悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放

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5. 刃は囁きに鈍り、形を知る

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 朝の光は、昨夜の影をなぞるように部屋の輪郭をやわらげていた。
 レイモンドは洗いざらしの白布で首筋を押さえ、微かな熱の残滓を指先に確かめる。痛みはない。ただ、皮膚の下で小さく息づく印が三つ。耳の後ろ、鎖骨の上、肩口――夜の合図が置かれた場所。
 卓の端には鍵が“ある”。鎖は音を立てない。選べるという事実だけが、今朝の呼吸を整えてくれる。

「行くぞ」

 背で声がして、レイモンドは襟を整えながら振り向く。白銀の髪を束ねたヴィンセントは、いつもの純白の軍装に黒革の手袋を合わせていた。視線は鋭いのに、今朝は妙に静かだ。

「補給路の図だ」

 差し出された筒から広げると、王都から三方向へ伸びる線が、穀倉地帯や関所、橋梁の位置を細かく結んでいる。

「この橋は狭い。増援が詰まる」

 レイモンドが指で示すと、ヴィンセントは頷き、別の駒を置いた。

「野営地の移動を一日早める。税の偏りは?」
「北の領主が穀物を囲い込んでいる。取り締まりをかけるより、買い上げて流した方が速い」
「金は出す、出させる」

 言葉の間に昨夜の温度が混ざらないよう、レイモンドは意識して思考を冷やす。官能は蜜のように、紙の上にもにじんでくる。だからこそ、理は刃のままでいなければならない。
 筆先が滑り、修正線が増え、図は息をし始める。紙の上の王国は、小さな決断の積み重ねで形を変える──夜もそうだった、と彼はふと思う。

 午前の軍議は手短に終わった。
 庭に出ると、冬を越えた芝が光を反射し、訓練場の木剣が乾いた音で打ち合う。副団長の姿に気づくと、騎士たちは一斉に姿勢を正した。

「続けろ」 

 ヴィンセントの一言で緊張が解け、再び木剣が火花のない火を散らす。
 レイモンドは柵に手を置き、動線を目で追った。足さばきの癖、重心の甘さ、反撃の遅れ。

「副団長」

 若い騎士が駆け寄る。

「先日の関所でのあれ、やはり囮が……」
「囮を二つ重ねるな。嘘は一つで足りる」

 レイモンドが口を挟むと、若者は目を丸くし、疑問を浮かべながら、素直に頭を下げた。

「……ありがとう、ございます……?」

 横でヴィンセントが、ほんのわずか口角を上げた。

「参謀としての初陣だな」
「机の上の話だ」
「机の上で勝てる戦もある」

 昼餉は簡素だった。黒パンと固いチーズ、薄いスープ。
 食堂の隅で、二人は向かい合う。レイモンドはいつものようにパンの角から欠き、ナイフの刃先を使わずに手で割く。

「刃は鈍ったか」
 ヴィンセントが冗談めかす。

「鈍らせたのは誰だ」
「俺だ」

 即答に、レイモンドは笑わないまま喉の奥で短く息を鳴らした。
 笑いは、刃の鞘になる。素肌で持つより、安全だ。


 * * *


 午後は王宮へ。
 騎士団の控え室には地図と文書が積まれ、書記官が走り、封蝋の甘い匂いが漂っている。
 レイモンドは監察官の報告書を受け取り、素早く目を滑らせる。

「リディアナの件は?」

 問いは短い。

「証言は割れている。侍女への横暴は事実。ただし、煽ったのは下位貴族の娘だ」

 ヴィンセントが答える。レイモンドは紙を置いた。腹の底に重い石が落ちる感覚。情は薄い。だが、家の名に絡みつく泥の重みは、今も彼の背骨と結びついている。

「……会う」
「誰に」
「妹に、ではない。リーシャ・グレイヴェルにだ」


 * * *


 続けざまに訪れた私室は、淡い布と本の匂いがした。
 リーシャは驚いたが、すぐに美しい礼をとる。

「ブラックウッド卿」
「レイモンドで構わない、リーシャ嬢」

 向かい合って座ると、彼女はまっすぐにこちらを見た。琥珀の瞳──兄であるヴィンセントと同じ色なのに、熱の質が違う。

「わたしは……あなたのリディアナ様を憎んでいません」

 第一声がそれだった。

「わたしが選ばれたからといって、誰かが不要になったわけではない。ただ……王太子殿下は、わたしの前で“優しい”のです」

 言葉が慎重に選ばれている。
 レイモンドは短く頷いた。

「その優しさが、誰かを傷つけるときがある」
「はい。だから、わたしは黙ります」

 静かな宣言。
 彼女は続けた。

「お兄様はきっと……」

 言いかけて、口を噤む。

「副団長は?」

 レイモンドが促すと、リーシャは微笑んだ。

「強いです。わたしの前では、優しいとは言いません。強いだけ」

 その言い方に、レイモンドは少しだけ救われた。
 強さは、刃の形をした誠実だ。優しさは、時として蜜で刃を鈍らせる。昨夜の蜜は、自分で選んだ。ならば、その責もまた自分のものだ。

