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6. 琥珀と銀、終焉を抱く
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夜が明けきらない王都は、音を我慢しているようだった。
石畳は湿り、早朝の荷車は軋みを飲み込み、門番の槍の先で薄い霧がほどける。館の上階の窓から見下ろすと、王宮へ向かう道が一本、細い光になってのびていた。
レイモンドは襟を正し、机の上の文書に最終の印をつける。供給路の再編、関所の増員、税の繰り延べ──秩序の言葉。
昨夜乾かした封書は、角までまっすぐだ。震えた線は一本もない。
「行くぞ」
背で声がして、振り向く。白銀の髪は高く束ねられ、琥珀の瞳には戦場の温度が帯びている。
ヴィンセントは手袋の口を指で整え、短くうなずいた。
「隣で」
「隣で」
馬車はうなることもなく、王宮の坂を上っていく。
扉が開くと、玉座の間の空気が喉に冷たく触れた。
上段の椅子で王が静かに息をし、王太子がその横に控える。左右に並ぶ貴族たちは、朝の光を防具のようにまとい、誰もが自分の影を踏まないよう気をつけている。
「ブラックウッド家の件、裁可を問う」
王の声は、氷の川の音に似ていた。
レイモンドは一歩進み、礼をとる。膝は折らない。
「陛下。まずは王都周辺の供給路について──」
開いた図の上に、指が迷いなく置かれる。橋梁、野営地、倉庫、税の偏り。言葉は感情を削り、数字と位置で固くなる。
王は途中で遮らない。王太子は前屈みになり、書記は砂を落として乾きを急がせる。
「……以上です」
レイモンドは地図を閉じ、視線を上げた。
「家門の断罪は、制度としては可能です。ですが、秩序の観点からは骨を抜くに等しい。落とすなら個を。救うなら機能を。──陛下の御裁断を」
静寂。
王は椅子肘に置いた指先を一度鳴らし、視線を王太子へ向けた。
「汝の望みは」
王太子は迷いなく言う。
「リーシャを娶りたい」
列の端で、少女は静かに頭を垂れた。昨日よりも澄んだ瞳だ。覚悟という言葉が、年若い肩に無理なく馴染んでいる。
人々の視線が、対照的にもう一人の名を思い起こす。リディアナ──姿はない。呼ばれなかった。
「ブラックウッド家は」
王が視線を戻す。
「慢心により秩序を乱した。──だが、才は国の財である」
まっすぐにレイモンドを射抜いてくる。
「一族は国外へ。爵位は剥ぐ。家産は没収。だがお前の才は、王国の下に置く」
通達の言葉は刃だ。だが、切断面は思ったほど鋭くない。
「監督者を指定する」
王が腕をわずかに上げた。
白銀の影が剥がれ、前へ進む。
「王国騎士団副団長、ヴィンセント・グレイヴェル」
琥珀の眼が光の筋を渡り、受ける言葉は短い。
「拝命致します」
ざわめきが起きる前に、そのざわめきを断ち切る別の声。
「進言いたします、陛下」
ヴィンセントはすぐに言葉を継ぎ、視線を横へ流した。
「当件の背景に、下位貴族による扇動がございます。証言は割れていますが、火種がブラックウッド家だけにあるとは言い難い。秩序をただすという名目のもと、監察の範囲を王都全域に拡げるべきです」
即ち──断罪は見せしめであってはならない、という主張。
王の眉が、わずかに動いた。
「理由は」
「王都の胃袋を守ること。飢えは忠誠を削る。余計な燃料は取り除く」
王太子が小さくうなずく。
人々の目は、断罪の快楽から徐々に離れ、現実の数字へ戻っていく。
王は椅子肘を再び鳴らした。
「よかろう。監察の範囲を拡大し、報告を待つ」
そして、簡潔に告げる。
「本件の処置は、以上だ」
レイモンドは胸の奥で短く息を吐いた。
名は落ちた。だが、落ちきらない。
