強く痛む。
驚きで固まっていた鴇羽だったが、泣きじゃくる鈴音の頭に優しく手を置いた。
「泣かないで、すずちゃん。ぼくもはるちゃんも大丈夫だから、ね?」
こくこくと頷いてはみるが、やはり涙は止まらない。
鴇羽は「よっと」と鈴音を抱え上げると空いていた横に長い革張りの椅子に腰かけた。鈴音は彼の膝に乗っていた。
「鴇羽、おかえり」
向かいの椅子に座っていた瑠璃がそっと鴇羽の隣に移動する。
「怪我してない?」
「はるちゃんもまさちゃんもいたからね。ぼくは全然平気だよ」
「良かった」
瑠璃はほっと胸を撫でおろした。
鈴音たちの対面で様子をうかがっていた千里の表情も幾分か和らいだものになる。
「鴇羽が無事で何よりです。ところで遥杜たちは?」
「んーとね、はるちゃんを連れて戦線離脱したはいいんだけど、こっちまでは体力がもたなそうだったから今は家で休んでもらってるよ。はるちゃんは大丈夫だって言ってたけどうわごとみたいだったから、ここに来る前に神楽さんには報告しちゃった」
「正しい判断だったと思います」
あの分岐地点で鈴音は兄たちがいる本部に続く左を選んだが、右に進めば自宅につながる。あそこから本部まではそこそこ距離があり、もし遥杜が途中で倒れたら鴇羽ひとりでは連れてこられなかっただろう。家の方が近いので賢明な判断だった。
「雅仁兄さんはどうしたんです?」
「まさちゃん怒ってたんだもん。怖いから放っておいたけど、きっと大丈夫だよ」
「ああ、なら大丈夫ですね」
「酷いなぁ。少しくらい心配してくれてもいいだろうに」
口ぶりこそ拗ねているように聞こえるが、声からは全く緊張感が感じられず暢気なものだ。
瑠璃がぱっと入口の方に顔を向けたが、びくっと肩を跳ねさせてすぐに目を逸らした。
「お、おかえりなさい……まさ兄……」
瑠璃は明らかに怯えている。
鈴音も雅仁の姿を見て、安堵より不安の方が勝った。
「まさちゃん、怪我してるの」
白い袂や足袋、黒くて分かりづらいがこの分では袴の裾もではないだろうか。至るところに赤い染みをつくる雅仁はへらへらと笑っている。
「いいや、ぼくは無傷だよ」
「え、でも血が」
「ああ、これはただの返り……」
「雅仁兄さん」
ぎっと千里に鋭く睨まれて、雅仁は口を噤んだ。
「瑠璃や鈴音が怖がるでしょう、やめてください」
「……そうだね。今のはぼくが悪かった」
雅仁は執務机用の椅子の背にかけられたままだったつい丈の黒い外套を広げて適当に羽織った。鉄さびの臭いは誤魔化せないが血の赤は覆い隠される。
「まさちゃんの方はどうだったの」
千里の隣に腰を下ろす雅仁を目で追いながら、鴇羽が尋ねる。
雅仁はすらすらと答えた。
「妖三体は保護。遥杜がのした二人は拘束。あとの一人は治療中で、意識が戻り次第話を聞くことにするよ」
つまらなそうに語っていた雅仁だがここでぱんっと手を打った。
「くだらない話はここまでにしよう。そんなことよりぼくはこの場にいない遥杜の方が心配だね」
「くだらないかはともかく、遥杜の具合は気になるところです。ひとまず家に戻りましょう」
皆が立ち上がる中、鈴音も鴇羽の膝からぴょんと跳び下りる。それから先頭を行く雅仁の左手を右手でぎゅっと握った。
「おや?」
雅仁の手は大きいので鈴音の片手ではするりと抜けてしまいそうだ。鈴音は左手も使って、雅仁の手を逃がさないように力をこめた。
雅仁はくすぐったそうに笑っていた。
帰宅し、雅仁は真っ直ぐに遥杜の部屋へと向かった。手を繋いだままだった鈴音も一緒についていく。
「遥杜、起きているかい」
「……声が大きい。頭に響く……」
申の刻を過ぎたあたりで、室内はまだ明るい。
布団の上で遥杜が億劫そうに薄目を開けたのが鈴音にもわかった。
「はるちゃん」
「ああ、鈴音。ちゃんと逃げられてたみたいで、良かった」
呼吸が浅く、額には汗が浮いている。布団から出ていた手に触れると温かいを通り越して熱かった。
「お熱」
「大丈夫だって言ったじゃん。こんなのはよくあることだから」
「ごめんね」
遥杜の手を両手で握りしめ、俯く鈴音は涙目だ。狐の耳と尾もしゅんと力なく垂れている。
遥杜は目を丸くしてから、指先を動かした。うまく力が入らないせいで握り返すことはできなかったが、鈴音の小さな手を包むには十分だ。
「なんでこんなときに限って泣くんだよ。いつもは『そうなんだ』で終わらせるくせに」
「わたしのせいで、はるちゃん、苦しくなってるんだよ」
「悪いことをしたのは鈴音じゃなくて福塚たちだよ。鈴音は泣かなくていいし謝らなくていい」
遥杜こそこんなときばかり優しさをみせるなんてずるい。いつものように親切なふりをして突き放してくれれば気が楽だったかもしれないのに、本人に許されてしまうと重たい気持ちの所在を失ってしまう。
一向に返事をしない鈴音に遥杜は一方的に言葉を重ねた。
