悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第2巻 - 支配の鎖と激情の炎

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2. 灰の朝、紅が触れる

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 夜の灰はまだ冷えきらず、草葉の先で霜のように鈍く光っていた。野営地の列は早朝の笛でゆっくりと脈動を始め、鎧の留め具が規則的に鳴る。鍛冶台の火は青い息を吐き、鞍に手綱が通されてゆく。
 レイモンドは小型の盤面を折りたたみ、伝令に指示札を渡す。補給の駄列は谷の陰を沿わせ、歩速は半拍遅らせる。乾かぬ泥は音を飲み、追撃の矢面を切らせない──計算は整っていた。整っていても、朝の風は些細な誤差を連れてくる。

「副団長殿。丘陵の陰に偵察をもう一枚。──帰りの風が強まる」

 白銀の長髪が朝の薄光を割った。ヴィンセントは短く頷き、琥珀の眼で風向きを一瞥する。

「了解した。斥候、二。戻りの刻を詰めろ」

 命令が走ると、列の呼吸が揃う。レイモンドは胸の内側で小さく頷いた。

(私の線は、今日も切れない)

 そのとき、馬の影が脇につく。蜂蜜色の短髪、真紅の眼。アルベリック・ヴァーミリオンが手綱を短く持ち、馬体を並べた。

「参謀殿。視界、悪くはないですが、小川は陽が上がる前に渡った方がいいですね。石が温むと鳴きます」
「──報告に書け。口は残らない」
「書きますよ。……それ、手袋、縫い目が甘くなってる」

 彼は鞍上から身を傾け、レイモンドの左手を視線で指した。次の瞬間、手綱を放した指がすっと伸び、手袋の縁を軽く払う。手袋越しの接触──礼の範囲に収まる、はずの所作。けれど指先は余計な長さをもって留まった。

「離せ」
「失礼。──参謀殿の手、きれいだから。汚れ、目立つんですよね」
「自分の装備を見ろ。落馬は戦果を腐らせる」
「心得てます」

 素直に返し、彼は馬体を半身だけ引いて列の外側へ戻る。言葉は礼を踏み、目だけが侵入のやり方を知っている。


 * * *


 昼下がり。訓練場では木剣の音が乾いた空に跳ね、汗に鉄の匂いが混ざる。アルベリックが若い騎士の相手をしていた。短剣を左右に持ち替え、足裏の重心を滑らせる。剣筋は整い、呼吸は長い。
 レイモンドは柵越しに一度だけ見て、簡潔に言う。

「ヴァーミリオン卿。二番手の反転が早い。二呼吸、溜めろ。左の死角が空く」
「参謀殿、見てくれてたんですね。うれしい。──二呼吸、ですね」

 アルベリックは剣先を落とし、掌を見せる仕草で応えた。その手がまっすぐ柵を越え、レイモンドの外套の肩口に伸びる。

「泥、付いてます」

 指が外套を軽くはたく。布越しの振動だけのはずが、肩甲骨の際に熱が残る。

「二度はするな」
「了解。──参謀殿の背中、張ってますね。戦の前だから、でしょうけど」
「私の背を測るな。自分の間合いを測れ」
「はは。了解」

 笑う声は軽いのに、真紅の虹彩は刃の背のように滑らかに光った。


 * * *


 午後。天幕の内は薄暗く、羊皮紙の縁が湿気でわずかに波打つ。レイモンドは地図の下に板を差し込み、印の位置を微調整する。指先に染みたインクは落ちにくい。
 幕が擦れ、アルベリックが腰を折って入ってきた。

「参謀殿。補給路の泥、明朝はもっと粘ります。脚軽の靴、今夜のうちに替えさせます?」
「替えろ。兵站に回せ。──以上か」
「もう一件。……これ、天幕の切れ目。縫いますよ」

