悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放

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2. 頬をなぞる指、影を落とす声

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 夜は深くなるほど、祝祭の輝きは粘性を帯びていく。
 シャンデリアが降らせる燭光は琥珀色の液体のように天蓋からこぼれ、床の大理石を薄く覆っては、靴音と笑い声の波に揺れた。楽師の弓は滑らかに、時に甘すぎるほどの旋律を紡ぐ。葡萄酒の香は他の香と混ざり合い、甘やかな膜になって喉の奥に貼りつく。視線と視線が絡み、笑みと笑みが噛み合わず、空気のどこを吸っても、わずかな渋みが残る。

 その渋みの中心に、リディアナ・ブラックウッドがいた。
 黒髪を緩く巻き上げ、露骨に線を強調したドレス。歩調はわずかに速く、ヒールは赤い絨毯を叩いて音を立てる。左右へ散る侍女の裾、媚びた笑みを作る若い貴族たち。彼女が通れば、廊下は一時的な舞台になる──観客は息を潜め、次の失態を待つ。
 レイモンドは遠巻きにそれを見、眉をほんの僅かだけ寄せた。胸には何もない。ただ、傾いていく秤の皿を見ているときと同じ不快感があるだけだ。愛情でも怒りでもない。家名と評判と機会が、あの足音のたびに削られていく。彼はそれだけを見ている。

(いつまで許されると思っている。……いや、許しているのは誰だ)

 目を閉じる。短い瞬き。
 開けた視界の端で、王太子が笑うのが見えた。微笑の角度は正しく、礼節に叶う。だが、その視線の先にいるのはリディアナではない。庶民らしい仕立ての淡いドレスの少女──リーシャ・グレイヴェル。王太子の口元は彼女に向けたとき、かすかに形を崩す。
 妹の笑顔は遅れて咲き、誰にも見られないところでしおれる。見世物じみた華やかさは、目に見えない音程のずれを全体に散らしていく。

 レイモンドは杯を持ち上げ、泡の縁に唇を触れ、液体の重さを確かめるだけで戻した。喉は乾いているのに、飲みたいと思わない。飲みたいのは水だ──無味で、評価も記憶も残さない水。
 杯を卓に戻そうとしたそのとき、袖口がわずかに引かれた。
 反射的に振り向く。壁際の陰、柱の影から、白銀の髪が光を引いて現れた。

「止めるなら、早い方がいい」

 低く、よく通る声。
 ヴィンセントは壁に背を預け、片肩を少し落として立っていた。姿勢はくつろいでいるのに、空間は彼に傾いている。琥珀色の瞳が妹の背を追い、その光は獲物を見失わない猛禽のものに近かった。

「根拠はなんです」

 レイモンドは声を落とし、周囲の耳を確認する。誰も近くにいない。だが彼は癖で、距離と角度と音量を調整する。癖は鎧だ。

「根拠?」

 ヴィンセントは口角をわずかに持ち上げる。笑みは礼儀正しいが、内容は礼儀からはみ出す。

「王太子妃になる者が、民の目の前で家臣を辱める。……その先は、言わずともわかるでしょう」

「職務としての忠告ですか?」
「礼節としての親切です」

 親切。
 この男は時々、刃を飴細工で包む。溶けやすい飴は舌で甘く、刃は遅れて刺さる。
 レイモンドは視線をほんの少しだけ上げ、男の目を正面から受けた。琥珀は光を集め、静かに沈める。彼はそこで、自分の顔が「動かない」ことを確認する。動かさないことを学んできた筋肉が、正しく役目を果たしているかを。

「私は家を守る。それが務めだ。妹の不行跡など──」

 言い切る前に、頬に指先が触れた。
 触れた、と認識するまでに、ほんの半瞬遅れる。
 柔らかいのに、温度は低い。皮膚の上に置かれた刃の背。押せば切れるが、今は押していない。

「些細なこと、と?」

 囁きは耳へ直接落ちる。

「いや、貴方は潔癖だ。だから、こういう汚れ方が一番こたえる」

 レイモンドは顎を引く。だが指は追うように顎先に滑り、わずかに上向かされる。
 琥珀と銀が真っ直ぐに絡む。
 視線は、言葉より速い。言葉で守れる場所の外を、視線は容易く進む。心拍が一拍だけ跳ね、その反動で全身の筋が少し遅れて緊張する。
 彼はそれを悟られまいと、呼吸を浅く長くした。