「ならお互い様ってことにする? 鈴音が不安になったのは俺のせいってことになるから」
「それは違う」
顔は上げられなかったが鈴音は即座に否定した。
「はるちゃんは、わたしを逃がそうとして戦ってくれただけ。悪いことはしてないよ」
「それを言ったら鈴音はあの場で最善の選択をしただけだよ。町へ行くことは咎められることじゃなかったし、あそこに残って悪いことにはなっても良いことには絶対にならなかった。つまりは鈴音は悪くない。俺も俺のできることをした、ただそれだけ」
畳みかけるように言われて、鈴音は半ば勢いに飲まれる形で頷いた。その拍子に涙の雫がぽろりとこぼれ落ちた。
「仲違いは終わりかな」
後ろで腕を組んだまま傍観していた雅仁がにやりと笑う。
「もともと喧嘩なんてしてないけど」
「けれど仲良くはなかったね」
「わかった上で仮の家族なんて言い出したかと思ってたんだけど」
「うん、それは確かに。そしてそのさらに上で、こうなれば良いなとも思っていたよ」
雅仁は自らの直感を信じているという。遥杜は遥杜で、雅仁は意味のないことはしないと信じている。
つまり、鈴音を迎え入れた時点で雅仁は鈴音を救うだけでなく、遥杜の闇も払いたいと願っていたのだと今になって遥杜は兄の真意を知った。
ただ鈴音はそこまで深くは理解していないので、雅仁と遥杜のやり取りに首を傾げる。
「まさちゃんとはるちゃん、喧嘩してたの?」
「いや、してないけど。なんで俺と雅仁兄さん……?」
「ここにいるのが、まさちゃんとはるちゃんだけだから」
「……鈴音もいるけど。まあ、いいや」
遥杜はふうっと一息吐いた。口達者なので話しているとつい元気そうな気がしてしまうが、やはり体調は悪いのだろう、気怠げだ。
「では、ぼくたちは居間に戻ろうか」
「はるちゃんに用があったんじゃないの」
あっさりと踵を返す雅仁を鈴音は振り仰ぐ。わざわざ起きているか確認していたくらいだから、何か用があるものだとばかり思っていた。
しかし雅仁は「用ならすでに済んだよ」とけろりと答える。
「頼もしい雅仁兄さんの顔を見たら遥杜も安心するかと思ってね」
「……雅仁兄さんの声聞いてたら余計に頭痛くなってきた」
「おや、それはいけない。鈴音、行こうか」
雅仁は大仰な仕草で目を丸くしてみせると、鈴音を呼んで襖を開けた。鈴音もぱっと立ち上がって雅仁の後に続く。
大きな声が頭に響くと言っていたので、鈴音はそろそろと静かに襖を閉めていた。閉じきる寸前に「ありがとう」と遥杜の囁きが聞こえた気がした。
遥杜のいない夕飯の後、湯浴みまで済ませた鈴音は兄たちに「おやすみ」と言って自室に引き上げた。
布団を敷いても横になる気にはならず、落ち着かない気持ちで部屋の隅で膝を抱える。肩にぶつかる障子に体を預けると、月明かりが大きくなった。
ぼうっと薄闇を眺めていると夕方の会話が思い出される。
(はるちゃんは間違ったこと、言ってない。だけど)
お互いにできることをしただけで、最善の選択だった。遥杜はもちろん悪くないが、鈴音も悪くないのだろうか。無責任に町へ行きたいと言わなければ良かったと後悔が消えない。
気づけば膝を抱えていた手は障子へ伸びていた。
あの清浄な月の光なら、この罪深い苦しみを浄化してくれるかもしれないと夢想して。
最低限開けた障子戸の隙間からそっと縁側に出ると、月が優しく出迎えた。数日前が満月だったので今夜の月は少し端が欠けているが、どちらかというと円に近い形をしている。
春の夜風がさわさわと庭の植物の葉を揺らした。
耳を傾けているとざわざわしていた胸の内が少しずつ凪いでいく。
これで眠れるようになるだろうかと考え始めたところで、不意に微かな呻き声を拾った。
「はるちゃん」
鈴音の隣室から聞こえる声は何かを言っているようだが、途切れ途切れで内容までは聞き取れない。それでも苦しそうなことくらいは鈴音にもわかった。
夕飯の席にもいなかったくらいだから相当具合が良くないのだろうと思ってはいたが、こうなるとやはり心配は募る。
遥杜は多分こうなる可能性を承知した上で鈴音を守ってくれた。それなのに鈴音にできたのは逃げて、ただ守られることだけだった。
(わたしだって、はるちゃんを助けたいよ)
遥杜たちのように戦えなくても、兄たちの優しさに甘えるだけというのは嫌だ。鈴音は鈴音のやり方で、兄たちの心に応えたい、力になりたいと思うから。
徐々に思考が冴え、視界が鮮やかになっていく。
(はるちゃんの呪いを完全に祓うことはできないと思う。だけど弱めることならわたしにもできるはず。それで苦しさが和らぐなら、やってみよう)
鈴音は障子戸に手を伸ばした。
今度は確かな意思をもって、自分が他者の苦しみを癒せる存在になるために。
✿
(まずい、村の人間に見つかった……!)
