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第四話 休日の触れ合い
第四話 一五
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昨日と同じ時間である夕飯と入浴の間の自由時間に、ウタセを先生とする言の葉語勉強会は開催された。
保健室にはウタセの淀みない解説の声が響いていた。
「文法は同じで、日本語の五十音を言の葉語の五十音に置き換えていけばいいだけなんだよ。発音もちょっと似てるかも。あとは、名詞の定義が違うときがあるくらいかな」
予め用意していたらしい資料を机の上に置き、ウタセは日本語の五十音表の右上を鉛筆の尻で指した。
「例えば、日本語の『あ』に対応するのが」
もう一枚の資料に書かれた五十音表の右上を指す。
「この縦棒で書かれたので、発音は『ャア』」
「『ャア』……?」
「うん、そんな感じ」
ウタセが顔を上げて微笑む。自信のなかった慈乃は、その笑顔に少しだけ安堵した。確かに音は『あ』に近いが、口にしてみるとなかなか難しい。
「次は『い』。言の葉語では『ャイ』」
資料に目を戻したウタセが次に指したのは横棒で書かれた文字だった。
「『ャイ』……」
「上手上手。そしたら『う』だね。バツ印を書いて、『ャウ』って読むよ」
「『ャウ』」
「『え』はこれ。書くときはプラス記号、発音は『ャエ』」
「『ャエ』」
「そうそう。この行の最後が『ャオ』」
「『ャオ』」
あ行を一通り終えると、ウタセは小さく拍手した。
「よくできました」
「なんだか、疲れて、しまいそうです……」
日本語とは口まわりの筋肉の使い方が違う。
ウタセは慈乃の感想を聞いてからから笑うと、「まだまだ先は長いよ」と言って、左隣のか行を指した。
「ここからはあ行を母音に、子音だけを変化させていくよ。日本語と同じだね」
指された文字は五回の角をうずまきのように内側に折れた記号のようなものの右側に『ャア』の縦棒を添えたものだった。『クーャア』と発音するらしい。この発音が崩れれば『か』に聞こえないこともない。
か行は子音を表すのに四角いうずまきを書き、発音は『クー』で固定されているとのことだ。そこに文字なら右側に母音を添え、発音は子音の後に置くということらしい。
さ行は二周の曲線うずまき『スィー』を子音に、母音は書くときはうずまきの下側に、発音はか行と同じく子音の後に置く。
このようにウタセの指導は続いていった。
「『ん』だけは特殊で、『ンーノン』って言って、上向き三角形の中に小さな下向き三角形を書くんだよ」
「なんとなく、わかってきました」
「ほんと? 良かった。さて、あと少しだね、頑張ろう!」
続けて、小文字、濁音、半濁音を習っていく。言の葉語での基本を抑えられれば、ここは日本語とよく似ていてあまり難しくなかった。小文字は弱く発音し、書くときは四角形で囲む。濁音は例えば『クーャア(か)』なら『グーャア(が)』で、文字の下側に二重線を引く。半濁音も濁音と似たようなもので、『フィャア(は)』なら『プィャア(ぱ)』となり、文字を二重丸で囲むといったものだった。
「五十音ができたら大体問題ないと思うよ。あとは、名詞のギャップだけど……。これはその都度でいいんじゃないかな」
ウタセが鉛筆を置きながら質問はないかと訊いてきたが、彼の丁寧な解説のおかげでわからないことなどはなかった。
慈乃が首を横に振ると、ウタセは壁掛け時計をちらりと見た。
「じゃあ、今日の授業はここまでってことで。ありがとうございました」
「あ、ありがとうございました……!」
慌てて慈乃が頭を上げ返すと、先に頭を上げたウタセがくすくす笑って、慈乃を見ていた。
「たった数日なのに、慈乃は大分変わったね」
「そ、そう、ですか……?」
人目から見ても、そのように評価されるほど自身が変わったのか。慈乃ですら、少しずつ変わってきたような気がする、くらいの自己評価だったので、ウタセの意見には首を傾げてしまった。
「最初はあんまり声を出さなかったし、目に見えるわかりやすい反応もあんまりなかったから。今は声に出して返事もしてくれるようになったし、さっきのも慌ててるなってはっきりわかったよ」
