2 / 13
2. 灰の朝、紅が触れる
しおりを挟む
夜の灰はまだ冷えきらず、草葉の先で霜のように鈍く光っていた。野営地の列は早朝の笛でゆっくりと脈動を始め、鎧の留め具が規則的に鳴る。鍛冶台の火は青い息を吐き、鞍に手綱が通されてゆく。
レイモンドは小型の盤面を折りたたみ、伝令に指示札を渡す。補給の駄列は谷の陰を沿わせ、歩速は半拍遅らせる。乾かぬ泥は音を飲み、追撃の矢面を切らせない──計算は整っていた。整っていても、朝の風は些細な誤差を連れてくる。
「副団長殿。丘陵の陰に偵察をもう一枚。──帰りの風が強まる」
白銀の長髪が朝の薄光を割った。ヴィンセントは短く頷き、琥珀の眼で風向きを一瞥する。
「了解した。斥候、二。戻りの刻を詰めろ」
命令が走ると、列の呼吸が揃う。レイモンドは胸の内側で小さく頷いた。
(私の線は、今日も切れない)
そのとき、馬の影が脇につく。蜂蜜色の短髪、真紅の眼。アルベリック・ヴァーミリオンが手綱を短く持ち、馬体を並べた。
「参謀殿。視界、悪くはないですが、小川は陽が上がる前に渡った方がいいですね。石が温むと鳴きます」
「──報告に書け。口は残らない」
「書きますよ。……それ、手袋、縫い目が甘くなってる」
彼は鞍上から身を傾け、レイモンドの左手を視線で指した。次の瞬間、手綱を放した指がすっと伸び、手袋の縁を軽く払う。手袋越しの接触──礼の範囲に収まる、はずの所作。けれど指先は余計な長さをもって留まった。
「離せ」
「失礼。──参謀殿の手、きれいだから。汚れ、目立つんですよね」
「自分の装備を見ろ。落馬は戦果を腐らせる」
「心得てます」
素直に返し、彼は馬体を半身だけ引いて列の外側へ戻る。言葉は礼を踏み、目だけが侵入のやり方を知っている。
* * *
昼下がり。訓練場では木剣の音が乾いた空に跳ね、汗に鉄の匂いが混ざる。アルベリックが若い騎士の相手をしていた。短剣を左右に持ち替え、足裏の重心を滑らせる。剣筋は整い、呼吸は長い。
レイモンドは柵越しに一度だけ見て、簡潔に言う。
「ヴァーミリオン卿。二番手の反転が早い。二呼吸、溜めろ。左の死角が空く」
「参謀殿、見てくれてたんですね。うれしい。──二呼吸、ですね」
アルベリックは剣先を落とし、掌を見せる仕草で応えた。その手がまっすぐ柵を越え、レイモンドの外套の肩口に伸びる。
「泥、付いてます」
指が外套を軽くはたく。布越しの振動だけのはずが、肩甲骨の際に熱が残る。
「二度はするな」
「了解。──参謀殿の背中、張ってますね。戦の前だから、でしょうけど」
「私の背を測るな。自分の間合いを測れ」
「はは。了解」
笑う声は軽いのに、真紅の虹彩は刃の背のように滑らかに光った。
* * *
午後。天幕の内は薄暗く、羊皮紙の縁が湿気でわずかに波打つ。レイモンドは地図の下に板を差し込み、印の位置を微調整する。指先に染みたインクは落ちにくい。
幕が擦れ、アルベリックが腰を折って入ってきた。
「参謀殿。補給路の泥、明朝はもっと粘ります。脚軽の靴、今夜のうちに替えさせます?」
「替えろ。兵站に回せ。──以上か」
「もう一件。……これ、天幕の切れ目。縫いますよ」
彼は針と糸を取り出し、裂け目を指で摘んで見せる。裁縫は侍女の領分──だが遠征では手の早い者が勝つ。
「頼む。縫い目は狭く」
「承知。──手、貸してもらえます?」
布を押さえるための短い接触。レイモンドが片手で裂け目を支えると、アルベリックの指が上から重なった。手袋越し──なのに、熱だけ素肌で受けたみたいに残る。
「きれいな手ですね、参謀殿。骨の並びが真っ直ぐで」
「針に集中しろ」
「はい」
針は狭く、均等に走り、最後の結び目を歯で切る音が小さく鳴る。布の端が整い、役目を終えた彼の指が離れかけ――そこで、わざと遅れる。
「……糸、絡んでます」
低い声で言いながら、絡まってなどいない糸をほどくふりをして、レイモンドの手首の外側をなぞる。手袋の縁のわずかな段差に、指腹が沈む。
「許可を得ていない」
「失礼」