幼い遥杜は森の中を一心不乱に駆けていた。枝葉が茂り、あたりが薄暗いせいで、遥杜の両目の深紅がいやに鮮やかに浮かび上がる。
「妖に祟られた小僧め。村に入るな!」
「森に帰れ!」
「違う……っ。妖に祟られてなんか、っ!」
否定の言葉は背後から飛んできた凹凸の激しい石によって遮られた。勢いよく左肩にぶつかり、悲鳴を飲みこむ。
人間ではありえない血のような真っ赤な瞳を理由に遥杜は村の人間から迫害を受けていた。出会うとこうなると身に染みてわかっていたから慎重に行動していたのに、運が悪かったのかひと月ぶりに村人に出くわしてしまったのだ。不気味だ、祟られていると罵られるのはもう慣れたが、怪我の傷みに慣れることはない。
真っ向から対抗できる術はないが、生まれつき運動神経だけは人並み外れて良かったので今回も村人たちを撒いて家に帰りついた。
「遥杜!」
怒鳴り声ではない、不安に染まった母の悲鳴が出迎える。
「母さん。ごめん、もう食料がなくなりそうだって今朝父さんと話してたのが聞こえたから……」
左肩を押さえてぽつぽつと事情を説明する遥杜を母はぎゅっと抱きしめた。
「だからって遥杜がこんな目に遭う必要はないの。こんな思いをするのは私だけでいい」
「母さん……」
母の生成り色の柔らかな髪が遥杜の頬に触れる。茶色の瞳に浮かぶ涙だけは決して息子に見せまいと母はしばらく顔を上げようとしなかった。
母は周辺の村では珍しい色素の薄い人間だった。その容姿のせいで両親や兄弟、村人からは敬遠されていて、昔から苦労していたらしい。生まれつき体が弱いこともあり、遠くの地へ逃げることも叶わず村の外れで細々と暮らしていたところを、旅でたまたま村を通りかかった父に見初められて今に至ると聞いた。
「父さんも直、帰ってくるはずだから、中に入って待ってましょう」
「そうだね」
陽が落ちた山は冷える。母の体のためにも温かい室内に早く戻ろうと、遥杜は粗末な小屋に入った。
四半刻して帰宅した父は背負った籠に野菜や食用の野草、腕に大きな魚を抱えていた。
「ただいま」
父のたった一言で家の中が一気に明るくなる。
「おかえりなさい」
「おかえり。うわっ、すごい!」
「母さんの縫い物が高く売れたんだよ。あの刺繍は売るのがもったいないくらいきれいだったもんなぁ。それから遥杜が集めてきてくれた薬草もいい値がついたんだ」
父は黒髪黒目とありふれた外見だが、人目を引くような整った顔立ちをしている。黙っていれば繊細で冷たいように見えるが、実際は話好きで、豪快で、情に厚い優しい人だ。
「で、遥杜は今日も村境まで行ったのか」
「え、なんで知ってるの」
「帰ってくるとき村の方が騒がしかったからな。事情は聞かなくても大体予想がつくが」
父は遥杜の頭にぽんと大きくて温かい手を置くと、そのままわしわしと髪をかき乱すように撫でる。
「遥杜は本当に優しい子だな。俺の自慢の息子だ」
「そうやってあなたが許すから、遥杜が怪我して帰ってくるのよ」
「いやいや、こういうのは怪我じゃなくて勲章ってやつだろう。な、遥杜?」
父の快活な笑顔に遥杜もつられて「うん!」と笑う。母を心配させてしまったことは申し訳なく思うが、父に認められるのは素直に嬉しかった。
「似た者親子で困ったものだわ」
母はそう言いながら、やはり笑っていた。
貧しい暮らしで苦労することも多かったが、愛情深い両親がいたから日常を受け入れることができていた。これ以上を望まないならこんな穏やかな家族の時間がずっと続くだろうと幼い遥杜は本気で信じていた。
それなのに、壊された。ささやかな希望が奪われた。……人間に。
村の人間は森に寄りつかず、遥杜たちを追いやることが常だったが、この日は違った。奴らの方から森に侵入してきて、突如として声高に叫んだのだ。
「悪鬼と奴を引き留めた女、その血を引く忌み子をこの妖狩りにて討伐してくれる!」
一瞬何を言われているのかわからなかった。
ここに住むのは優しい人間の父と体の弱い母と自分だけである。鬼がいると聞いたことなんてただの一度もない。
「父さん、こんなのさすがにおかしいって。俺たちは何もしてないのに」
狭い家の中で父と母が何かを話し合っている。この状況を打破するために知恵を出し合っているのだろうか。ふたりは頷くと遥杜を振り返った。
「逃げよう。ここにはもういられない」
頭の中が真っ白になる。悪いことをしていないのになぜ違うと言い返さないのか、幼い遥杜には理解できなかった。
「おかしいよ、いつもいつも! 悪いことなんかしてないのに、どうして俺たちばっかりこんな目に遭わなきゃならないんだ!」
「悪いことはしてないが、このままだと殺される」
父は遥杜を抱き上げると外へ飛び出した。母も必死な顔をしていて、遥杜の理屈は聞いてもらえないのだと察した。
勝手知ったる山だと思っていたが、父は遥杜も知らないような獣道すらない道を駆けていた。最初は追手から身を隠すためだと思っていたが、闇雲に走っているのではなく目的地があるのか迷いのない足取りだった。
