悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放

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3. 銀の瞳は抗い、王の影を映す

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 ──後日、王宮にて呼び出しがかかる。
 言わずともあの妹の件だろう。

 祝祭の余熱は、王宮の奥へ進むほどに薄れていった。
 大広間から謁見の間へ続く長い回廊は冷ややかで、燭台の炎は輪郭だけを保ち、磨かれた大理石に淡い影を幾重にも落としている。赤い絨毯は静かに伸び、足音は布に吸われ、呼吸の音ばかりが自分のものであることを告げた。


 * * *


 扉が開くと同時に、空気の密度が変わる。
 玉座は段差の上に鎮座し、歴代の王の肖像が壁を埋めていた。水晶のシャンデリアは夜を砕いて散らしたように煌めき、床に投げた光の粒が、ひとりの女の落とした扇に反射して白く跳ねた。

 列席する貴族の視線が、音もなく一点に集まる。
 レイモンド・ブラックウッドはその焦点に立った。漆黒に深緑のアクセントを湛えた礼装は隙がなく、銀の瞳は静かな刃の色を湛えている。額に汗はない。だが指先の温度は、いつもより僅かに低かった。

 玉座の男──王は、冠の影の下からこちらを見下ろした。

「ブラックウッド家の子息よ。お前の妹、リディアナの振る舞い、聞き及んでいる。王太子の婚約者としての品位を欠き、侍女を辱め、厨房の秩序を乱したとか」

 ざわめきは起きる前に、床の冷たさに吸い込まれた。
 レイモンドは一歩前へ進み、礼をとる。膝は折らない。折れば、その角度を戻すのに余計な労力を要する。

「陛下。妹の非礼は紛れもなく我が家の不徳。弁明の余地はございません。ただ、家門全体への断罪は、王国の秩序にとっても得策ならずと存じます。段階のある処置を──」

 王の瞳が細く光る。

「段階とな。狡猾な理を並べるのは、その父に似た。──才はある、レイモンド。だが、才知は往々にして高慢へ道を開く」
「高慢は、秩序を踏みにじる時にのみ罪となりましょう」

 言葉は静かに、しかし衆目に届くように置く。

「我が家門は代々、文と政で王国に奉じて参りました。失策の責は受けます。ですが、骨を抜けば、すぐに歩みは鈍ります」

 貴族たちのあいだで、小さな呼吸がいくつも生まれては消えた。
 レイモンドの視界の端で、妹リディアナの肩が強張っているのが見える。唇は薄く結ばれ、眼差しは床に落ちていた。あの妹を、彼は守りたいと思ったことはない。ただ、家族としての最低限の情と、家名を落とす者への冷徹な評価。心にあるのは、それだけだ。
 王太子が進み出る。若さの残る横顔に、固い決意が刻まれていた。

「陛下。私は──婚約を見直したく思います」

 会場の空気が捩れる。
 それまで床を見つめていたリディアナが、勢い良く顔を上げた。瞳孔が縮む、愛するものから出た言葉を、受け止められずにいる。

「彼女は臣下を軽んじ、王妃の器にはございません。……そして、私は別の者に心を寄せている」

 視線が一斉に、列の端へと流れた。
 リーシャ・グレイヴェル。
 質素な色合いのドレスは彼女の年若さを引き立て、琥珀の瞳は怯えではなく、僅かな覚悟を灯している。平民の出──だが、足下の置き方には粗がない。王太子の視線を受けても逸らさず、頭を垂れる角度だけが正確だった。

(……最悪の形だ)

 レイモンドは喉の奥で息を殺した。
 王太子の言葉はその一言で足りるほど真実味を帯びていた。社交界の噂──リーシャの聡明さ、誰とでも隔てなく言葉を交わせる柔らかさ。妹リディアナの傲慢さが、対比のための舞台を自ら作っていた。

 王は沈黙の後、指先で椅子肘を一度だけ鳴らした。

「婚約の破棄は、軽い話ではない」

 視線がレイモンドへ落ちる。

「ブラックウッド卿、どう受け止める」
「受け止める以前に、証拠と整序が必要にございます」

 銀の瞳は揺れない。

「王国の制度は激情では動かない。王太子殿下の御心は尊重すべきですが、手続きと秩序の中で行われるべきです。──その秩序を整えるのが、宰相家の役目でございました」

 最後の語尾に、過去形が混じったのを自分で知る。
 王の口角がわずかに動いた。笑いではない。判断の前の、静かな呼吸だ。

「よかろう。今宵ここで結論は出さぬ」

 王は宣した。

「リディアナ嬢のふるまいについては、監察官に調査を命じる。王太子の所望も、制度の上で扱う。──ただし、ブラックウッド卿」

 名前だけで、場の温度が一段下がる。

「次に同じ報せが上がれば、その時は容赦せぬ。家も、名も、秩序の名のもとに削ぎ落とす。覚えておけ」

 息を飲む音が響く。

「拝命いたします」

 低く、はっきり。
 床を渡る囁きは、安堵と失望が混ざり合い抑制された匂いを帯びていた。断罪は先送りにされた――だが、首筋に置かれた刃はわずかの距離も離れてはいない。
 レイモンドはひとつ呼吸を置き、礼をして退いた。背中に突き刺さる視線の束が、外気へ続く扉の手前でほどけていく。