謝辞は速いが、紅の瞳は謝っていない。アルベリックは針を布に刺し、礼だけ残して去った。触れた場所に、厄介な残像が残る。
(……不快、だな)
言葉にはしない。代わりに、板で地図を押さえる指に力を加えた。紙は沈黙し、指の震えを吸い取る。
* * *
医務幕。包帯の消費は戦況を語り、匂いはさらに語る。鉄と薬草、焼けた布の焦げ。医務官が「明朝まで持つ」と小声で告げ、レイモンドは棚の下段に屈んで数を数えた。足りる。ぎりぎりで。
「参謀殿」
幕の入口からアルベリックの声。彼は不用意に踏み込まず、紐を指で弄びながら立っていた。
「古い外套、ほどきました。芯に使えます。──参謀殿、手」
何の前触れもなく差し出される掌。レイモンドは反射的に手を重ねる。
引き上げられた瞬間、彼の指が手の甲を滑った。手袋越し──だが、薄い皮膚の下で脈が跳ねる。
「礼を尽くせ。引き上げるだけでいい」
「了解。……参謀殿、脈が速い」
「無礼だ」
「失礼」
口は即座に改まるのに、声は甘い余韻を残す。レイモンドは手を引き、包帯の束を医務官へ渡して背を向けた。
背後で軽い足音が遠ざかる。遠ざかりながら、ひとことだけこちらへ落ちる。
「──夜風、冷えます。首、冷やさないで」
それは忠告としては正しい。正しいのに、声は首筋に触れた指の代わりをした。
* * *
黄昏。空は曇天のまま低く、焚き火は低い火力で長く息をさせられている。補給が追いついているうちは、熱を贅沢にできない。鍋の湯気は薄く、兵の笑い声も薄い。
レイモンドは卓の縁を押さえ、印の位置を微調整する。外では当直の交代を告げる笛が二度鳴った。
「ブラックウッド卿」
琥珀の声。ヴィンセントが幕をくぐる。鎧は外しているが、肩に乗る空気が違う。
「明朝の一撃、お前の線で行く」
「副団長殿。なら、私の半拍は、貴方の剣と同じ方向を斬る」
「当然だ」
ヴィンセントは卓の端に腰をかけ、レイモンドの手袋の縁を無造作に直した。触れ方は公的で短い。だが、指の圧だけで業務と保護の線が引かれる。
「泥。落とせ」
「今、落としたところだ」
短く笑い合う。その瞬間、幕の影が斜めに伸び、赤い光が細く卓の上を横切った。
アルベリックが遠巻きにこちらを見た──ただそれだけ。何も言わない。何もしない。だが視線だけが、刃の背で銀を撫でる。
ヴィンセントは目だけでそちらを一度だけ測った。言葉はない。言葉がないこと自体が、刃より重い。
* * *
夜。鍋の息は細く、火は灰に埋もれている。巡回の足音が交差し、幕の継ぎ目は冷たい。
レイモンドが天幕の外に出ると、湿った空気が頬を打った。星は少ない。雲は低い。
「参謀殿」
背後から呼びかける声は低いが、どこか明るい。アルベリックだ。彼は距離を詰めすぎない位置に立ち、崩した敬語をそのまま落とす。
「首、冷えます。──マント、貸します?」
「要らない。自分のものがある」
「じゃあ、こうしておきます」
言いながら、彼は躊躇なく一歩だけ近づいた。外套の襟を摘み、喉の前でひとつ高く結び直す。指が布越しに喉ぼとけの左右をかすめ、結び目の位置を整える。
それは丁寧なだけの所作──なのに、布の陰に隠れた皮膚が、指の往復を正確に覚えてしまう。
「……二度はするな」
「了解。寒いのは良くないので」
彼は外套の肩を軽く叩き、もう一歩引いた。引いたはずなのに、近さだけが残る。
「──参謀殿」
もう一度呼びかける。呼び名は礼を守る音、声は礼を裏切る温度。
「俺、待ちます。合図があるまで」
「合図は出ない」
「じゃあ、もっと待ちます」
笑って、彼は夜気へ溶けた。足音はすぐに消える。消えたのに、結び目の位置だけが皮膚の内側へ残る。
(私の策は、変わらない)
レイモンドは心の中で結び直した。結び目は硬く、解けない。解かせない。
* * *
深夜。巡回の交差点。幕と幕の狭い通路を、逆方向から来た影がふいに塞いだ。アルベリックだ。狭い路で避けて通るには、どちらかが身を引くしかない。彼は引かなかった。
代わりに片腕を持ち上げ、布の継ぎ目に触れた手で通路を支え、レイモンドの肩が布に擦れないよう空間をつくる。狭い路地に二人の呼吸がこもる。
