悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第2巻 - 支配の鎖と激情の炎

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3. 嫉妬は湯煙に宿り、夜を裂く

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 行軍は薄明の谷を抜け、鉄と草の匂いが風に絡みついていた。白銀の髪が先頭で朝の光を裂き、その背を追う列のなか、黒衣の青年は布に図を起こし続ける。レイモンド・ブラックウッド。
 昼の最初の合図を放った瞬間から、横顔に刺さっている視線がある。蜂蜜色の短髪、真紅の瞳──アルベリック・ヴァーミリオン。礼節の角度を保ちながら、礼の外側を熟知している眼だ。

(面子は乱せない。視線ひとつで呼吸が荒れる。……このまま引き延ばせば、行軍に支障が出る)

 一呼吸、息がこぼれる。

(なら──仕方ない)

 夕刻、野営地が組み上がる。鍋が小さく吐息をつき、幕舎の継ぎ目を風が撫でる。兵らは粗食を終え、武具を拭い、順番に湯屋へ消えていった。レイモンドは卓上の印に薄紙を重ねて明朝の駒を確かめ、喉の奥で半拍を刻むと、自身も湯へ向かった。

 板と石で拵えられた小屋は、薬草の香と蒸気で満ちている。湯へ肩まで沈むと、背骨の芯にぬるい重さが落ち、耳の裏で一日分の喧噪が崩れていく。湯気は灯りを柔らかく砕き、視界の輪郭を甘く滲ませた。
 ──からり、と紐の音。音の殺し方を心得た足取り。

「参謀殿。失礼します」

 蜂蜜色の前髪が灯りの芯で淡く光る。アルベリックは湯縁に膝をつき、口元だけを穏やかに曲げた。若い声が、崩した敬語のまま落ちてくる。

「戦場続きじゃ、体が固まってるでしょう。俺に任せてください」
「持ち場はどうした、ヴァーミリオン卿」
「交代済みっす。参謀殿まで潰れたら戦が傾く。俺は立ちます。だから今夜は、ちゃんと温まってください」

 彼の影が湯面に落ちる。布など既にないのに、指先が首筋をなぞっただけで、喉を縛っていた見えない結び目がほどけるように息が胸の奥へ滑り込んだ。思わず肩を引く。水滴が鎖骨の陰で震える。

「退け」
「退きません」

 真紅の眼が礼の角度でこちらを射抜き、熱だけを隠さない。昼から続く視線。放っておけば波が立ち、誰かの眼に触れれば呼吸が乱れる。レイモンドは短く息を吐き、背中のどこかを固くした。

「……仕方ない。いい」

 短い承諾が湯気の白へ落ちる。アルベリックの目が、隠せない色で瞬いた。

「──ありがとう、参謀殿」

 距離が消える。湯面の光が天井を撫で、灯の芯がふっと細くなる。肩を支える掌は重くはないのに、退路だけは確かに塞がれていく。首筋を辿る温度が波紋のように広がり、呼吸の拍へ別の拍が重なった。

「っん゙、」

 体内の圧から押し出される様に声が漏れる。慌てて口を抑えたが既に遅い。紅い瞳孔は炎の如く縮まり、その中には支配と自虐の色が揺れていた。

「首、力抜いてください」
「命じるな……っ」
「お願いしてます。……そう、いいですね」

 石壁の呼吸が背の線を覚え、湯が小さく跳ねて間を埋める。布はなくとも、息の結びと緊張はほどけ、また結び直される。体勢は何度も改められ、肩の角度が変わるたび、別の筋がほどけ、別の筋が目を覚ました。灯は一度芯を整え、薬草の匂いが甘く揺らぐ。

「……っ、や」

 拒絶は息に呑まれ、喉の奥でかたちを変える。押し返したはずの熱が、指の隙間からするりと入り込み、骨ばった足場を外していく。

「参謀殿。たしかに仰いましたよね、“仕方ない”。なら、遠慮は要りません」
「言葉を……ねじ曲げるな……っ、ん゛……」

 喉の見えない結びが緩むたび、声が零れる。知らない高さ、知らない震え。頬の熱より先に、肩甲骨の高い位置で小さな火が灯ったように疼く。触れれば消えそうで、触れない限り消えない、淡い熱。

「ぁ……ッ、ん゛……」

 湯面がさざめき、天井の反射が崩れる。呼吸を数え直しても拍は乱れ、数の間に別の数が紛れ込む。

「大丈夫っす。参謀殿が“いい”と仰った。俺は従ってる」
「従う顔で……奪うな……っ、あ゛……っ」

 布の代わりに肌そのものが、印を受け取る紙になる。肩の高い縁、腰の奥、太腿の内側──自分の目では決して届かない影に淡い熱が置かれていく。湯屋の木が息を吸うように軋み、灯は二度目の芯を整えた。