逃げてどれくらい経ったのか。朝起きて空を見上げたとき今にも雨が降り出そうだと思って、それから一刻しないうちに人間の声を聞いた気がする。もう一度空を見てみるが太陽はやはり隠れており、時間は定かではなかった。
「着いた、ここだ」
茂みをかきわけて、ぱっと開けた場所に出る。
「何、ここ……?」
木々に囲まれたそこは葉擦れの音すらせず、不自然なほど静まり返っている。地面には円に囲まれた五芒星が描かれており、周囲には文字か記号か、よくわからない何かが規則的に配置されていた。
「完成はまだ、なのよね……?」
「発動はできるが、完全に封印できるかは賭けだ」
両親は真剣な顔で話している。遥杜だけが蚊帳の外だったが、急に名前を呼ばれた。
「遥杜、ここにいなさい」
父は円の中央に遥杜を下ろすと、自身はおそらく『火』と書かれた五芒星の角に立った。
「ちょっと、何しようとしてるの? 逃げようって言ったのは父さんじゃん。ねえ、母さんは何か知ってるの?」
遥杜が一歩踏み出そうとしたとき、ぼっと火が上がった。
「遥杜、今までごめんな」
父の前で赤い炎が揺れている。
「なんで今謝るの? 何に対して謝ってるの?」
「この儀式が終わったらちゃんと説明する。そしたらもう理不尽な目に遭わずに暮らせるから」
意味が分からない。今すぐ父の側に駆け寄って問い詰めたかったが、足はおろか指一本動かせなかった。
(父さんたちまで、俺を裏切るの⁉)
叫びたいのに、機能するのは目と耳だけだった。
「火が上がってるぞ!」
「そっちに逃げたんじゃないか! 探せ!」
妖狩りを叫んでいた人間たちの声が徐々に近くなる。
父の顔に焦りが浮かんだ。
「せめてこの儀式だけでも……!」
「呪言を唱えきれば儀式は完了するのよね? なら私が時間を稼ぐわ」
母の静かな、しかしいつになく強い決意をこめた声がぽつりと落とされる。
父は大きく頭を左右に振った。
「自分から死にに行くつもりか!」
「死なないわ、絶対に戻ってくる。幸せに生きるために、囮になるだけよ」
「駄目だ! 待ってくれ……っ」
父は動けないのか懇願の声だけが無情に響く。母はひとりでさっと来た道を引き返していった。
「っ! …………!」
父は円の中心に向き直ると苦渋の表情で口を動かし始めた。低くて小さな声は遥杜の知る父の姿からは程遠い。
短いような長いような時間をその場に立ち尽くして眺めていることしかできなかったが、父がぱんっ両手を合わせたことでとうとう終わりを迎えたと思った。
瞬間、今までの比ではない火柱がぐるりと遥杜を取り囲んだ。
火の壁に閉じ込められる間際、最後に映った父の瞳は火の赤を反射しているのか遥杜と同じ色をしていた。
さっきから何が起こっているのか理解が追いつかない。父は一体遥杜に何をしたのか、母も一枚嚙んでいそうだ。人間たちは妖狩りを叫んでいたが、どうして突然そんな強行に出たのか。
炎に囲まれているにも関わらず、息苦しさや熱さは全く感じられない。ただこの壁の向こうにはどういうわけか進むことができなかった。
もどかしさを抱えてひたすらに待ち続けていると、すうっと炎が消えた。
壁の向こうは豪雨だった。遥杜も瞬く間に全身びしょ濡れになるが、体温を奪う冷たい雨の雫も耳を突く激しい雨音も何もかもが一瞬にして遠ざかった。
「父、さん……、母さん……?」
目の前の赤い泥水に半分浸かって、両親が折り重なって倒れ伏していた。母の手を固く握りしめた父の手の形はそのままだ。それ以上は見ていられなかった。
「子どもはどこに行った!」
「そう遠くには行けないはずだ!」
本能がけたたましく警鐘を鳴らす。
ろくに思考は働かなかったが、体が勝手に動き、遥杜はその場から逃げ出した。
右目だけが熱くなり、今まで経験したことのない倦怠感が襲ってきた。
たった一日で何もかもが変わってしまった。
穏やかな暮らしも、愛情深いと信じていた両親も失った。
虚言を大義名分にし、同族である人間の命を平気で奪えるあいつらにも。優しいふりをして最後は遥杜ひとりを残していった両親も。
妖は化け物だと村の人間は言っていたが、本当の化け物はどちらだ。
(人間なんて信じられない! 人間なんか、大嫌いだ‼)
そんな自分も人間であることに絶望した。
「ただいま」
本部長室の扉を潜る鴇羽は家に帰ってきたときと同じような明るい挨拶をした。ぱっと見たところ怪我もなさそうだ。
「ときちゃん」
襲われたときの衝撃は完全には覚めやらない。危険なあの場を任せた遥杜のこと、わざわざ鴇羽を赴かせたこと、まだ帰ってこない雅仁のこと。
胸を占める恐怖と不安を早くなくしたくて、鈴音は鴇羽に駆け寄るとぎゅうと腰に抱きついた。
「わわっ」
(あったかい)