「それは……、多分、ここにいるひと達が、私の知る、人間のように……残酷でないとわかってきた、から、だと思います……」
反射的に手を強く握る。慈乃の知り合った妖精が優しい者たちばかりであることに安心する反面、過去に知った人間の残酷さを思い出すと恐怖心が湧き上がってくる。
「……人間は、まだ怖い?」
ウタセの硬い声が降ってくる。
慈乃は自身の拳を見つめながら、考え考え、思いを吐き出した。
「ひどい人間ばかりでは……ない、のかもしれません。でも、私の周りに、そんな人はいません、でした。だから……、信じられない、です。私は、変わりかけているだけで……変わったのではない、と思い、ます。もし、また、あの世界に戻されたら……、以前の私に、戻ってしまう、でしょう……」
「……そう、だよね。ごめんね、変なこと聞いて」
気のせいか、ウタセの声がどことなく沈んだものに聞こえた。
ウタセにしては珍しい反応だと思った慈乃が思わず顔を上げると、ウタセは寂しそうな表情をしていた。慈乃の視線に気づいた途端、すぐにいつもの彼らしい雰囲気に戻ったが、その一瞬目にしただけの光景がどうしてか瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
なんとなく気まずいような気がして、慈乃は何も言えないまま頭の中でぐるぐると考えていた。
今の表情に意味があったのか気にはなるが、慈乃に訊く勇気はない。そこで、別に訊きたかったことがあるのを思い出した。
「あの……、昨日から、気になっていたのですが……」
「ん? どうしたの?」
やっぱり見間違いだったのか、ウタセはいつも通り穏やかに微笑んでいた。
「なぜ、日本語について、こんなに、詳しいのですか……?」
「……前に和食に興味があるって、話したよね。そうしたら日本語がわかるほうが何かと便利でね」
「それは……すごい、ですね」
和食をよく知るために日本語を勉強したのか。あまりの熱量に、慈乃は自分には真似できそうにないと内心、舌を巻いた。
「そうかな?」
ウタセは曖昧に笑うに留めた。
その後も少し話していたが、いい時間になったのでさすがに切り上げることにした。
この後もウタセは保健室に残るらしい。
慈乃は扉の前で振り返ると、言い残していたことを伝えようと小さく息を吸った。
「ウタセさん」
慈乃を見送っていたウタセは、その呼びかけにはっとしたように目を見開いた。
「なかなか言い出せずに、ギリギリになって、しまいました……。それに、お渡しするようなものも、なくて……、申し訳ないのですが。お誕生日、おめでとう、ございます」
決して大きな声ではなく、距離もあったが、ウタセにはきちんと届いたようだ。彼はにっこりと笑った。
「ありがとう。その気持ちが一番嬉しいよ。……それに、名前」
「え?」
「初めて名前呼んでくれたから、それがプレゼントだよ」
子どものような無邪気な笑顔を浮かべるウタセは、本当に嬉しそうだった。
慈乃はあまり他人の名前を呼ぶのが得意ではない。
いつからか、抵抗感を抱くようになったからだ。
もともとの内気な性格もあるが、名前を呼ぶことは相手に一歩踏み込むような行為である気がしたし、自分のような存在が他人様の名前を呼ぶなんて申し訳ないとも感じていた。
しかし、こちらに来てからは不思議とその抵抗感が薄れていた。
勉強会の別れ際のウタセの嬉しそうな顔を思い出す。
名前を呼ぶだけであんなにも喜んでくれるとは予想外ではあったが、悪い気はしなかった。
それにしても、と慈乃は自室で昨日今日を振り返った。
昨日は研修メインで働いた。まだ学舎に通えない子ども達と大縄跳びやだるまさんがころんだ、かくれんぼ、読み聞かせなどをしてかなりの時間をともに過ごした。
今日は休日ということもあって、普段は学舎に行っている子ども達にこぞって話しかけられた。お菓子作りにすごろく、外出までした。そして、言の葉語を教えてももらった。
たった二日間で、ずいぶんとたくさんの触れ合いがあった。時間ではなくその密度が、慈乃に変化をもたらしたのだった。
ずっと、明日なんてどうでもいいと、いっそ自分が消えてしまえたらどんなにか楽なのにと、そう思っていた。
けれど、今は明日が来るのを怖いとは思わない。
(明日は、どんな一日になるのかしら)