「参謀殿。通るとき、肩が当たります」
「なら、お前が退け」
「退きます。──その前に」
彼は手袋を外した。薄い指が暗がりで白く見える。
「砂、付いてます。目に入ると厄介ですよ」
そう言って、指はレイモンドの睫毛の外側へそっと近づいた。触れてはいない。触れてはいないのに、肌が先に震える。
指は軌道を変え、頬の真横を少しだけ掠め――唇のすぐ、手前で止まった。それ以上は踏まない。踏まないことを選ぶ。だが、止まった場所が、最も危うい。
「──やめろ」
「了解」
返事は即座で、腕は支えを外す。通路は再び誰のものでもない空間に戻った。レイモンドは足を踏み出す。すれ違う刹那、アルベリックの肩が布を擦り、微かな音だけが残った。
* * *
天幕に戻ると、ヴィンセントが既にいた。灯は落とされ、焚き火の残り火だけが低く呼吸している。
「ブラックウッド卿」
「副団長殿」
公の呼び名は、二人きりでも時に必要だ。彼はそれを解いてから、名を呼ぶ。
「……ヴィンセント」
琥珀の視線が柔らかく沈む。
「何だ」
「私は──崩れない」
「知っている」
短い応酬のあと、ヴィンセントはレイモンドの外套の結び目を見た。喉の前で少し高すぎる位置。彼は何も問わない。問わない代わりに、結び目に指をかけて、ほんの少しだけ緩めた。息が楽になる位置に。
「ここだ」
「……ああ」
それだけ。触れ方は公的で、短い。だが、触れた位置だけが確かに所有の印を帯びる。
レイモンドは目を閉じ、炎の微かな音を聞いた。
(私を離すな、──ヴィンセント)
矛盾は夜の底でよく燃える。熱は過剰にしない。明日がある。
二人は少し離れて座り、同じ方向を見た。外では巡回が融け、遠くで馬が短く鼻を鳴らす。
* * *
明け方。雲は低いまま、風は横から吹く。集合の合図が短く鳴り、列は粛々と動き始めた。
先頭でヴィンセントが剣を肩に担ぎ、振り返らずに言う。
「俺は前を斬る。──お前は後ろで切り結べ」
「承知した。副団長殿」
レイモンドは列の中央後方へ目を遣る。紅の眼がいるはずの位置。そこに、いた。こちらを見てはいない。見ていないのに、見ている。不思議な角度で。
(来る。必ず。……なら、私も、──待つ)
戦場では、待てない者から死ぬ。だから、待つ。
待つこと自体を刃に変え、先に触れてくる手を、戦術の上で殺すために。
合図は鋭く、丘陵の縁を越えていった。銀の思考は冷えた刃、琥珀の剣は前を裂く火、真紅の視線は、なお線を引く。
それぞれの色が別々の熱を帯びながら、同じ一点に収束していく──その手触りだけが、朝の湿りよりも確かだった。
レイモンドは小型の盤面を折りたたみ、伝令に指示札を渡す。補給の駄列は谷の陰を沿わせ、歩速は半拍遅らせる。乾かぬ泥は音を飲み、追撃の矢面を切らせない──計算は整っていた。整っていても、朝の風は些細な誤差を連れてくる。
「副団長殿。丘陵の陰に偵察をもう一枚。──帰りの風が強まる」
白銀の長髪が朝の薄光を割った。ヴィンセントは短く頷き、琥珀の眼で風向きを一瞥する。
「了解した。斥候、二。戻りの刻を詰めろ」
命令が走ると、列の呼吸が揃う。レイモンドは胸の内側で小さく頷いた。
(私の線は、今日も切れない)
そのとき、馬の影が脇につく。蜂蜜色の短髪、真紅の眼。アルベリック・ヴァーミリオンが手綱を短く持ち、馬体を並べた。
「参謀殿。視界、悪くはないですが、小川は陽が上がる前に渡った方がいいですね。石が温むと鳴きます」
「──報告に書け。口は残らない」
「書きますよ。……それ、手袋、縫い目が甘くなってる」
彼は鞍上から身を傾け、レイモンドの左手を視線で指した。次の瞬間、手綱を放した指がすっと伸び、手袋の縁を軽く払う。手袋越しの接触──礼の範囲に収まる、はずの所作。けれど指先は余計な長さをもって留まった。
「離せ」
「失礼。──参謀殿の手、きれいだから。汚れ、目立つんですよね」
「自分の装備を見ろ。落馬は戦果を腐らせる」
「心得てます」
