悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第2巻 - 支配の鎖と激情の炎

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1. 焦げた鉄、熱を帯びる眼差し

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 ────王国軍、王都直属騎士団。野営地。

 風は灰と血の匂いを抱いて谷を渡り、天幕の列をかすめていった。夜の雲は低い。焚き火の赤が上下に脈打ち、剣の刃を一瞬だけ白く煌めかせては、すぐ煤色の闇へ沈める。野営地は眠らない。革と鉄の軋み、鍋の息、警戒の合図を交わす笛の短い音──戦はまだ終わっていない。

 指揮幕の卓上に広げられた羊皮紙を、銀の眼が静かになぞる。レイモンド・ブラックウッドは墨の黒で刻まれた谷筋を追い、駒をひとつずつ正した。細い指先にはインクが染み、灯に照らされて鈍く光る。

「副団長殿。右翼の補給路、夜明け前に薄くなります。──遊軍は半拍遅らせ、敵が噛みに来た瞬間に尾根筋で挟む。正面は力を見せるだけでいい」

 落ち着いた声は、焚き火のはぜる音よりも静かに遠くへ届く。

 白銀の長髪が灯を縁取って揺れた。王国騎士団副団長、ヴィンセント・グレイヴェルが卓へ影を落とし、短く頷く。

「把握した。……全体、準備を緩めるな」

 鋼のような低い声に、控えていた若い兵が散っていく。命令は簡潔で美しい。レイモンドは駒を指先で弾き、印の位置をわずかにずらした。

「私の誤差は、貴方の剣で埋めてもらう」
「口が減らん」

 ヴィンセントは口の端だけで笑い、視線を地図から横顔へ移した。琥珀の瞳には、戦で磨かれた獣の勘と、ひとりの男の執着が並んで宿っている。

「他を見てくる、待っていろ」

 一言を残し、名残惜しそうに視線を交わして天幕を渡り歩いた。副団長としての監督責任を全うしようとしている。
 幕口が小さく揺れ、此度の遠征から何かと関わってくる人物が見えた。

「はは、ブラックウッド卿。参謀殿。今夜も張り詰めてますね」

 蜂蜜色の短髪、真紅の眼。アルベリック・ヴァーミリオンが、軽い足取りで中へ入る。崩した敬語は柔らかく耳に触れながら、衣の内側へ指を差し入れるような馴れ馴れしさを隠さない。

「持ち場は」

 レイモンドは視線を落としたまま問う。

「回ってますよ。うちの連中、参謀殿の“半拍遅れ”、好きなんです。現場だと癖になりますね」

 アルベリックの真紅が、白い指から袖口へ、喉の白へ、そして横顔へ──遠慮のない角度で滑っていく。

「指、汚れてます。きれいな手なのに、もったいない」
「賛辞は要らん。指示にだけ従え」
「もちろん。……倒れないでくださいね。参謀殿の代わりは、他にいないんですから」

 言葉は従順だが、眼は従順でない。去り際の視線が焚き火の熱より濃く皮膚に貼り付き、幕の外へ連れ去られた。

 角笛が二度、夜を裂いた。偵察は戻り、小競り合いは薄闇の中で収束する。報告書を束ねて印を押すと、指先に遅れて疲労が疼いた。

「──終わったか」

 布が吸うように音を立てる。ヴィンセントが入ってきた。外の灯が肩口に縁取りを吊し、彼の影を長く落とした。

「副団長殿。報告は──」
「あとでいい。立て」

 ただ一語。身体が自然と従う。幕外には兵がいる。だから、彼は呼ぶ。

「……副団長殿」

 ヴィンセントは入口の布を落とし、外の火と足音を遠ざけた。焚き火の低い呼吸だけが天幕に満ちる。

「今は俺だけだ。──呼べ」
 喉の奥で相手の印がゆっくり形を取り、唇から零れる。
「……ヴィンセント」

 胸の緊張が、鎧が外れるみたいに音もなくほどけていく。大きな手が頬へ降り、黒髪を指で掬った。呼気が触れ、琥珀が深く沈む。

「休め。命令だ」
「相変わらず命令ばかりだな」
「従っているのが、お前には似合う」

 短い応酬は刃先より甘く、熱を孕んでいる。唇が触れ、確認の軽さが一拍、次いで深く。息が奪われ、舌が絡む。熱が喉の奥へ落ち、理性の縁がほどける。

「……っ、ヴィンセント」

 呼びかけは湿った息にほどけ、背へ回った腕の圧がやわらかく強まる。逃げないと知っている抱き方──それがいちばん抗い難いことを、レイモンドは知っていた。
 耳の裏をかすめる指が、戦場で固くなった神経を解していく。自分の内側で、警戒と渇望が同じ重さで揺れる。

(私が、こんな……)

