悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放

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1. 琥珀が銀を、射抜く夜

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 王宮の大広間は、金と光で満ちていた。
 天井から垂れる幾百もの燭台が、雪のように白い蝋を細く落としながら、溶けた蜜の波を床へと広げていく。磨き上げられた大理石は淡く冷たく、その上を滑る影は誰のものか判じがたく交錯する。壁面には歴代の王たちが沈黙の王威を湛え、額縁の金泥は人々の笑みよりも饒舌だった。弦の調べは高い天井に昇り、音の層をつくってはまた落ち、香水と葡萄酒の甘香は薄い膜となって喉奥に留まる。

 その中心で、レイモンド・ブラックウッドは孤独を纏って立っていた。
 漆黒の礼服は皺ひとつ許さず、銀糸の細かな刺繍が灯の下でかすかな輪郭を描く。平均的な長さの黒髪は艶のある黒檀のように撫でつけられ、まっすぐな鼻梁と整った口元は彫像の冷ややかさを思わせる。月光を固めたような銀の瞳は、騒がしさの表層を容易に剥いで、その下にある計算と嘘を見透かす道具として長く鍛えられてきた。

(祝祭の顔をして、刃を隠している)

 人々は笑い、杯を掲げ、腰を傾ける。けれど笑みの上に浮かぶ影が、何より雄弁だ。誰が誰へと借りを積み、誰が誰を明日切り捨てるのか、香の混じった空気はあまりにも率直に教えてくれる。
 レイモンドは杯を取り、泡の縁に舌先を触れさせてすぐに戻した。冷たいはずの酒は温く感じられ、喉を通っても何も残さない。彼は自分の胸の中に空洞を設えてからこの場に臨むことに慣れている。感情は軽く、理性は重く。重いものだけが刃になる。

 視線の端に、妹の姿が入った。
 リディアナ・ブラックウッド。波打つ黒髪、過剰に華やかなドレス、笑い声。贋金のように眩しい。彼女を愛しているわけではない。家名と評判と機会、つまり自分の価値が、彼女の動作ひとつに連動して上下するから、目が離せないだけだ。
 王太子の傍らには、時折、庶民然とした若い娘の影がちらつく。名はリーシャ・グレイヴェル──社交界では見知った名前だ。王太子が微笑む時の目尻の緩みを、レイモンドは見逃さない。妹の婚約者に映る他人の貌。社交界は今宵も静かに笑っている。

(この夜は崩れる。……どこから、誰の手で)

 考えはそこで中断された。
 耳朶に、低くよく通る声が触れたからだ。

「失礼」

 はっと顔を上げる。そこに立っていた男は、白に近い冷たい光をまとっていた。
 肩へ流れる長い髪は白銀。銀糸の束をほどいてそのまま光にかけたような細やかさで、動くたび柔らかく揺れる。夜の色を吸わない髪は、燭光だけを掬い取って撫でるように反射した。
 琥珀の瞳は、蜂蜜より深い色。縁に刃の光が宿り、穏やかな笑みの形をとりながら獲物の鼓動を測る冷ややかさを隠しもしない。白を基調とする礼装の胸には、王国騎士団副団長の紋章が輝いている。
 ヴィンセント・グレイヴェル。

「お目にかかれて光栄です、ブラックウッド卿。今宵はひときわ、お美しい」

 褒辞の形をとった第一声は、敬意と品位をぎりぎり保ちながら、わずかな音の歪みで相手の足場を崩す仕掛けになっている。
 レイモンドは礼を返す。手の角度、顎の傾き、視線の高さ。どれも研ぎ澄まされた癖の範囲内で行われる。彼はこの場で、言葉を刃にするときに身体の隙が刃にならないことをよく知っている。

「こちらこそ、グレイヴェル卿。賑わいの中、わざわざ」
「ええ。少し、お耳に入れておくべき噂があって」

 男は遠巻きの視線を気にも留めず、自然な動きで距離を詰め、二人の間の空気を他の誰のものでもない私語の領域に変えた。
 カーテシーを交わす貴婦人の裾が波をつくり、その向こうで楽師が指先を滑らせる。世界は騒がしいのに、レイモンドはなぜか音の層の外に置かれたような錯覚を覚える。視界の中心には白銀と琥珀しかない。

「妹君のことです。近頃、羽振りがよろしいとか」

 この男は最初の一打を決して強くしない。柔らかい棍で骨を探り、痛みの出る場所を見極めてから、そこで形の良い傷をつくる。
 レイモンドは胸の内に冷たい輪を落とすように息を吸い、吐く。