 部屋を出ると、廊下の角に白銀が立っていた。
 何も言わないのに、視線だけで問うてくる。

「大丈夫だ」

 レイモンドが先に答えると、ヴィンセントは一歩だけ寄り、「嫉妬はしない」と乾いた声で呟いた。

「する必要があるのか」
「ない。――ただ、するということを学ぶかもしれない」

 夕刻、館へ戻る馬車の中は静かだった。
 ヴィンセントは窓外を見ながら、ふいに言う。

「お前が机に向かっているとき、呼吸が深くなる」
「観察だな」
「観察だ。夜も似ている」

 レイモンドは窓の向こうに視線を泳がせる。

「夜の話を昼にするな」
「昼の話を夜にしよう」
「それもやめろ」

 扉が開き、冷たい空気が頬に触れる。
 部屋に入ると、灯は二つだけ点いていた。
 レイモンドは卓の鍵を手に取り、掌で転がす。今朝と重さは同じはずなのに、わずかに軽い気がする。

「……返そうか」

 口をついて出た言葉に、自分で驚く。

「鍵を」

 ヴィンセントの琥珀が微かに揺れた。

「なぜ」
「重さが減った。――おそらく、持つ意味が変わったからだ」

 沈黙が落ちる。
 彼は鍵を卓に戻した。音は立たない。

「昨夜、お前は『お願いだ』と言った。命令ではなく。……その言葉が、刃の鞘になった」

 言葉を選ぶのに、いつもより時間がかかった。

「支配は、嫌悪では続かない。――多分、これは嫌悪ではない」

 琥珀が近づく。
 強い男が、勝ち誇りも恥じらいもない顔で、ただ相手の言葉を待っている。
 レイモンドはゆっくりと息を吐き、顎を上げた。

「感謝だと、言っているわけでもない。だが……お前が“捨てずに使う”と言ったことに、救われている自分がいる」
「救いは弱さか」
「救いは、選んだ者の重さだ」

 その時、廊下の向こうで小さな騒めき。
 執事が青い顔で駆け込む。

「急使にてございます。王より命が……」

 差し出された封書には、簡素な文言。明朝、王の御前にて裁可を問う。
 あの冷たい玉座が、また呼んでいる。

 夜は自然と短くなった。
 レイモンドは書き物机に向かい、補給路の図の端に小さな覚え書きを並べていく。関所の増員、税の繰り延べ、王都の備蓄の再配分――王に示せる“秩序の言葉”を磨き上げる。
 背後で灯が一つ落ち、白銀の気配が近づく。

「眠れ」
「命令口調はやめろ」
「お願いだ」

 レイモンドは筆を置かずに笑った。

「終わらせたら、寝る」
「待つ」

 短い返事。
 待たれることが、これほど温かいと知っていたなら、もっと早く誰かに頼っていたかもしれない──そんな愚かな仮定を、彼はすぐに打ち消す。今でいい。今だからいい。

 灯がさらに小さくなる。
 扉は閉じられ、鍵は“ある”。
 唇が触れ、離れ、呼吸の深さがそろう。
 昨夜より静かで、昨夜より深い。激しさは影に回り、影は境界を柔らかくする。

 「レイモンド」
 名を呼ぶ声は、合図の形で心臓に落ちる。

 彼は合図を返す。短く、確かに。
 扉の向こうへ漏れる音はない。
 鎖は鳴らないが、耳の奥であの微かな金属音が遠く、やさしく続く。
 合図に似て、命令に似て──それは、もう、依存という名の愛に似ていた。


 * * *


 夜明けの前、レイモンドは一度だけ目を覚ました。
 寝台の端で、ヴィンセントが軽い寝息を立てている。強い男は眠る時だけ無防備だ──その無防備が、見たことのない形で胸を温かくする。
 そっと起き上がり、机に戻る。
 最後の行を加える。“秩序に従い、情に流れず、然れど民の腹を満たすこと──王道の第一に置くべし”。
 書き付けを乾かし、封じ、卓の鍵に指を置く。

「返せ」

 背中に眠たげな声。

「返すな、ではなくか」
「返せ。……俺が預かる。お前が“返した”という事実が、今は必要だ」

 レイモンドは振り返る。
 琥珀の瞳は半分眠ったまま、しかしまっすぐに彼を見ていた。
 彼は鍵を持ち上げ、歩み寄り、白銀の掌へ落とす。
 小さな金属音が──今度は現実に──軽く鳴った。

「返した。だが、開けろと言えば、開けろ」
「開ける。──お願いされれば」

 二人は短く笑い、身支度を整える。
 扉が開き、冷たい朝が流れ込む。
 王の御前に向かう道は、昨日と同じ石畳だ。だが、胸の奥の重さは違う。
 刃はまだ刃だ。鈍り、鞘を知り、蜜を知った──それでも、刃だ。
 その刃を、誰のために抜き、誰のために収めるのか。答えは、もう明確だった。

「隣で」
「隣で」

 足音が二つ、同じ歩調で廊下に満ちる。
 扉の向こうには、冷たい玉座と、熱い囁きと、まだ見ぬ結末。
 銀の瞳は前を見据え、琥珀の瞳が横から重なる。
 囁きが、刃を鈍らせるのではない。刃の向きを、正しくするためにあるのだと──レイモンドは、ようやく知った。
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