王太子の視線がこちらへ向かい、微かに頷いた。そこに私的な情はない。あるのは王侯に特有の、冷ややかな感謝──人を赦すのではなく、機能を認める仕草。
彼はそれで十分だと思った。
列が解け、扉が開く。
退室の流れに身をのせたところで、横から短い囁き。
「よくやった」
ヴィンセントの声だ。
「助けられたのは、私の方だ」
「俺は助けてない。──使っただけだ、お前を」
「なら、使え。使い切れ」
言い合いは、互いの歩調を崩さないまま終わる。
回廊の冷たい光が、二人の影を重ね、離し、また重ねる。
階段を降り切る前、レイモンドはふと立ち止まり、背後を振り返った。
歴代の王の肖像はどれも似た表情で、違いは冠の意匠と眼の彫りの深さにしかない。
誇りを折られた場所に、もう一度、自分の足で来た。
その事実が、胸骨の裏側で温度を持った。
* * *
昼下がりの館は、静かだった。
文書が一山分、机に積まれている。騎士団の補給路と、王都の税。レイモンドはペンを取り、事務を暴力のような速度で片づける。
窓際の光が紙の角をあぶり、インクの黒に薄い青が混ざる。
背後で衣擦れの音。
「眠れ」
「命令口調はやめろ」
「お願いだ」
彼はペン先を乾かし、封蝋の印に唇をあてる。
「……終わった」
くる、と椅子を回すと、白銀の男が立っていた。
朝の緊張は消え、戦場の温度も収まり、残っているのは──待つ気配。
強い男の、待てる気配。
「鎖はないのか」
レイモンドが言う。
「要るか」
「要らない」
鍵は卓の端に“ある”。小さな金属が陽を吸い、光らない。
「返せ、と言われたら返すつもりだったが」
「返すな」
ヴィンセントは近づき、息の距離まで来て、それ以上を詰めない。
「いいのか、……俺が持ってて」
「重さが変わった」
「重いか」
「軽い。……信に似ている」
指が頬に触れる。押しつけではない。角度を決める触れ方。
レイモンドは躊躇の一拍を置き、それから自分から顎を上げる。
「『拒むなら今だ』は」
「言わない。──『選ぶなら今だ』だ」
唇が触れ、離れ、また触れる。
昨夜より静かで、昨夜より深い。
重さはゆっくりと増し、呼吸は自然に揃い、部屋の音は紙の上で眠る。
扉は閉じられ、鍵は“ある”。
鎖は鳴らない。だが、耳の奥で、もうあの微かな金属音は合図ではなく、合奏になっていた。
* * *
夕刻、王宮から急使が再び来た。
簡潔な文言──王太子の婚儀、来月半ば。リーシャ・グレイヴェルを正妃に迎える。
誰も驚かない知らせ。それでも、王都はしばらく騒がしいだろう。
ヴィンセントは書状を卓に置き、ぽつりと言った。
「お前の妹は」
「修道院へ送る。父が決めた」
「情は」
「ある。最低限の。──それで十分だ」
短い沈黙が、夕暮れの色を濃くする。
レイモンドは窓へ歩き、指で布の褶を整えた。
整えるという名の支配は、いまや怖くない。誰の手が通ったかを知り、通すことを許すための作法だ。
背で衣擦れ。
「お前は──」
ヴィンセントの声がやわらかくなる。
「……幸せか」
思いもよらない問い。レイモンドは振り返らずに答える。
「まだ測っている。だが、不幸ではない」
白銀の男は笑い、近づく。
「傲慢な答えだ」
「貴方が教えた」
「いつ」
「『捨てずに使う』、と言った夜」
その時、遠くで鐘が鳴った。
王都は日を畳み、夜の布を広げる。
灯がひとつ、またひとつ点り、館の廊下に金の小さな島が生まれた。
「最初の夜を、覚えているか」
ヴィンセントが問う。
「忘れたいほど、覚えている」
「今夜は──」
「今夜は、俺が合図を出す」
レイモンドは卓の鍵を取り上げ、扉のほうへ歩く。
鍵穴に差し込まず、掌に戻し、ゆっくりと卓へ置いた。
金属が静かに触れ、音はほとんどしない。
「開いている。いつでも。……お願いだ」