骸は冷たくなるとはっきり覚えている。鴇羽が生きていると実感した鈴音の両目からぽろぽろと涙がこぼれた。涙の味も温度もとうの昔に忘れていたのに、どうして忘れられていたのか不思議なくらい胸が強く痛む。
驚きで固まっていた鴇羽だったが、泣きじゃくる鈴音の頭に優しく手を置いた。
「泣かないで、すずちゃん。ぼくもはるちゃんも大丈夫だから、ね?」
こくこくと頷いてはみるが、やはり涙は止まらない。
鴇羽は「よっと」と鈴音を抱え上げると空いていた横に長い革張りの椅子に腰かけた。鈴音は彼の膝に乗っていた。
「鴇羽、おかえり」
向かいの椅子に座っていた瑠璃がそっと鴇羽の隣に移動する。
「怪我してない?」
「はるちゃんもまさちゃんもいたからね。ぼくは全然平気だよ」
「良かった」
瑠璃はほっと胸を撫でおろした。
鈴音たちの対面で様子をうかがっていた千里の表情も幾分か和らいだものになる。
「鴇羽が無事で何よりです。ところで遥杜たちは?」
「んーとね、はるちゃんを連れて戦線離脱したはいいんだけど、こっちまでは体力がもたなそうだったから今は家で休んでもらってるよ。はるちゃんは大丈夫だって言ってたけどうわごとみたいだったから、ここに来る前に神楽さんには報告しちゃった」
「正しい判断だったと思います」
あの分岐地点で鈴音は兄たちがいる本部に続く左を選んだが、右に進めば自宅につながる。あそこから本部まではそこそこ距離があり、もし遥杜が途中で倒れたら鴇羽ひとりでは連れてこられなかっただろう。家の方が近いので賢明な判断だった。
「雅仁兄さんはどうしたんです?」
「まさちゃん怒ってたんだもん。怖いから放っておいたけど、きっと大丈夫だよ」
「ああ、なら大丈夫ですね」
「酷いなぁ。少しくらい心配してくれてもいいだろうに」
口ぶりこそ拗ねているように聞こえるが、声からは全く緊張感が感じられず暢気なものだ。
瑠璃がぱっと入口の方に顔を向けたが、びくっと肩を跳ねさせてすぐに目を逸らした。
「お、おかえりなさい……まさ兄……」
瑠璃は明らかに怯えている。
鈴音も雅仁の姿を見て、安堵より不安の方が勝った。
「まさちゃん、怪我してるの」
白い袂や足袋、黒くて分かりづらいがこの分では袴の裾もではないだろうか。至るところに赤い染みをつくる雅仁はへらへらと笑っている。
「いいや、ぼくは無傷だよ」
「え、でも血が」
「ああ、これはただの返り……」
「雅仁兄さん」
ぎっと千里に鋭く睨まれて、雅仁は口を噤んだ。
「瑠璃や鈴音が怖がるでしょう、やめてください」
「……そうだね。今のはぼくが悪かった」
雅仁は執務机用の椅子の背にかけられたままだったつい丈の黒い外套を広げて適当に羽織った。鉄さびの臭いは誤魔化せないが血の赤は覆い隠される。
「まさちゃんの方はどうだったの」
千里の隣に腰を下ろす雅仁を目で追いながら、鴇羽が尋ねる。
雅仁はすらすらと答えた。
「妖三体は保護。遥杜がのした二人は拘束。あとの一人は治療中で、意識が戻り次第話を聞くことにするよ」
つまらなそうに語っていた雅仁だがここでぱんっと手を打った。
「くだらない話はここまでにしよう。そんなことよりぼくはこの場にいない遥杜の方が心配だね」
「くだらないかはともかく、遥杜の具合は気になるところです。ひとまず家に戻りましょう」
皆が立ち上がる中、鈴音も鴇羽の膝からぴょんと跳び下りる。それから先頭を行く雅仁の左手を右手でぎゅっと握った。
「おや?」
雅仁の手は大きいので鈴音の片手ではするりと抜けてしまいそうだ。鈴音は左手も使って、雅仁の手を逃がさないように力をこめた。
雅仁はくすぐったそうに笑っていた。
帰宅し、雅仁は真っ直ぐに遥杜の部屋へと向かった。手を繋いだままだった鈴音も一緒についていく。
「遥杜、起きているかい」
「……声が大きい。頭に響く……」
申の刻を過ぎたあたりで、室内はまだ明るい。
布団の上で遥杜が億劫そうに薄目を開けたのが鈴音にもわかった。
「はるちゃん」
「ああ、鈴音。ちゃんと逃げられてたみたいで、良かった」
呼吸が浅く、額には汗が浮いている。布団から出ていた手に触れると温かいを通り越して熱かった。
「お熱」
「大丈夫だって言ったじゃん。こんなのはよくあることだから」
「ごめんね」
遥杜の手を両手で握りしめ、俯く鈴音は涙目だ。狐の耳と尾もしゅんと力なく垂れている。
遥杜は目を丸くしてから、指先を動かした。うまく力が入らないせいで握り返すことはできなかったが、鈴音の小さな手を包むには十分だ。
「なんでこんなときに限って泣くんだよ。いつもは『そうなんだ』で終わらせるくせに」
「わたしのせいで、はるちゃん、苦しくなってるんだよ」
「悪いことをしたのは鈴音じゃなくて福塚たちだよ。鈴音は泣かなくていいし謝らなくていい」
遥杜こそこんなときばかり優しさをみせるなんてずるい。いつものように親切なふりをして突き放してくれれば気が楽だったかもしれないのに、本人に許されてしまうと重たい気持ちの所在を失ってしまう。
一向に返事をしない鈴音に遥杜は一方的に言葉を重ねた。
