悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放

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4. 密に濡れ、刃は鈍る

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 夜は重く、館は深かった。
 王宮の石段を降りてからずっと、レイモンドの耳の奥には同じ言葉が反響している──今宵、来いと。
 命令に似た、合図に似た、呪いのような囁き。拒めば別の形で来ると直感していた。拒まなければ、ただ今夜が来るだけだ。

 扉が静かに開き、ひとつ分の暗さが室内へ滑り込む。
 厚いカーテン、抑えられた灯、卓には水と白い布。壁には腰の高さに金具が二つ。装飾に見えなくもないが、用途はひと目でわかる。
 背後で扉が閉じた。閂は落ちない。鍵は内側に“ある”。それだけで呼吸が少し深くなった。

「来たな」

 白銀の髪が灯をすくい、琥珀色の瞳が夜の形を持つ。ヴィンセントが、昼間とは異なる口調で語りかけた。
 レイモンドは正面から向き合った。背筋は伸び、顎はわずかに上がる。視線の高さを守るのは、ここで守れる唯一の秩序だった。

「そっちが本性か。──用件を」
「お前の矜持の強度を測る。それと、俺の勘の正しさを確かめる」
「勘?」
「お前は折れない。だから、曲がるはずだ」

 侮辱ではなかった。観察の言葉。
 白手袋が外され、卓の上に置かれる。皮革が木に触れて静かな音を立てた。その音だけで、退路がいくつか図面から消える。
 ヴィンセントは一歩分の距離まで近づいた。呼吸が肌に触れる距離。触れずに、距離だけが侵入してくる。

「拒むなら──今だ」

 低い声が落ちる。
 レイモンドは喉を鳴らし、目を細める。王の御前で使った理はここでは役に立たない。ここでは言葉より、沈黙が重くなる。

「やめろ、と言えばやめる。縛りもしない」
「……貴方の性格で、それを言わせに来たのか」
「試しているのは俺か、お前か──どちらかな」

 頬へ伸びた指先は、押しつけるというより「角度を決める」触れ方だった。逃げ道の角度が薄く消える。
 レイモンドはほんのわずかに顎を逸らす。追ってこない。代わりに、耳の後ろの薄い皮膚に空気が落ちる。
 唇が触れた。浅く、短く、規則的に。奪わないのに、退路がない。
 肩を突こうとして、指が空中で停まる。掴めば布を乱す。乱せば、自分の負け方になる──政治が教えた敗北の定義が、夜にも通用してしまうのが癪だった。

「柱に背を」

 命令の形に、拒否の余白が残る声。
 レイモンドは一拍遅れて柱へ歩き、背を預けた。木目の硬さが肩甲骨の稜線を測り、左右の逃げ道を狭める。狭いほど、逃げには意味が生まれる。
 隣で小さな金属音。ヴィンセントが金具に細い鎖を掛ける。片端だけが垂れ、床でちり、と鳴った。手首は自由のまま。音だけが、「ここに在る」と告げる。

「縛らない、と言った」
「言った。──音は置く。この音を刻む」

 清潔な鎖の微かな光沢が、かえって屈辱を鋭くする。地下の湿りを知らない金属ほど、誇りの皮膚をよく切る。
 顎が軽く取られ、視線が絡め取られる。琥珀の瞳は笑わないのに、獲物の動きを愉しむ野性を隠さない。

「その目、折りたくなる」
「折れない」
「知っている。……だから、曲げる」

 唇が重なる。深さのふりをして、長くなった。呼吸の長さを合わせながら熱が喉の奥を叩き、背の柱が体重を受け止める。
 耳殻に落ちる囁きは、刃の鞘に似て音を柔らげる。

「喉を湿らせろ」

 差し出された杯。レイモンドは短く睨み、それでも受け取る。

「これは命令ではない。お前を労る心だ」
「言い回しが最悪だ」
「最悪なほど、逃げ場がない」

 水は味がない。だから真っ直ぐに体の底まで落ちる。
 杯を戻した指を、ヴィンセントが受け取るでも離すでもなく、ただ動線を塞ぐ位置に置いた。
 首筋──耳の後ろ、鎖骨の上、肩口。浅い口づけが三点、印を押すみたいに置かれる。そこだけが自分だとわかり、そこ以外も自分だと許せなくなる。

「明日には、お前の家は切られるかもしれない。名も、地位も」
「王の御前で聞いた。繰り返すな」
「……なら別のことを。──お前の才は、俺が拾う」
「拾い主の情けは、飼いならしの第一歩だ」
「そうだ。俺は捨てない、使う」

 柱から離れ、窓辺へ。
 レイモンドはカーテンの結び目を解いた。布が滑り落ち、錠と──内側の鍵が現れる。
 掌にのせ、重さを測る。金属は小さいのに、今夜の言葉より重かった。