言葉を渡すと、琥珀の瞳がわずかに揺れた。強い男は、たやすく狼狽しない。ただ、受け取るのが上手い。
唇が重なる。
合図は短く、確かで、甘い。
夜は深まり、扉はひとりでに静かに閉まる。
その先を言葉にすれば、粗野になる。
言葉にしないことで、夜は深く沈む。
鎖は鳴らない。耳の奥で、合奏だけが続いた。
* * *
数日後。
王都の喧騒は、婚礼の準備で忙しくなった。
レイモンドは王国軍参謀として正式に名を記され、封蝋の下に新しい印を与えられる。ブラックウッドの名は記録から薄れ、彼個人の才が機能として登録される。
廊下で王太子とすれ違うと、殿下は短く言った。
「貴方は──。ありがとう」
レイモンドは礼を返し、「秩序のために」とだけ答える。
修道院へ向かう馬車の車輪が、遠い石畳を静かに叩く音が聞こえる気がした。
情はある。最低限の。
それでも、手放すことと、見送ることの違いを、彼はもう理解していた。
* * *
夕暮れ。
館の庭で、剣の練習をする若者たちの足取りは軽く、笑い声は高い。
レイモンドは柵に手を置き、風の向きを読む。
「参謀殿!」
若い騎士が駆け寄ってくる。
「嘘は一つで足りる、あの言葉、覚えてます」
「……ならいい、忘れるな」
「はい!」
背中で、白銀の気配。
「お前がここにいると、呼吸が深い」
「観察だな」
「観察だ」
並んで歩き、廊下を抜け、扉の前で立ち止まる。
鍵は“ある”。
レイモンドは掌で転がし、笑う。
「重さは──ちょうどいい」
「なら、持て」
「預ける。……お願いだ。隣で」
「隣で」
扉が開き、夜がやわらかく顔を出す。
刃は鈍り、鞘を知り、蜜を知った。
それでも刃だ。
抜くときも、収めるときも、もう一人の呼吸と合わせることを覚えた刃。
琥珀と銀は寄り添い、終焉という名の夜を抱いて、静かに、確かに、始まりへ歩き出した。
──────
第一幕、完。
次巻へ続きます。
ご感想頂けますと励みになります。
石畳は湿り、早朝の荷車は軋みを飲み込み、門番の槍の先で薄い霧がほどける。館の上階の窓から見下ろすと、王宮へ向かう道が一本、細い光になってのびていた。
レイモンドは襟を正し、机の上の文書に最終の印をつける。供給路の再編、関所の増員、税の繰り延べ──秩序の言葉。
昨夜乾かした封書は、角までまっすぐだ。震えた線は一本もない。
「行くぞ」
背で声がして、振り向く。白銀の髪は高く束ねられ、琥珀の瞳には戦場の温度が帯びている。
ヴィンセントは手袋の口を指で整え、短くうなずいた。
「隣で」
「隣で」
馬車はうなることもなく、王宮の坂を上っていく。
扉が開くと、玉座の間の空気が喉に冷たく触れた。
上段の椅子で王が静かに息をし、王太子がその横に控える。左右に並ぶ貴族たちは、朝の光を防具のようにまとい、誰もが自分の影を踏まないよう気をつけている。
「ブラックウッド家の件、裁可を問う」
王の声は、氷の川の音に似ていた。
レイモンドは一歩進み、礼をとる。膝は折らない。
「陛下。まずは王都周辺の供給路について──」
開いた図の上に、指が迷いなく置かれる。橋梁、野営地、倉庫、税の偏り。言葉は感情を削り、数字と位置で固くなる。
王は途中で遮らない。王太子は前屈みになり、書記は砂を落として乾きを急がせる。
「……以上です」
レイモンドは地図を閉じ、視線を上げた。
「家門の断罪は、制度としては可能です。ですが、秩序の観点からは骨を抜くに等しい。落とすなら個を。救うなら機能を。──陛下の御裁断を」
静寂。
王は椅子肘に置いた指先を一度鳴らし、視線を王太子へ向けた。
「汝の望みは」
王太子は迷いなく言う。
「リーシャを娶りたい」
列の端で、少女は静かに頭を垂れた。昨日よりも澄んだ瞳だ。覚悟という言葉が、年若い肩に無理なく馴染んでいる。