「社交界とは、常に誰かの話題に飢えているものです」
「左様。だからこそ、王太子の許嫁が市井の噂に名を出すのは、少々惜しい」

 惜しい──という言い回しに、皮肉と警告が重なる。
 レイモンドは瞳だけを細めた。
 リーシャという名が脳裏をかすめ、王太子の笑い皺が続き、その隣に妹の笑顔が噛み合わない歯車のように軋む気配を呈する。

「……具体的に、何を仰せで」

 男は笑った。可視的な音を立てずに。
 そして、礼の範囲ぎりぎりの近さで、視線を少しだけ落とす。頬から顎へ。顎から喉仏へ。ほんの瞬き分の長さ。
 値踏み。それを人は侮辱と呼ぶが、これは少し違う。抜刀の前に柄の重さを確かめる騎士の手つきに似ている。
 レイモンドの背の筋が、気づかれないように微細に緊張した。

「具体性は、今は不要でしょう。……ご自身が一番、ご存じのはずだ」
「人の心中まで見通されるとは。騎士団副団長の職務は多岐にわたるようですね」
「職務外の楽しみが少しあるだけですよ」

 琥珀の瞳が、ほんのわずかに愉悦を混ぜて煌めく。
 その光は、レイモンドの計算の盤面に今までなかった駒──“美”──を置いてくる。彼は理性を愛し、美は軽視してきた。美は脆い。美は役に立たない。美は、刃ではない。
 けれどこの男は、美を刃にしている。長さも厚みもないのに、皮膚も誇りも静かに切っていく刃。

「……唐突でいらっしゃる」
「ええ、唐突の方が効きますから」

 ヴィンセントは礼儀の笑みを外さない。
 近づきすぎず、遠ざかりもしない。相手の呼吸の長さに自分の呼吸を合わせ、次の言葉が最も深いところに沈む瞬間を計る。
 そして、落とす。

「ブラックウッド卿。もし、今宵の後に何かが崩れたら──貴方はどこへ行く?」

 音楽が一瞬だけ遠のいた。
 問いは仮定の形をしているのに、既定の未来を告げる。レイモンドは己の無表情を信頼しながら、心臓の早鐘だけを理性で包む。

「崩すのも、積むのも、私の務めです」
「務め。貴方は良い言葉を選ぶ」

 男は満足げに頷いた。
 それから、ほんの少しだけ、ありえない仕草をした。
 礼の手の届くすれすれに、指先を。触れない。触れないが、触れる直前の距離へ。
 皮膚の上の空気が震え、そこに触覚が生まれる。

「……何の真似ですか、グレイヴェル卿」
「挨拶の延長です」

 茶化す声音の下で、視線は誠実に鋭い。
 レイモンドは、己の喉の奥に小さな熱の核を認めた。怒りでも羞恥でもない。名のないもの。名はまだ与えない。与えれば形になる。

 近くの柱時計が、低い音で時を告げた。
 曲が変わり、ホールの中央で踊りが新しい図を描き始める。
 ヴィンセントは短く視線を踊る人影に投げ、戻す。

「忙いでいるので。──ただ、ひとつ」
「どうぞ」
「妹君の件は、たぶん『噂』で済まない。だから、今のうちに“逃げ道”を知っておくといい」
「親切にどうも」
「どういたしまして。私は人に優しいので」

 それは嘘だ。
 しかし、完全な嘘ではないとレイモンドは感じた。
 この男は、残酷だが正確だ。相手の誇りが“折れる”より“曲がる”方がよく曲がることを知っている。だから曲げ方を教える。親切という形をした残酷さで。

「では、また『近いうちに』」

 ヴィンセントは一礼し、人波へ消えた。
 白銀の尾だけが燭光を掻き分けて、しばらく目に残る。
 レイモンドは杯を持ち上げると、液面に映る自分の瞳を覗き込んだ。銀色は揺れて、形を決めかねている。

(──危険だ)

 その判断だけは確かだった。
 だが、危険から目を逸らすのは政治ではない。危険の形を確かめ、輪郭を測り、手に負える大きさに切り分ける。それが彼の仕事だ。
 冷たい酒をひと口。舌に触れた泡はすぐ消え、代わりに微かな甘さが残った。甘さは毒になりうる。毒は量で薬になる。すべては量と匙加減。
 音楽の層が戻ってきて、現実が重みを取り戻す。
 遠く、王太子がリーシャに微笑むのが見えた。彼女は恭しく頭を下げ、目を上げたとき、視線がレイモンドと交わりかけ、すれ違う。
 妹の笑い声が高く響く。
 誰かが、誰かの噂をする。
 燭台の蝋がまたひと筋落ちる。

 夜は、まだ始まったばかりだった。
 鎖の音は、まだ聞こえない。けれど、金属の冷たさだけが、なぜか指先に残っていた。
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