「ならお互い様ってことにする? 鈴音が不安になったのは俺のせいってことになるから」
「それは違う」
顔は上げられなかったが鈴音は即座に否定した。
「はるちゃんは、わたしを逃がそうとして戦ってくれただけ。悪いことはしてないよ」
「それを言ったら鈴音はあの場で最善の選択をしただけだよ。町へ行くことは咎められることじゃなかったし、あそこに残って悪いことにはなっても良いことには絶対にならなかった。つまりは鈴音は悪くない。俺も俺のできることをした、ただそれだけ」
畳みかけるように言われて、鈴音は半ば勢いに飲まれる形で頷いた。その拍子に涙の雫がぽろりとこぼれ落ちた。
「仲違いは終わりかな」
後ろで腕を組んだまま傍観していた雅仁がにやりと笑う。
「もともと喧嘩なんてしてないけど」
「けれど仲良くはなかったね」
「わかった上で仮の家族なんて言い出したかと思ってたんだけど」
「うん、それは確かに。そしてそのさらに上で、こうなれば良いなとも思っていたよ」
雅仁は自らの直感を信じているという。遥杜は遥杜で、雅仁は意味のないことはしないと信じている。
つまり、鈴音を迎え入れた時点で雅仁は鈴音を救うだけでなく、遥杜の闇も払いたいと願っていたのだと今になって遥杜は兄の真意を知った。
ただ鈴音はそこまで深くは理解していないので、雅仁と遥杜のやり取りに首を傾げる。
「まさちゃんとはるちゃん、喧嘩してたの?」
「いや、してないけど。なんで俺と雅仁兄さん……?」
「ここにいるのが、まさちゃんとはるちゃんだけだから」
「……鈴音もいるけど。まあ、いいや」
遥杜はふうっと一息吐いた。口達者なので話しているとつい元気そうな気がしてしまうが、やはり体調は悪いのだろう、気怠げだ。
「では、ぼくたちは居間に戻ろうか」
「はるちゃんに用があったんじゃないの」
あっさりと踵を返す雅仁を鈴音は振り仰ぐ。わざわざ起きているか確認していたくらいだから、何か用があるものだとばかり思っていた。
しかし雅仁は「用ならすでに済んだよ」とけろりと答える。
「頼もしい雅仁兄さんの顔を見たら遥杜も安心するかと思ってね」
「……雅仁兄さんの声聞いてたら余計に頭痛くなってきた」
「おや、それはいけない。鈴音、行こうか」
雅仁は大仰な仕草で目を丸くしてみせると、鈴音を呼んで襖を開けた。鈴音もぱっと立ち上がって雅仁の後に続く。
大きな声が頭に響くと言っていたので、鈴音はそろそろと静かに襖を閉めていた。閉じきる寸前に「ありがとう」と遥杜の囁きが聞こえた気がした。
遥杜のいない夕飯の後、湯浴みまで済ませた鈴音は兄たちに「おやすみ」と言って自室に引き上げた。
布団を敷いても横になる気にはならず、落ち着かない気持ちで部屋の隅で膝を抱える。肩にぶつかる障子に体を預けると、月明かりが大きくなった。
ぼうっと薄闇を眺めていると夕方の会話が思い出される。
(はるちゃんは間違ったこと、言ってない。だけど)
お互いにできることをしただけで、最善の選択だった。遥杜はもちろん悪くないが、鈴音も悪くないのだろうか。無責任に町へ行きたいと言わなければ良かったと後悔が消えない。
気づけば膝を抱えていた手は障子へ伸びていた。
あの清浄な月の光なら、この罪深い苦しみを浄化してくれるかもしれないと夢想して。
最低限開けた障子戸の隙間からそっと縁側に出ると、月が優しく出迎えた。数日前が満月だったので今夜の月は少し端が欠けているが、どちらかというと円に近い形をしている。
春の夜風がさわさわと庭の植物の葉を揺らした。
耳を傾けているとざわざわしていた胸の内が少しずつ凪いでいく。
これで眠れるようになるだろうかと考え始めたところで、不意に微かな呻き声を拾った。
「はるちゃん」
鈴音の隣室から聞こえる声は何かを言っているようだが、途切れ途切れで内容までは聞き取れない。それでも苦しそうなことくらいは鈴音にもわかった。
夕飯の席にもいなかったくらいだから相当具合が良くないのだろうと思ってはいたが、こうなるとやはり心配は募る。
遥杜は多分こうなる可能性を承知した上で鈴音を守ってくれた。それなのに鈴音にできたのは逃げて、ただ守られることだけだった。
(わたしだって、はるちゃんを助けたいよ)
遥杜たちのように戦えなくても、兄たちの優しさに甘えるだけというのは嫌だ。鈴音は鈴音のやり方で、兄たちの心に応えたい、力になりたいと思うから。
徐々に思考が冴え、視界が鮮やかになっていく。
(はるちゃんの呪いを完全に祓うことはできないと思う。だけど弱めることならわたしにもできるはず。それで苦しさが和らぐなら、やってみよう)
鈴音は障子戸に手を伸ばした。
今度は確かな意思をもって、自分が他者の苦しみを癒せる存在になるために。
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(まずい、村の人間に見つかった……!)