人々の視線が、対照的にもう一人の名を思い起こす。リディアナ──姿はない。呼ばれなかった。
「ブラックウッド家は」
王が視線を戻す。
「慢心により秩序を乱した。──だが、才は国の財である」
まっすぐにレイモンドを射抜いてくる。
「一族は国外へ。爵位は剥ぐ。家産は没収。だがお前の才は、王国の下に置く」
通達の言葉は刃だ。だが、切断面は思ったほど鋭くない。
「監督者を指定する」
王が腕をわずかに上げた。
白銀の影が剥がれ、前へ進む。
「王国騎士団副団長、ヴィンセント・グレイヴェル」
琥珀の眼が光の筋を渡り、受ける言葉は短い。
「拝命致します」
ざわめきが起きる前に、そのざわめきを断ち切る別の声。
「進言いたします、陛下」
ヴィンセントはすぐに言葉を継ぎ、視線を横へ流した。
「当件の背景に、下位貴族による扇動がございます。証言は割れていますが、火種がブラックウッド家だけにあるとは言い難い。秩序をただすという名目のもと、監察の範囲を王都全域に拡げるべきです」
即ち──断罪は見せしめであってはならない、という主張。
王の眉が、わずかに動いた。
「理由は」
「王都の胃袋を守ること。飢えは忠誠を削る。余計な燃料は取り除く」
王太子が小さくうなずく。
人々の目は、断罪の快楽から徐々に離れ、現実の数字へ戻っていく。
王は椅子肘を再び鳴らした。
「よかろう。監察の範囲を拡大し、報告を待つ」
そして、簡潔に告げる。
「本件の処置は、以上だ」
レイモンドは胸の奥で短く息を吐いた。
名は落ちた。だが、落ちきらない。
王太子の視線がこちらへ向かい、微かに頷いた。そこに私的な情はない。あるのは王侯に特有の、冷ややかな感謝──人を赦すのではなく、機能を認める仕草。
彼はそれで十分だと思った。
列が解け、扉が開く。
退室の流れに身をのせたところで、横から短い囁き。
「よくやった」
ヴィンセントの声だ。
「助けられたのは、私の方だ」
「俺は助けてない。──使っただけだ、お前を」
「なら、使え。使い切れ」
言い合いは、互いの歩調を崩さないまま終わる。
回廊の冷たい光が、二人の影を重ね、離し、また重ねる。
階段を降り切る前、レイモンドはふと立ち止まり、背後を振り返った。
歴代の王の肖像はどれも似た表情で、違いは冠の意匠と眼の彫りの深さにしかない。
誇りを折られた場所に、もう一度、自分の足で来た。
その事実が、胸骨の裏側で温度を持った。
* * *
昼下がりの館は、静かだった。
文書が一山分、机に積まれている。騎士団の補給路と、王都の税。レイモンドはペンを取り、事務を暴力のような速度で片づける。
窓際の光が紙の角をあぶり、インクの黒に薄い青が混ざる。
背後で衣擦れの音。
「眠れ」
「命令口調はやめろ」
「お願いだ」
彼はペン先を乾かし、封蝋の印に唇をあてる。
「……終わった」
くる、と椅子を回すと、白銀の男が立っていた。
朝の緊張は消え、戦場の温度も収まり、残っているのは──待つ気配。
強い男の、待てる気配。
「鎖はないのか」
レイモンドが言う。
「要るか」
「要らない」
鍵は卓の端に“ある”。小さな金属が陽を吸い、光らない。
「返せ、と言われたら返すつもりだったが」
「返すな」
ヴィンセントは近づき、息の距離まで来て、それ以上を詰めない。
「いいのか、……俺が持ってて」
「重さが変わった」
「重いか」
「軽い。……信に似ている」
指が頬に触れる。押しつけではない。角度を決める触れ方。
レイモンドは躊躇の一拍を置き、それから自分から顎を上げる。
「『拒むなら今だ』は」
「言わない。──『選ぶなら今だ』だ」
唇が触れ、離れ、また触れる。
昨夜より静かで、昨夜より深い。
重さはゆっくりと増し、呼吸は自然に揃い、部屋の音は紙の上で眠る。