淡い期待を胸に抱きながらも、やはり身体は疲れていて、眠りはすぐに訪れた。
意識が夢に落ちる寸前、慈愛に満ちた囁きが聞こえた気がした。
『シノ、おやすみなの~』『また明日なの~』
保健室にはウタセの淀みない解説の声が響いていた。
「文法は同じで、日本語の五十音を言の葉語の五十音に置き換えていけばいいだけなんだよ。発音もちょっと似てるかも。あとは、名詞の定義が違うときがあるくらいかな」
予め用意していたらしい資料を机の上に置き、ウタセは日本語の五十音表の右上を鉛筆の尻で指した。
「例えば、日本語の『あ』に対応するのが」
もう一枚の資料に書かれた五十音表の右上を指す。
「この縦棒で書かれたので、発音は『ャア』」
「『ャア』……?」
「うん、そんな感じ」
ウタセが顔を上げて微笑む。自信のなかった慈乃は、その笑顔に少しだけ安堵した。確かに音は『あ』に近いが、口にしてみるとなかなか難しい。
「次は『い』。言の葉語では『ャイ』」
資料に目を戻したウタセが次に指したのは横棒で書かれた文字だった。
「『ャイ』……」
「上手上手。そしたら『う』だね。バツ印を書いて、『ャウ』って読むよ」
「『ャウ』」
「『え』はこれ。書くときはプラス記号、発音は『ャエ』」
「『ャエ』」
「そうそう。この行の最後が『ャオ』」
「『ャオ』」
あ行を一通り終えると、ウタセは小さく拍手した。
「よくできました」
「なんだか、疲れて、しまいそうです……」
日本語とは口まわりの筋肉の使い方が違う。
ウタセは慈乃の感想を聞いてからから笑うと、「まだまだ先は長いよ」と言って、左隣のか行を指した。
「ここからはあ行を母音に、子音だけを変化させていくよ。日本語と同じだね」
指された文字は五回の角をうずまきのように内側に折れた記号のようなものの右側に『ャア』の縦棒を添えたものだった。『クーャア』と発音するらしい。この発音が崩れれば『か』に聞こえないこともない。
か行は子音を表すのに四角いうずまきを書き、発音は『クー』で固定されているとのことだ。そこに文字なら右側に母音を添え、発音は子音の後に置くということらしい。
さ行は二周の曲線うずまき『スィー』を子音に、母音は書くときはうずまきの下側に、発音はか行と同じく子音の後に置く。
このようにウタセの指導は続いていった。
「『ん』だけは特殊で、『ンーノン』って言って、上向き三角形の中に小さな下向き三角形を書くんだよ」
「なんとなく、わかってきました」
「ほんと? 良かった。さて、あと少しだね、頑張ろう!」
続けて、小文字、濁音、半濁音を習っていく。言の葉語での基本を抑えられれば、ここは日本語とよく似ていてあまり難しくなかった。小文字は弱く発音し、書くときは四角形で囲む。濁音は例えば『クーャア(か)』なら『グーャア(が)』で、文字の下側に二重線を引く。半濁音も濁音と似たようなもので、『フィャア(は)』なら『プィャア(ぱ)』となり、文字を二重丸で囲むといったものだった。
「五十音ができたら大体問題ないと思うよ。あとは、名詞のギャップだけど……。これはその都度でいいんじゃないかな」
ウタセが鉛筆を置きながら質問はないかと訊いてきたが、彼の丁寧な解説のおかげでわからないことなどはなかった。
慈乃が首を横に振ると、ウタセは壁掛け時計をちらりと見た。
「じゃあ、今日の授業はここまでってことで。ありがとうございました」
「あ、ありがとうございました……!」
慌てて慈乃が頭を上げ返すと、先に頭を上げたウタセがくすくす笑って、慈乃を見ていた。
「たった数日なのに、慈乃は大分変わったね」
「そ、そう、ですか……?」
人目から見ても、そのように評価されるほど自身が変わったのか。慈乃ですら、少しずつ変わってきたような気がする、くらいの自己評価だったので、ウタセの意見には首を傾げてしまった。
「最初はあんまり声を出さなかったし、目に見えるわかりやすい反応もあんまりなかったから。今は声に出して返事もしてくれるようになったし、さっきのも慌ててるなってはっきりわかったよ」
「それは……、多分、ここにいるひと達が、私の知る、人間のように……残酷でないとわかってきた、から、だと思います……」
反射的に手を強く握る。慈乃の知り合った妖精が優しい者たちばかりであることに安心する反面、過去に知った人間の残酷さを思い出すと恐怖心が湧き上がってくる。