 彼は針と糸を取り出し、裂け目を指で摘んで見せる。裁縫は侍女の領分──だが遠征では手の早い者が勝つ。

「頼む。縫い目は狭く」
「承知。──手、貸してもらえます?」

 布を押さえるための短い接触。レイモンドが片手で裂け目を支えると、アルベリックの指が上から重なった。手袋越し──なのに、熱だけ素肌で受けたみたいに残る。

「きれいな手ですね、参謀殿。骨の並びが真っ直ぐで」
「針に集中しろ」
「はい」

 針は狭く、均等に走り、最後の結び目を歯で切る音が小さく鳴る。布の端が整い、役目を終えた彼の指が離れかけ――そこで、わざと遅れる。

「……糸、絡んでます」

 低い声で言いながら、絡まってなどいない糸をほどくふりをして、レイモンドの手首の外側をなぞる。手袋の縁のわずかな段差に、指腹が沈む。

「許可を得ていない」
「失礼」

 謝辞は速いが、紅の瞳は謝っていない。アルベリックは針を布に刺し、礼だけ残して去った。触れた場所に、厄介な残像が残る。

(……不快、だな)

 言葉にはしない。代わりに、板で地図を押さえる指に力を加えた。紙は沈黙し、指の震えを吸い取る。


 * * *


 医務幕。包帯の消費は戦況を語り、匂いはさらに語る。鉄と薬草、焼けた布の焦げ。医務官が「明朝まで持つ」と小声で告げ、レイモンドは棚の下段に屈んで数を数えた。足りる。ぎりぎりで。

「参謀殿」

 幕の入口からアルベリックの声。彼は不用意に踏み込まず、紐を指で弄びながら立っていた。

「古い外套、ほどきました。芯に使えます。──参謀殿、手」

 何の前触れもなく差し出される掌。レイモンドは反射的に手を重ねる。
 引き上げられた瞬間、彼の指が手の甲を滑った。手袋越し──だが、薄い皮膚の下で脈が跳ねる。

「礼を尽くせ。引き上げるだけでいい」
「了解。……参謀殿、脈が速い」
「無礼だ」
「失礼」

 口は即座に改まるのに、声は甘い余韻を残す。レイモンドは手を引き、包帯の束を医務官へ渡して背を向けた。
 背後で軽い足音が遠ざかる。遠ざかりながら、ひとことだけこちらへ落ちる。

「──夜風、冷えます。首、冷やさないで」

 それは忠告としては正しい。正しいのに、声は首筋に触れた指の代わりをした。


 * * *


 黄昏。空は曇天のまま低く、焚き火は低い火力で長く息をさせられている。補給が追いついているうちは、熱を贅沢にできない。鍋の湯気は薄く、兵の笑い声も薄い。
 レイモンドは卓の縁を押さえ、印の位置を微調整する。外では当直の交代を告げる笛が二度鳴った。

「ブラックウッド卿」

 琥珀の声。ヴィンセントが幕をくぐる。鎧は外しているが、肩に乗る空気が違う。

「明朝の一撃、お前の線で行く」
「副団長殿。なら、私の半拍は、貴方の剣と同じ方向を斬る」
「当然だ」

 ヴィンセントは卓の端に腰をかけ、レイモンドの手袋の縁を無造作に直した。触れ方は公的で短い。だが、指の圧だけで業務と保護の線が引かれる。

「泥。落とせ」
「今、落としたところだ」

 短く笑い合う。その瞬間、幕の影が斜めに伸び、赤い光が細く卓の上を横切った。
 アルベリックが遠巻きにこちらを見た──ただそれだけ。何も言わない。何もしない。だが視線だけが、刃の背で銀を撫でる。

 ヴィンセントは目だけでそちらを一度だけ測った。言葉はない。言葉がないこと自体が、刃より重い。


 * * *


 夜。鍋の息は細く、火は灰に埋もれている。巡回の足音が交差し、幕の継ぎ目は冷たい。
 レイモンドが天幕の外に出ると、湿った空気が頬を打った。星は少ない。雲は低い。

「参謀殿」

 背後から呼びかける声は低いが、どこか明るい。アルベリックだ。彼は距離を詰めすぎない位置に立ち、崩した敬語をそのまま落とす。

「首、冷えます。──マント、貸します?」
「要らない。自分のものがある」
「じゃあ、こうしておきます」

 言いながら、彼は躊躇なく一歩だけ近づいた。外套の襟を摘み、喉の前でひとつ高く結び直す。指が布越しに喉ぼとけの左右をかすめ、結び目の位置を整える。
 それは丁寧なだけの所作──なのに、布の陰に隠れた皮膚が、指の往復を正確に覚えてしまう。