扉は閉じられ、鍵は“ある”。
鎖は鳴らない。だが、耳の奥で、もうあの微かな金属音は合図ではなく、合奏になっていた。
* * *
夕刻、王宮から急使が再び来た。
簡潔な文言──王太子の婚儀、来月半ば。リーシャ・グレイヴェルを正妃に迎える。
誰も驚かない知らせ。それでも、王都はしばらく騒がしいだろう。
ヴィンセントは書状を卓に置き、ぽつりと言った。
「お前の妹は」
「修道院へ送る。父が決めた」
「情は」
「ある。最低限の。──それで十分だ」
短い沈黙が、夕暮れの色を濃くする。
レイモンドは窓へ歩き、指で布の褶を整えた。
整えるという名の支配は、いまや怖くない。誰の手が通ったかを知り、通すことを許すための作法だ。
背で衣擦れ。
「お前は──」
ヴィンセントの声がやわらかくなる。
「……幸せか」
思いもよらない問い。レイモンドは振り返らずに答える。
「まだ測っている。だが、不幸ではない」
白銀の男は笑い、近づく。
「傲慢な答えだ」
「貴方が教えた」
「いつ」
「『捨てずに使う』、と言った夜」
その時、遠くで鐘が鳴った。
王都は日を畳み、夜の布を広げる。
灯がひとつ、またひとつ点り、館の廊下に金の小さな島が生まれた。
「最初の夜を、覚えているか」
ヴィンセントが問う。
「忘れたいほど、覚えている」
「今夜は──」
「今夜は、俺が合図を出す」
レイモンドは卓の鍵を取り上げ、扉のほうへ歩く。
鍵穴に差し込まず、掌に戻し、ゆっくりと卓へ置いた。
金属が静かに触れ、音はほとんどしない。
「開いている。いつでも。……お願いだ」
言葉を渡すと、琥珀の瞳がわずかに揺れた。強い男は、たやすく狼狽しない。ただ、受け取るのが上手い。
唇が重なる。
合図は短く、確かで、甘い。
夜は深まり、扉はひとりでに静かに閉まる。
その先を言葉にすれば、粗野になる。
言葉にしないことで、夜は深く沈む。
鎖は鳴らない。耳の奥で、合奏だけが続いた。
* * *
数日後。
王都の喧騒は、婚礼の準備で忙しくなった。
レイモンドは王国軍参謀として正式に名を記され、封蝋の下に新しい印を与えられる。ブラックウッドの名は記録から薄れ、彼個人の才が機能として登録される。
廊下で王太子とすれ違うと、殿下は短く言った。
「貴方は──。ありがとう」
レイモンドは礼を返し、「秩序のために」とだけ答える。
修道院へ向かう馬車の車輪が、遠い石畳を静かに叩く音が聞こえる気がした。
情はある。最低限の。
それでも、手放すことと、見送ることの違いを、彼はもう理解していた。
* * *
夕暮れ。
館の庭で、剣の練習をする若者たちの足取りは軽く、笑い声は高い。
レイモンドは柵に手を置き、風の向きを読む。
「参謀殿!」
若い騎士が駆け寄ってくる。
「嘘は一つで足りる、あの言葉、覚えてます」
「……ならいい、忘れるな」
「はい!」
背中で、白銀の気配。
「お前がここにいると、呼吸が深い」
「観察だな」
「観察だ」
並んで歩き、廊下を抜け、扉の前で立ち止まる。
鍵は“ある”。
レイモンドは掌で転がし、笑う。
「重さは──ちょうどいい」
「なら、持て」
「預ける。……お願いだ。隣で」
「隣で」
扉が開き、夜がやわらかく顔を出す。
刃は鈍り、鞘を知り、蜜を知った。
それでも刃だ。
抜くときも、収めるときも、もう一人の呼吸と合わせることを覚えた刃。
琥珀と銀は寄り添い、終焉という名の夜を抱いて、静かに、確かに、始まりへ歩き出した。
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第一幕、完。
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