「……人間は、まだ怖い?」
ウタセの硬い声が降ってくる。
慈乃は自身の拳を見つめながら、考え考え、思いを吐き出した。
「ひどい人間ばかりでは……ない、のかもしれません。でも、私の周りに、そんな人はいません、でした。だから……、信じられない、です。私は、変わりかけているだけで……変わったのではない、と思い、ます。もし、また、あの世界に戻されたら……、以前の私に、戻ってしまう、でしょう……」
「……そう、だよね。ごめんね、変なこと聞いて」
気のせいか、ウタセの声がどことなく沈んだものに聞こえた。
ウタセにしては珍しい反応だと思った慈乃が思わず顔を上げると、ウタセは寂しそうな表情をしていた。慈乃の視線に気づいた途端、すぐにいつもの彼らしい雰囲気に戻ったが、その一瞬目にしただけの光景がどうしてか瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
なんとなく気まずいような気がして、慈乃は何も言えないまま頭の中でぐるぐると考えていた。
今の表情に意味があったのか気にはなるが、慈乃に訊く勇気はない。そこで、別に訊きたかったことがあるのを思い出した。
「あの……、昨日から、気になっていたのですが……」
「ん? どうしたの?」
やっぱり見間違いだったのか、ウタセはいつも通り穏やかに微笑んでいた。
「なぜ、日本語について、こんなに、詳しいのですか……?」
「……前に和食に興味があるって、話したよね。そうしたら日本語がわかるほうが何かと便利でね」
「それは……すごい、ですね」
和食をよく知るために日本語を勉強したのか。あまりの熱量に、慈乃は自分には真似できそうにないと内心、舌を巻いた。
「そうかな?」
ウタセは曖昧に笑うに留めた。
その後も少し話していたが、いい時間になったのでさすがに切り上げることにした。
この後もウタセは保健室に残るらしい。
慈乃は扉の前で振り返ると、言い残していたことを伝えようと小さく息を吸った。
「ウタセさん」
慈乃を見送っていたウタセは、その呼びかけにはっとしたように目を見開いた。
「なかなか言い出せずに、ギリギリになって、しまいました……。それに、お渡しするようなものも、なくて……、申し訳ないのですが。お誕生日、おめでとう、ございます」
決して大きな声ではなく、距離もあったが、ウタセにはきちんと届いたようだ。彼はにっこりと笑った。
「ありがとう。その気持ちが一番嬉しいよ。……それに、名前」
「え?」
「初めて名前呼んでくれたから、それがプレゼントだよ」
子どものような無邪気な笑顔を浮かべるウタセは、本当に嬉しそうだった。
慈乃はあまり他人の名前を呼ぶのが得意ではない。
いつからか、抵抗感を抱くようになったからだ。
もともとの内気な性格もあるが、名前を呼ぶことは相手に一歩踏み込むような行為である気がしたし、自分のような存在が他人様の名前を呼ぶなんて申し訳ないとも感じていた。
しかし、こちらに来てからは不思議とその抵抗感が薄れていた。
勉強会の別れ際のウタセの嬉しそうな顔を思い出す。
名前を呼ぶだけであんなにも喜んでくれるとは予想外ではあったが、悪い気はしなかった。
それにしても、と慈乃は自室で昨日今日を振り返った。
昨日は研修メインで働いた。まだ学舎に通えない子ども達と大縄跳びやだるまさんがころんだ、かくれんぼ、読み聞かせなどをしてかなりの時間をともに過ごした。
今日は休日ということもあって、普段は学舎に行っている子ども達にこぞって話しかけられた。お菓子作りにすごろく、外出までした。そして、言の葉語を教えてももらった。
たった二日間で、ずいぶんとたくさんの触れ合いがあった。時間ではなくその密度が、慈乃に変化をもたらしたのだった。
ずっと、明日なんてどうでもいいと、いっそ自分が消えてしまえたらどんなにか楽なのにと、そう思っていた。
けれど、今は明日が来るのを怖いとは思わない。
(明日は、どんな一日になるのかしら)
淡い期待を胸に抱きながらも、やはり身体は疲れていて、眠りはすぐに訪れた。
意識が夢に落ちる寸前、慈愛に満ちた囁きが聞こえた気がした。
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