 自嘲めいた内声は、再度の唇で塞がれた。

 どれほどの呼吸が過ぎたのか。熱は過剰にしない。明日がある。だが、終わり際に舌が掠め、膝裏から力が抜ける。思わず肩に指が食い込む。

「……っヴィンス」
 反射的に零れた音に、ヴィンセントの腕がきつくなる。

「いい呼び方だ」
「……忘れろ」
「無理だ。俺は欲深い」
「…………はぁ、知っている」

 言葉と呼吸が重なって、夜はふたたび静まる。
 ──そのとき、外で小さな気配が止まった。針の目ほどの隙間に、焚き火の赤が一滴、揺れる。


 * * *


 巡回の足は、音を吸った地面の上を滑る。隊長格のアルベリック・ヴァーミリオンは、夜目に慣れた真紅で天幕の縫い目を測り、布越しの影を掬い上げた。
 肩の線が重なる。沈んで、浮かんで、また沈む。深い口づけ。耳ではなく皮膚がそれを聞く。

「……へえ」

 吐息に混じる呟き。羨望は薄い。嫉妬は、ほとんどない。
 あるのは、汚したいという衝動の冷たく甘い輪郭。

(──レイモンド・ブラックウッド)

 心の中で名を呼ぶ。音の形が舌に心地よい。崩した敬語で耳元に落としたら、銀の眼はどれだけの秒で曇るだろう。
 鍵を持っているのはヴィンセント──副団長殿だ。だが、鍵穴の在処を知ってしまえば、別の鍵を作れない道理はない。
 拾った宝の重さを悟られぬよう、若い士官は夜気の匂いに紛れた。


 * * *


 口づけがほどけると、天幕の静けさだけが残った。レイモンドは額を寄せ、荒い息を整える。指先は外套の襟を掴んだまま離れない。

「寝ろ」
「……命令ばかりだな」
「好きだろう、参謀殿は」

 喉の奥で笑う気配。夜は二人だけの器だ。「副団長殿」はいない。

「ヴィンセント。さっき……外に気配が」
「気づいてる。もう行った」
「誰だ」
「確かめる必要はない」

 断言で、胸のざわめきが静まる。戦場でも夜でも、委ねられる箇所は確かにある。指が髪の生え際を撫で、皮膚の薄い場所に荒れた感触が触れる。心臓が跳ねる。

「──私をここへ連れてきたのは、貴方だ」
「俺だ」
「なら、責任を取れ」
「毎晩取ってる」

 子供じみた拗ねを見透かされるのが悔しい。だが、この笑いに包まれると、戦場のざらつきが薄皮一枚、遠のくのもまた事実だった。

 外で当直の笛が鳴り、交代が告げられる。焚き火はひとつ潰れ、別の火が息を吹き返す。

「……朝までいるつもりか、副団長殿」
「俺は夜明けが嫌いだ。お前から熱が抜けるからな」
「詩人みたいなことを言う」
「事実を言っただけだ」

 軽く触れる最後の口づけ。熱は浅く長い。目を閉じると、眠りの縁が指先に触れた。


 * * *


 薄明が湿った布の上辺を白く縁取る。炊爐に火が入り、鍋の息が上がる。兵の足音が増え、野営地が再び“動く場所”に戻っていく。
 レイモンドは目を開け、浅い睡眠の切れ端を手放した。外套の内側に残る温度はまだ消えていない。冷水で手を洗うと、指の節に残ったインクの黒が皮膚の皺に薄く沈んでいた。

「……汚れはすぐ残る」

 小さく呟き、手巾で拭う。布へ移った痕は、簡単には落ちない。
 幕を押す。朝の匂い。湿った革、火の息、煮出した葉の苦い湯気。
 そこで、まっすぐこちらを見る赤があった。アルベリック・ヴァーミリオン。真紅の眼が一瞬だけ細くなり、崩した敬語が笑みの形を作る。

「おはようございます、参謀殿。靴、替えた方がいいですよ。泥が乾く前に」
「助言に感謝する。持ち場へ戻れ」
「戻りますよ。──昨夜は、よく眠れました?」

 刃の背で撫でるみたいな口調。
 レイモンドはまばたきを一度だけし、冷徹さをそのまま返す。

「朝の口は戦場に持っていけ。言葉は刃だ」
「心得てます。……参謀殿の刃は、とくに綺麗ですから」

 赤はそれ以上踏み込まず、踵を返した。去っていこうとした背を、別の色が横切る。

「アルベリック」

 ヴィンセントが名を呼ぶ。低い、石を転がすような音だ。

「報告を上げろ。余計な物見は減点だ」
「承知しました、副団長殿」

 恭しく一礼し、アルベリックは軽い足取りで列へ戻る。息が交錯した一瞬、三人のあいだを見えない刃が静かにすり抜けた。
 朝の光はまだ弱い。戦は終わっていない。
 レイモンドは外套の襟を正し、地図卓へ戻った。

「私の策を、もう一度洗う。──副団長殿、十刻で伝令を」
「わかった。俺は前を掃除する」

 短い言葉が結ばれ、野営の呼吸が加速する。焚き火の灰は微かに白く、昨夜の熱をまだ宿していた。幕の端で揺れた小さな乱れは、もうどこにもない。
 だが、見られたという事実だけが、薄い針のように皮膚の下に残る。

 焦げた鉄の匂いは、今日も風に混じっている。銀と琥珀と真紅は、互いの境界を測り直しながら、同じ戦場へ向かった。
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