幼い遥杜は森の中を一心不乱に駆けていた。枝葉が茂り、あたりが薄暗いせいで、遥杜の両目の深紅がいやに鮮やかに浮かび上がる。
「妖に祟られた小僧め。村に入るな!」
「森に帰れ!」
「違う……っ。妖に祟られてなんか、っ!」
否定の言葉は背後から飛んできた凹凸の激しい石によって遮られた。勢いよく左肩にぶつかり、悲鳴を飲みこむ。
人間ではありえない血のような真っ赤な瞳を理由に遥杜は村の人間から迫害を受けていた。出会うとこうなると身に染みてわかっていたから慎重に行動していたのに、運が悪かったのかひと月ぶりに村人に出くわしてしまったのだ。不気味だ、祟られていると罵られるのはもう慣れたが、怪我の傷みに慣れることはない。
真っ向から対抗できる術はないが、生まれつき運動神経だけは人並み外れて良かったので今回も村人たちを撒いて家に帰りついた。
「遥杜!」
怒鳴り声ではない、不安に染まった母の悲鳴が出迎える。
「母さん。ごめん、もう食料がなくなりそうだって今朝父さんと話してたのが聞こえたから……」
左肩を押さえてぽつぽつと事情を説明する遥杜を母はぎゅっと抱きしめた。
「だからって遥杜がこんな目に遭う必要はないの。こんな思いをするのは私だけでいい」
「母さん……」
母の生成り色の柔らかな髪が遥杜の頬に触れる。茶色の瞳に浮かぶ涙だけは決して息子に見せまいと母はしばらく顔を上げようとしなかった。
母は周辺の村では珍しい色素の薄い人間だった。その容姿のせいで両親や兄弟、村人からは敬遠されていて、昔から苦労していたらしい。生まれつき体が弱いこともあり、遠くの地へ逃げることも叶わず村の外れで細々と暮らしていたところを、旅でたまたま村を通りかかった父に見初められて今に至ると聞いた。
「父さんも直、帰ってくるはずだから、中に入って待ってましょう」
「そうだね」
陽が落ちた山は冷える。母の体のためにも温かい室内に早く戻ろうと、遥杜は粗末な小屋に入った。
四半刻して帰宅した父は背負った籠に野菜や食用の野草、腕に大きな魚を抱えていた。
「ただいま」
父のたった一言で家の中が一気に明るくなる。
「おかえりなさい」
「おかえり。うわっ、すごい!」
「母さんの縫い物が高く売れたんだよ。あの刺繍は売るのがもったいないくらいきれいだったもんなぁ。それから遥杜が集めてきてくれた薬草もいい値がついたんだ」
父は黒髪黒目とありふれた外見だが、人目を引くような整った顔立ちをしている。黙っていれば繊細で冷たいように見えるが、実際は話好きで、豪快で、情に厚い優しい人だ。
「で、遥杜は今日も村境まで行ったのか」
「え、なんで知ってるの」
「帰ってくるとき村の方が騒がしかったからな。事情は聞かなくても大体予想がつくが」
父は遥杜の頭にぽんと大きくて温かい手を置くと、そのままわしわしと髪をかき乱すように撫でる。
「遥杜は本当に優しい子だな。俺の自慢の息子だ」
「そうやってあなたが許すから、遥杜が怪我して帰ってくるのよ」
「いやいや、こういうのは怪我じゃなくて勲章ってやつだろう。な、遥杜?」
父の快活な笑顔に遥杜もつられて「うん!」と笑う。母を心配させてしまったことは申し訳なく思うが、父に認められるのは素直に嬉しかった。
「似た者親子で困ったものだわ」
母はそう言いながら、やはり笑っていた。
貧しい暮らしで苦労することも多かったが、愛情深い両親がいたから日常を受け入れることができていた。これ以上を望まないならこんな穏やかな家族の時間がずっと続くだろうと幼い遥杜は本気で信じていた。
それなのに、壊された。ささやかな希望が奪われた。……人間に。
村の人間は森に寄りつかず、遥杜たちを追いやることが常だったが、この日は違った。奴らの方から森に侵入してきて、突如として声高に叫んだのだ。
「悪鬼と奴を引き留めた女、その血を引く忌み子をこの妖狩りにて討伐してくれる!」
一瞬何を言われているのかわからなかった。
ここに住むのは優しい人間の父と体の弱い母と自分だけである。鬼がいると聞いたことなんてただの一度もない。
「父さん、こんなのさすがにおかしいって。俺たちは何もしてないのに」
狭い家の中で父と母が何かを話し合っている。この状況を打破するために知恵を出し合っているのだろうか。ふたりは頷くと遥杜を振り返った。
「逃げよう。ここにはもういられない」
頭の中が真っ白になる。悪いことをしていないのになぜ違うと言い返さないのか、幼い遥杜には理解できなかった。
「おかしいよ、いつもいつも! 悪いことなんかしてないのに、どうして俺たちばっかりこんな目に遭わなきゃならないんだ!」
「悪いことはしてないが、このままだと殺される」