「その声、俺しか知らないままでいたいっすね」
「黙れ……っ、ヴァーミリオン卿……黙って……やれ……っ」
「了解」

 丁寧な語が、いやに乱暴だ。喉の結びがすっかり解け、息が鎖から解き放たれるのに、逆に呼吸は熱で絡まる。レイモンドは石の節を指の足場に、崩れた拍を繋ぎとめる。けれど、背の高い位置にもうひとつ火が灯り、太腿の奥で別の火が応える。

「……っ、ん゛……っ、あ゛……っ」

 濁点ばかりの断片が蒸気に混じり、石に吸われる。理屈は遠のき、言葉が失った座席を、息と熱が占領した。視界は柔らかく霞み、灯の周りだけが輪郭を保っている。

「参謀殿は、明日のために今夜をくれる。俺は、ちゃんと立ちます」
「……明日を、狂わせるな」
「承知」

 香はいったん薄れ、また甘く戻る。どれほど時間が流れたのか、灯はもう一度芯を整えた。湯の温もりが透明になり、代わりに見えない場所の印だけが自己主張を始める。やがて指に力が戻る頃には、膝が笑い、肩で息をしていた。アルベリックは布を持ってきて、濡れた髪を軽く拭い、「喉の結び」を──布ではなく呼吸の高さで──“息の通る位置”へ整えるように胸元へ手を添えた。

「冷えます。上がりましょう、参謀殿」

 湯屋を出ると、裾の内側へ冷たい風が差し込み、肌のどこかがひりつく。見ようとしても見えない──肩の上、腿の奥。衣を纏えば、縫い目がそこだけ異なる重みを伝えた。指で確かめる代わりに、レイモンドは布を握りしめる。

(仕方ない、と言ったのは私だ)

 静かな自己の声とは裏腹に、胸の底には波が残る。淡い印はそこで呼吸を続けた。たぶん朝になっても、少しは──。


 * * *


 霜柱が靴の下で割れ、鍋は細い息を吐く。幕舎の卓でレイモンドは印を置き、駒を送った。肩の高い位置に衣の折り目が触れて合図し、太腿の内側は歩幅に合わせて微かに抗議する。
 幕の紐が静かに鳴る。銀糸の髪が煤色の朝に光り、琥珀の眼──ヴィンセント・グレイヴェルが入ってきた。

「ブラックウッド卿」
「副団長殿」

 彼は問いを置かず、まず指先を襟元へ。布の結びではなく、呼吸の高さを正すために、軽く前を緩める。

「ここが少し高い」
「……ああ」

 胸郭がひらく。秩序の体温。手袋を外した指が肩の高い縁をかすめ──そこで留まった。爪先ほどの圧。皮膚の下で、昨夜の熱が名を取り戻す。琥珀の色が、ごくわずかに硬くなる。

「それは、誰の印だ」

 怒鳴らない。声は低く、幕舎の空気だけが刃の密度を帯びる。レイモンドは答えず、視線を地図へ落とした。

「夜に来い」

 短い命が、卓の木目に沈む。頷きだけが返事になる。

 号令が丘陵に跳ね返り、列が動き出した。ヴィンセントが前を、レイモンドが後ろを切る。斜め後ろで蜂蜜色が一度、風に揺れた。真紅の視線は礼の角度でこちらをかすめ、すぐに逸れる。読ませない目。レイモンドは見返さない。

(私の線は、崩さない)

 朝の光は冷たく、図の上では澄み渡っている。淡い印はなお、背の高い位置で息をひそめ──やがて別の熱に、別の名で上書きされることを予感させた。


 * * *


 薄暮。野営の端で風が鳴り、幕舎の継ぎ目に冷気が忍び込む。戻ろうとしたレイモンドの背に、丁寧すぎる声が落ちた。

「参謀殿。ご機嫌は如何です?」

 アルベリック。距離は保ち、崩した敬語のまま。

「戦支度、整ってます。俺は立ちます。参謀殿の半拍、狂わせない」
「なら立て。命令だ」
「承知しました。……昨夜のお言葉、俺は忘れません。“仕方ない”、って」

 風が意味だけを残す。返す言葉はどれも違う場所へ落ちる。レイモンドは幕舎に入ると、灯の芯を短く整えた。嫉妬という名の火は芯の奥で別の色を帯び、夜の輪郭を取り戻していく。

 合意は紙、運用は注釈。注釈を書いたのは真紅の眼の若い騎士。だが、別の手で上書きされる夜がもう近い。
 レイモンドは襟元に触れ、喉の見えない結びを息の通る高さに結び直す。秩序の手の記憶と、昨夜の熱の記憶が、同じ胸のうちで互いの位置を争っていた。

(終わらせない──崩さない)

 朝はまた来る。戦場もまた開く。
 そのすべての上で、彼は自分の線を引き続ける。見える場所ではなく、見えない場所で──いずれあの男ヴィンセントに見つけられることを知りながら。
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