素直に返し、彼は馬体を半身だけ引いて列の外側へ戻る。言葉は礼を踏み、目だけが侵入のやり方を知っている。
* * *
昼下がり。訓練場では木剣の音が乾いた空に跳ね、汗に鉄の匂いが混ざる。アルベリックが若い騎士の相手をしていた。短剣を左右に持ち替え、足裏の重心を滑らせる。剣筋は整い、呼吸は長い。
レイモンドは柵越しに一度だけ見て、簡潔に言う。
「ヴァーミリオン卿。二番手の反転が早い。二呼吸、溜めろ。左の死角が空く」
「参謀殿、見てくれてたんですね。うれしい。──二呼吸、ですね」
アルベリックは剣先を落とし、掌を見せる仕草で応えた。その手がまっすぐ柵を越え、レイモンドの外套の肩口に伸びる。
「泥、付いてます」
指が外套を軽くはたく。布越しの振動だけのはずが、肩甲骨の際に熱が残る。
「二度はするな」
「了解。──参謀殿の背中、張ってますね。戦の前だから、でしょうけど」
「私の背を測るな。自分の間合いを測れ」
「はは。了解」
笑う声は軽いのに、真紅の虹彩は刃の背のように滑らかに光った。
* * *
午後。天幕の内は薄暗く、羊皮紙の縁が湿気でわずかに波打つ。レイモンドは地図の下に板を差し込み、印の位置を微調整する。指先に染みたインクは落ちにくい。
幕が擦れ、アルベリックが腰を折って入ってきた。
「参謀殿。補給路の泥、明朝はもっと粘ります。脚軽の靴、今夜のうちに替えさせます?」
「替えろ。兵站に回せ。──以上か」
「もう一件。……これ、天幕の切れ目。縫いますよ」
彼は針と糸を取り出し、裂け目を指で摘んで見せる。裁縫は侍女の領分──だが遠征では手の早い者が勝つ。
「頼む。縫い目は狭く」
「承知。──手、貸してもらえます?」
布を押さえるための短い接触。レイモンドが片手で裂け目を支えると、アルベリックの指が上から重なった。手袋越し──なのに、熱だけ素肌で受けたみたいに残る。
「きれいな手ですね、参謀殿。骨の並びが真っ直ぐで」
「針に集中しろ」
「はい」
針は狭く、均等に走り、最後の結び目を歯で切る音が小さく鳴る。布の端が整い、役目を終えた彼の指が離れかけ――そこで、わざと遅れる。
「……糸、絡んでます」
低い声で言いながら、絡まってなどいない糸をほどくふりをして、レイモンドの手首の外側をなぞる。手袋の縁のわずかな段差に、指腹が沈む。
「許可を得ていない」
「失礼」
謝辞は速いが、紅の瞳は謝っていない。アルベリックは針を布に刺し、礼だけ残して去った。触れた場所に、厄介な残像が残る。
(……不快、だな)
言葉にはしない。代わりに、板で地図を押さえる指に力を加えた。紙は沈黙し、指の震えを吸い取る。
* * *
医務幕。包帯の消費は戦況を語り、匂いはさらに語る。鉄と薬草、焼けた布の焦げ。医務官が「明朝まで持つ」と小声で告げ、レイモンドは棚の下段に屈んで数を数えた。足りる。ぎりぎりで。
「参謀殿」
幕の入口からアルベリックの声。彼は不用意に踏み込まず、紐を指で弄びながら立っていた。
「古い外套、ほどきました。芯に使えます。──参謀殿、手」
何の前触れもなく差し出される掌。レイモンドは反射的に手を重ねる。
引き上げられた瞬間、彼の指が手の甲を滑った。手袋越し──だが、薄い皮膚の下で脈が跳ねる。
「礼を尽くせ。引き上げるだけでいい」
「了解。……参謀殿、脈が速い」
「無礼だ」
「失礼」
口は即座に改まるのに、声は甘い余韻を残す。レイモンドは手を引き、包帯の束を医務官へ渡して背を向けた。
背後で軽い足音が遠ざかる。遠ざかりながら、ひとことだけこちらへ落ちる。
「──夜風、冷えます。首、冷やさないで」
それは忠告としては正しい。正しいのに、声は首筋に触れた指の代わりをした。
* * *
黄昏。空は曇天のまま低く、焚き火は低い火力で長く息をさせられている。補給が追いついているうちは、熱を贅沢にできない。鍋の湯気は薄く、兵の笑い声も薄い。
レイモンドは卓の縁を押さえ、印の位置を微調整する。外では当直の交代を告げる笛が二度鳴った。
「ブラックウッド卿」