父は遥杜を抱き上げると外へ飛び出した。母も必死な顔をしていて、遥杜の理屈は聞いてもらえないのだと察した。
勝手知ったる山だと思っていたが、父は遥杜も知らないような獣道すらない道を駆けていた。最初は追手から身を隠すためだと思っていたが、闇雲に走っているのではなく目的地があるのか迷いのない足取りだった。
逃げてどれくらい経ったのか。朝起きて空を見上げたとき今にも雨が降り出そうだと思って、それから一刻しないうちに人間の声を聞いた気がする。もう一度空を見てみるが太陽はやはり隠れており、時間は定かではなかった。
「着いた、ここだ」
茂みをかきわけて、ぱっと開けた場所に出る。
「何、ここ……?」
木々に囲まれたそこは葉擦れの音すらせず、不自然なほど静まり返っている。地面には円に囲まれた五芒星が描かれており、周囲には文字か記号か、よくわからない何かが規則的に配置されていた。
「完成はまだ、なのよね……?」
「発動はできるが、完全に封印できるかは賭けだ」
両親は真剣な顔で話している。遥杜だけが蚊帳の外だったが、急に名前を呼ばれた。
「遥杜、ここにいなさい」
父は円の中央に遥杜を下ろすと、自身はおそらく『火』と書かれた五芒星の角に立った。
「ちょっと、何しようとしてるの? 逃げようって言ったのは父さんじゃん。ねえ、母さんは何か知ってるの?」
遥杜が一歩踏み出そうとしたとき、ぼっと火が上がった。
「遥杜、今までごめんな」
父の前で赤い炎が揺れている。
「なんで今謝るの? 何に対して謝ってるの?」
「この儀式が終わったらちゃんと説明する。そしたらもう理不尽な目に遭わずに暮らせるから」
意味が分からない。今すぐ父の側に駆け寄って問い詰めたかったが、足はおろか指一本動かせなかった。
(父さんたちまで、俺を裏切るの⁉)
叫びたいのに、機能するのは目と耳だけだった。
「火が上がってるぞ!」
「そっちに逃げたんじゃないか! 探せ!」
妖狩りを叫んでいた人間たちの声が徐々に近くなる。
父の顔に焦りが浮かんだ。
「せめてこの儀式だけでも……!」
「呪言を唱えきれば儀式は完了するのよね? なら私が時間を稼ぐわ」
母の静かな、しかしいつになく強い決意をこめた声がぽつりと落とされる。
父は大きく頭を左右に振った。
「自分から死にに行くつもりか!」
「死なないわ、絶対に戻ってくる。幸せに生きるために、囮になるだけよ」
「駄目だ! 待ってくれ……っ」
父は動けないのか懇願の声だけが無情に響く。母はひとりでさっと来た道を引き返していった。
「っ! …………!」
父は円の中心に向き直ると苦渋の表情で口を動かし始めた。低くて小さな声は遥杜の知る父の姿からは程遠い。
短いような長いような時間をその場に立ち尽くして眺めていることしかできなかったが、父がぱんっ両手を合わせたことでとうとう終わりを迎えたと思った。
瞬間、今までの比ではない火柱がぐるりと遥杜を取り囲んだ。
火の壁に閉じ込められる間際、最後に映った父の瞳は火の赤を反射しているのか遥杜と同じ色をしていた。
さっきから何が起こっているのか理解が追いつかない。父は一体遥杜に何をしたのか、母も一枚嚙んでいそうだ。人間たちは妖狩りを叫んでいたが、どうして突然そんな強行に出たのか。
炎に囲まれているにも関わらず、息苦しさや熱さは全く感じられない。ただこの壁の向こうにはどういうわけか進むことができなかった。
もどかしさを抱えてひたすらに待ち続けていると、すうっと炎が消えた。
壁の向こうは豪雨だった。遥杜も瞬く間に全身びしょ濡れになるが、体温を奪う冷たい雨の雫も耳を突く激しい雨音も何もかもが一瞬にして遠ざかった。
「父、さん……、母さん……?」
目の前の赤い泥水に半分浸かって、両親が折り重なって倒れ伏していた。母の手を固く握りしめた父の手の形はそのままだ。それ以上は見ていられなかった。
「子どもはどこに行った!」
「そう遠くには行けないはずだ!」
本能がけたたましく警鐘を鳴らす。
ろくに思考は働かなかったが、体が勝手に動き、遥杜はその場から逃げ出した。
右目だけが熱くなり、今まで経験したことのない倦怠感が襲ってきた。
たった一日で何もかもが変わってしまった。
穏やかな暮らしも、愛情深いと信じていた両親も失った。
虚言を大義名分にし、同族である人間の命を平気で奪えるあいつらにも。優しいふりをして最後は遥杜ひとりを残していった両親も。
妖は化け物だと村の人間は言っていたが、本当の化け物はどちらだ。
(人間なんて信じられない! 人間なんか、大嫌いだ‼)
そんな自分も人間であることに絶望した。
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