「鍵はここにある。俺が持つ。――だが、お前が望むならいつでも開ける」

 ヴィンセントの瞳に、針の先ほどの細かな揺れ。

「『拒むなら今だ』は言わないのか」
「──今夜は、『選ぶなら今だ』だ」

 鍵は卓に置かれた。
 誰にも掛けられず、誰にも奪われず、ここに“ある”。
 “ある”という事実が、今夜の最初の契約になる。

 その瞬間、白銀の男から規律が一枚剥がれた。
 動きが直線的になり、間合いの詰め方に容赦が消える。重さは荒々しさと紙一重のところで止まり、節度が残酷を増幅させる。
 レイモンドは肩を捻り、手で胸元を押し返そうとして──やめる。押せば押し返され、距離は乱暴に開く。誇りはそれ以上に乱暴に痛む。乱暴の手前で支える重みのほうが、かえって深く効く。

「離れろ」

 自分の声は思ったより低く濁っていた。
 白銀は笑わない。笑わないまま、獣のやり方で息を荒くする。
 衣擦れが短く鋭く鳴り、すぐに布の褶へ吸い込まれる。留め具がひとつ、音を落とし──戻される。
 乱すのではなく、整える。整えるという名の支配。布の上に、誰の手が通ったのかの痕跡だけが残る。

「まだ折れていない」

 レイモンドは言う。自分に言い聞かせる声。

「そうだ」

 ヴィンセントの手は首筋の火点をなぞり、数を増やすのを止める。深さではなく、反復で在ることを刻む。

「だから面白い」

 灯がひとつ落ちた。
 闇は恐ろしくない。輪郭を曖昧にし、曖昧さは優しさに似る。
 レイモンドは背を壁ではなく、男の胸へ押し当てていると気づき、遅れて体を離そうとして──離れない。支える掌が「落ちない」ための位置にあり、逃げ道を塞がず、退路の意味だけを奪う。

「──合図を」

 レイモンドの声は低く、短かった。
 白銀はその一語に呼吸を合わせ、「レイモンド」と名を呼ぶ。
 名が落ちる。それが合図。
 唇が重なり、角度が決まり、呼吸の深さが同じになる。奪わない。だが、戻さない。

 鎖が卓上で音を立てない。
 代わりに、耳の奥でさっきの微かな金属音が遅れて鳴り続ける。合図に似て、命令に似て、まだ形ではない何か。


 * * *


 レイモンドは掌でシーツの縁を探し、掴まずに撫でる。掴めば壊す。撫でれば、残る。
 重さが増す。速度が上がる。
 乱暴の一歩手前で踏みとどまる節度が、なおさら獰猛さの陰影を濃くする。

 ──扉が静かに閉まる音だけが、はっきりと残った。

 その先で起きたことを、言葉にすれば粗野になる。
 言葉にしないことで、記憶は深く沈む。
 水差しの影が細く揺れ、灯はさらに小さくなり、鎖は音を立てない。
 ただ、呼吸と脈動と、名を呼ぶ声だけが、夜を満たした。

 どれほど時間が過ぎたか。

「──眠れ」
「命令口調はやめろ」
「お願いだ」

 言い直された声に、短い息が笑いへ変わる。
 肩に落ちる腕の重みは、重荷ではない。今夜、選び取った重みだ。
 瞼の裏で小さな光が遠のき、耳の奥で鎖の合奏が確かに鳴った。


 * * *


 鳥の声が遠くで跳ね、窓辺の布が淡く明度を増す。
 レイモンドは目を開け、隣の寝息を数えた。均一で、深く、安心を誘う呼吸。
 寝台の縁に指を滑らせる。褶は整い、襟元は戻されている。誰の手が通ったかは、見ればわかる。
 立ち上がり、卓へ。鍵は“ある”。鎖は音を立てない。
 選べることが自由で、選んだ結果が束だ──昨夜、彼は確かにそう学び、なおも刃を手放していないと確信する。

 洗面台の水で指先を濡らし、首筋の火点を軽く押さえる。痛みはない。熱だけが薄く残る。
 襟を正し、呼吸を整え、窓辺の紐をわずかに引く。朝の光が銀と琥珀を均等に照らした。

「……おはよう」

 後ろから掠れた声。

「おはよう、レイモンド」

 彼は振り返らない。窓に映る影だけで十分だ。

「次は、昼だ」
「昼」
「職務の話をする。補給路、税の偏り、私兵の実態。――お前の才を使う」
「対価は」
「俺の手の届く距離にいろ。俺の声が届く場所にいろ」

 短い沈黙。
 レイモンドは鍵を見てから、視線だけで頷いた。
 昨夜、刃は折れていない。鈍った。蜜に濡れ、鞘の形を覚え始めた。
 鈍れば、誰かを切らずに済む。切られずに済む。──それが本当に救いかどうかは、まだわからない。
 だが、今はそれでよかった。選べる、という事実が呼吸の長さを保ってくれる。

「行こう」

 振り返ると、白銀の男が身支度を終え、扉の前に立っていた。

「隣で」
「……隣?」

 ヴィンセントが呟いたものに、眉をひそめて疑問を立てる。彼はレイモンドの表情をみて、玩具を見つけた目をする。

 扉が開き、朝の空気が二人の頬に触れた。
 足音がふたつ、同じ歩調で廊下に満ちる。

 夜は確かに深く、そして明けた。
 鎖の音は遠のいたが、耳のどこかで次の合図に形を変えて残っている。
 刃は鞘に寄り添い、命令は合図となる。

 静かに、確かに。
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