 * * *


 玉座の間を出ると、回廊の冷気が肌を撫でた。
 石壁にかすかな汗の匂い、遠い弦の尾を引く音。舞踏会はまだ続いている。だがその音は、祝祭ではなく、斜面を滑り落ちる雪のきしみのように聞こえた。

「見事でした、ブラックウッド卿」

 背後から落ちる声は、あまりに近くに届いた。
 白銀の長い髪が炎を掬い、琥珀の瞳が夜を宿している。王国騎士団副団長、ヴィンセント・グレイヴェル。
 足音を忍ばせるのが上手い。獣が獲物へ間合いを詰めるときの音だ。

「……あれを、見事と言いましょうか」

 レイモンドは振り向かずに答えた。

「先延ばしに過ぎません」
「先延ばしは、勝ちと同義です」

 ヴィンセントが隣に並ぶ。背の高さが影の長さを変える。

「今日ここで落とされなかった。それで十分」
「貴方にとっても、ですか」
「もちろん」

 淡い笑みを声だけに乗せ、彼は続ける。

「貴方の理は美しい。言葉は鋭く、角度も正確。──刃です、レイモンド・ブラックウッド。だが、刃には鞘が要る。鞘を持たぬ刃は、やがて自分を傷つける」

「説教ですか」
「観察です」

 歩調はぴたりと揃う。

「それに……興味でもある」

 そこで初めて、レイモンドは横顔だけで彼を見た。
 琥珀の瞳は笑っていない。獲物の動きを読み、必要な瞬間だけ力を使う野生の眼差し。
 先の舞踏会で耳許へ落とされた、最初の挑発。

 ──「潔癖すぎる。それゆえに苦しんでいる」
 あの言葉の温度が、今また皮膚の内側で蘇る。

 短い沈黙。
 遠くで笑い声が弾け、すぐに石壁に潰れた。

「ブラックウッド卿」

 名を呼ぶ声が低く落ちる。

「王の前では、抗えた。見事でした。だが──俺の前ではどうでしょう」

 指は伸びない。触れない。
 それでも、空気の角度が変わる。逃げ道が地図から消えていく感覚だけが、確かな重みで肩に落ちた。

「……何の話だ」
「話ではない。合図です」

 琥珀は笑みを深めないまま囁く。

「今宵、屋敷へ。拒むことは──許さない」
「命令は聞かない」
「お願いです」

 先ほど王の前で口にした同じ言葉が、今度は別の意味を帯びて耳に触れる。
 レイモンドは視線を正面に戻した。扉の向こうは再び光と人いきれ。音は大きいのに、遠い。

「……行かないと言ったら」
「王の御前での理を、俺の前でも聞かせてください」

 ヴィンセントは一歩だけ身を引き、「待っています」と置いて、踵を返した。白銀の髪が闇に溶け、足音が最初の角で消える。
 残ったのは、匂いのない気配だけ。鎖のない拘束だけ。

 胸の奥で、冷たく固いものと、熱く柔いものが、同じ音で打ち合った。
 レイモンドは息を整え、祝祭の光の中へ戻る。
 誰もが笑い、踊り、噂に花を咲かせている。王太子はリーシャと並び、周囲は均された喜悦の輪を作っていた。リディアナは遠い柱の陰で唇を噛み、侍女が二人、わずかな距離を置いて立っている。
 彼は妹に近づかない。かけるべき言葉はない。今の彼にできるのは、視線の高さを保つことと、呼吸の長さを崩さないことだけだ。

(今宵、屋敷へ)

 耳の奥で、あの低い声が遅れて鳴る。
 合図は命令に似て、誘いに似て、呪いに似ている。
 拒めば、明日は別の形で来るだろう。拒まなければ、今夜が来るだけだ。

 舞曲が変わった。
 銀の瞳は、光の粒を弾きながら、少しだけ伏せられる。
 ──刃はまだ折れてはいない。
 だが、鞘の形を測り始めている自分を、レイモンドは確かに自覚した。

 夜は長い。
 扉は多い。鍵はどこかに“ある”。
 選ぶことだけが、彼の誇りの新しい名になるのだとしたら──。


 * * *


 自邸にて、彼は杯を取り、葡萄酒をわずかに舌に乗せ、喉を潤した。味は薄い。だが、熱は確かに降りていく。
 この夜の果てに何が待つのか、理は教えてくれない。
 ただ、琥珀の声が告げた通り、刃は夜に濡れれば鈍る。鈍れば、誰も切らないで済むのか。あるいは、自分が切られる側に回るのか。
 答えは、次の扉の向こうにある。

 ──今宵、屋敷へ。
 銀の瞳は、静かに夜を映した。
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