「正義漢ぶる割には……震えている」

 唇の端に音にならない笑みが置かれ、それが音になる瞬間に耳の奥が微かに疼く。

「震えてなど──」

 否定は出来上がっていたのに、声帯がうまく運ばない。
 ヴィンセントの掌が頬から首筋へ。襟の影へ指が滑り、肌の上で空気がきしむ。そこに、隠すはずの痕がある。昨夜、妹が荒れた時に受けたもの。侍女はワインだと言い訳した。レイモンドは訂正しなかった。訂正したところで何になる。

「痛みますか?」

 問いの調子は軽い。だが、軽さは意図的に作られている。重くされるより、軽くされる方が、屈辱は長く残る。
 レイモンドは目を細めることで答えを曖昧にし、顎を外そうと首をひねる。親指の位置が変わるだけで、何も解けない。
 人が学ぶべき力の向きがある。彼はその向きに逆らって今まで勝ってきた。だが、体格差という単純な向きに抗う術は少ない。

「やめろ」

 声は思ったより掠れていた。
 自分の声帯が自分のものではないような、あの感じ。
 ヴィンセントの目が薄く笑う。満足、ではない。観察の笑いだ。次の一手を決める前に、駒の材質を見ている。

「次は……もっと良い場所で会いましょう」

 指が離れる。支えを失うように、ほんの少しだけ身体が揺れる。
 レイモンドはすぐに姿勢を整え、顎を戻す。
 その間に、白銀の髪は人混みに紛れ、琥珀の光は他の灯りと混ざっていく。足音は静かで、残したのは香と温度だけ。
 彼はその場に立ち尽くし、数呼吸分だけ、見えない音を聴いた。鎖がどこかで鳴ったような錯覚。実際には何も鳴っていない。鳴ったのは筋肉の奥か、それとも理性の外側か。

 周囲のざわめきが戻ってきた。
 レイモンドは無言で人波から離れ、柱の影へ身を寄せる。視線を巡らせれば、舞台は相変わらず華やかで、相変わらず少し壊れている。
 耳に小さな囁きが通り過ぎる。

「またブラックウッドの娘よ」
「王太子は見ていないのに」

 どれも正確ではないが、どれも致命的だ。正確さは人を救わない。数と傾きが人を殺す。

 妹は相変わらず笑い、取り巻きに囲まれている。笑みは固まり、目だけが時々泳いだ。救いは求めない。彼女は救われることを屈辱だと学ばなかった。
 王太子の傍らでは、リーシャが控えめに身を引き、言葉少なに応じる。あの慎ましさは、宮廷では最も過激な装いになる。
 レイモンドは彼女を見つめない。見る必要がない。彼は数字と手順を見る。次に崩れる場所、崩れた後の流れ、それを止める手段と代償。感情は軽く、理性は重く。

 杯を改めて取り、今度はきちんと一口含む。舌に残る甘さは薄い。喉を下ると、微かな熱が腹に沈む。
 指先を見下ろす。震えてはいない。掌は乾いている。
 では何が震えている──さっきの男の言葉が、内側から骨を叩く。震えている。
 己の中にある名のない反応を、レイモンドは言語に落とすことを拒んだ。名を与えれば形になり、形になれば力を持つ。政治は名付けの力を知っている。ゆえに、今は沈黙が最善だ。

 遠くで楽師が曲を変えた。
 踊りの図形が組み直され、絨毯の上に別の渦が描かれる。
 レイモンドは人の波へ戻り、数歩進んでまた止まった。
 侍従が横を通り過ぎるとき、わずかに顔色が悪いのが見えた。薄いざわめきが、どこか離れた場所で立ち上がる。厨房の方角──火に水が入ったような音がかすかに届いた気がした。
 まだ確かめない。今は動かない。動くべき時は必ず来る。動く前に、息の深さを攫え。目の高さを揃えろ。手の汗を拭け。

 柱影から出ると、視界の先で王太子がリーシャに何事か囁き、彼女が小さく首を振った。頬が僅かに色づく。王太子はその反応を喜びと勘違いし、さらに距離を詰める。
 脇で、リディアナが笑いながら扇で風を作った。扇の骨が一枚折れ、彼女は気づかない。

 崩壊は近い。

 レイモンドは琥珀色の液体を杯ごと傾け、残りを喉に流し込んだ。冷たさはもう感じない。
 口の中に、微かな甘さが残る。あの男の声と同じ甘さだ。
 彼は舌でそれを払うように口蓋を押し、ゆっくりと息を吐いた。

(──あの男は、何を企んでいる)

 答えは急がない。
 問いだけを胸に置き、彼は廊下の先へ歩を進めた。
 遠く、薄い騒ぎが音量を増やしていく。
 鎖の音はまだ聞こえない。だが、指先に金属の感触が、さっきよりはっきりと残っていた。
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