「……二度はするな」
「了解。寒いのは良くないので」

 彼は外套の肩を軽く叩き、もう一歩引いた。引いたはずなのに、近さだけが残る。

「──参謀殿」

 もう一度呼びかける。呼び名は礼を守る音、声は礼を裏切る温度。

「俺、待ちます。合図があるまで」
「合図は出ない」
「じゃあ、もっと待ちます」

 笑って、彼は夜気へ溶けた。足音はすぐに消える。消えたのに、結び目の位置だけが皮膚の内側へ残る。

(私の策は、変わらない)

 レイモンドは心の中で結び直した。結び目は硬く、解けない。解かせない。


 * * *


 深夜。巡回の交差点。幕と幕の狭い通路を、逆方向から来た影がふいに塞いだ。アルベリックだ。狭い路で避けて通るには、どちらかが身を引くしかない。彼は引かなかった。
 代わりに片腕を持ち上げ、布の継ぎ目に触れた手で通路を支え、レイモンドの肩が布に擦れないよう空間をつくる。狭い路地に二人の呼吸がこもる。

「参謀殿。通るとき、肩が当たります」
「なら、お前が退け」
「退きます。──その前に」

 彼は手袋を外した。薄い指が暗がりで白く見える。

「砂、付いてます。目に入ると厄介ですよ」

 そう言って、指はレイモンドの睫毛の外側へそっと近づいた。触れてはいない。触れてはいないのに、肌が先に震える。
 指は軌道を変え、頬の真横を少しだけ掠め――唇のすぐ、手前で止まった。それ以上は踏まない。踏まないことを選ぶ。だが、止まった場所が、最も危うい。

「──やめろ」
「了解」

 返事は即座で、腕は支えを外す。通路は再び誰のものでもない空間に戻った。レイモンドは足を踏み出す。すれ違う刹那、アルベリックの肩が布を擦り、微かな音だけが残った。


 * * *


 天幕に戻ると、ヴィンセントが既にいた。灯は落とされ、焚き火の残り火だけが低く呼吸している。

「ブラックウッド卿」
「副団長殿」

 公の呼び名は、二人きりでも時に必要だ。彼はそれを解いてから、名を呼ぶ。

「……ヴィンセント」

 琥珀の視線が柔らかく沈む。

「何だ」
「私は──崩れない」
「知っている」

 短い応酬のあと、ヴィンセントはレイモンドの外套の結び目を見た。喉の前で少し高すぎる位置。彼は何も問わない。問わない代わりに、結び目に指をかけて、ほんの少しだけ緩めた。息が楽になる位置に。

「ここだ」
「……ああ」

 それだけ。触れ方は公的で、短い。だが、触れた位置だけが確かに所有の印を帯びる。
 レイモンドは目を閉じ、炎の微かな音を聞いた。

(私を離すな、──ヴィンセント)

 矛盾は夜の底でよく燃える。熱は過剰にしない。明日がある。
 二人は少し離れて座り、同じ方向を見た。外では巡回が融け、遠くで馬が短く鼻を鳴らす。


 * * *


 明け方。雲は低いまま、風は横から吹く。集合の合図が短く鳴り、列は粛々と動き始めた。
 先頭でヴィンセントが剣を肩に担ぎ、振り返らずに言う。

「俺は前を斬る。──お前は後ろで切り結べ」
「承知した。副団長殿」

 レイモンドは列の中央後方へ目を遣る。紅の眼がいるはずの位置。そこに、いた。こちらを見てはいない。見ていないのに、見ている。不思議な角度で。

(来る。必ず。……なら、私も、──待つ)

 戦場では、待てない者から死ぬ。だから、待つ。
 待つこと自体を刃に変え、先に触れてくる手を、戦術の上で殺すために。

 合図は鋭く、丘陵の縁を越えていった。銀の思考は冷えた刃、琥珀の剣は前を裂く火、真紅の視線は、なお線を引く。
 それぞれの色が別々の熱を帯びながら、同じ一点に収束していく──その手触りだけが、朝の湿りよりも確かだった。
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