琥珀の声。ヴィンセントが幕をくぐる。鎧は外しているが、肩に乗る空気が違う。
「明朝の一撃、お前の線で行く」
「副団長殿。なら、私の半拍は、貴方の剣と同じ方向を斬る」
「当然だ」
ヴィンセントは卓の端に腰をかけ、レイモンドの手袋の縁を無造作に直した。触れ方は公的で短い。だが、指の圧だけで業務と保護の線が引かれる。
「泥。落とせ」
「今、落としたところだ」
短く笑い合う。その瞬間、幕の影が斜めに伸び、赤い光が細く卓の上を横切った。
アルベリックが遠巻きにこちらを見た──ただそれだけ。何も言わない。何もしない。だが視線だけが、刃の背で銀を撫でる。
ヴィンセントは目だけでそちらを一度だけ測った。言葉はない。言葉がないこと自体が、刃より重い。
* * *
夜。鍋の息は細く、火は灰に埋もれている。巡回の足音が交差し、幕の継ぎ目は冷たい。
レイモンドが天幕の外に出ると、湿った空気が頬を打った。星は少ない。雲は低い。
「参謀殿」
背後から呼びかける声は低いが、どこか明るい。アルベリックだ。彼は距離を詰めすぎない位置に立ち、崩した敬語をそのまま落とす。
「首、冷えます。──マント、貸します?」
「要らない。自分のものがある」
「じゃあ、こうしておきます」
言いながら、彼は躊躇なく一歩だけ近づいた。外套の襟を摘み、喉の前でひとつ高く結び直す。指が布越しに喉ぼとけの左右をかすめ、結び目の位置を整える。
それは丁寧なだけの所作──なのに、布の陰に隠れた皮膚が、指の往復を正確に覚えてしまう。
「……二度はするな」
「了解。寒いのは良くないので」
彼は外套の肩を軽く叩き、もう一歩引いた。引いたはずなのに、近さだけが残る。
「──参謀殿」
もう一度呼びかける。呼び名は礼を守る音、声は礼を裏切る温度。
「俺、待ちます。合図があるまで」
「合図は出ない」
「じゃあ、もっと待ちます」
笑って、彼は夜気へ溶けた。足音はすぐに消える。消えたのに、結び目の位置だけが皮膚の内側へ残る。
(私の策は、変わらない)
レイモンドは心の中で結び直した。結び目は硬く、解けない。解かせない。
* * *
深夜。巡回の交差点。幕と幕の狭い通路を、逆方向から来た影がふいに塞いだ。アルベリックだ。狭い路で避けて通るには、どちらかが身を引くしかない。彼は引かなかった。
代わりに片腕を持ち上げ、布の継ぎ目に触れた手で通路を支え、レイモンドの肩が布に擦れないよう空間をつくる。狭い路地に二人の呼吸がこもる。
「参謀殿。通るとき、肩が当たります」
「なら、お前が退け」
「退きます。──その前に」
彼は手袋を外した。薄い指が暗がりで白く見える。
「砂、付いてます。目に入ると厄介ですよ」
そう言って、指はレイモンドの睫毛の外側へそっと近づいた。触れてはいない。触れてはいないのに、肌が先に震える。
指は軌道を変え、頬の真横を少しだけ掠め――唇のすぐ、手前で止まった。それ以上は踏まない。踏まないことを選ぶ。だが、止まった場所が、最も危うい。
「──やめろ」
「了解」
返事は即座で、腕は支えを外す。通路は再び誰のものでもない空間に戻った。レイモンドは足を踏み出す。すれ違う刹那、アルベリックの肩が布を擦り、微かな音だけが残った。
* * *
天幕に戻ると、ヴィンセントが既にいた。灯は落とされ、焚き火の残り火だけが低く呼吸している。
「ブラックウッド卿」
「副団長殿」
公の呼び名は、二人きりでも時に必要だ。彼はそれを解いてから、名を呼ぶ。
「……ヴィンセント」
琥珀の視線が柔らかく沈む。
「何だ」
「私は──崩れない」
「知っている」
短い応酬のあと、ヴィンセントはレイモンドの外套の結び目を見た。喉の前で少し高すぎる位置。彼は何も問わない。問わない代わりに、結び目に指をかけて、ほんの少しだけ緩めた。息が楽になる位置に。
「ここだ」
「……ああ」
それだけ。触れ方は公的で、短い。だが、触れた位置だけが確かに所有の印を帯びる。
レイモンドは目を閉じ、炎の微かな音を聞いた。
(私を離すな、──ヴィンセント)
矛盾は夜の底でよく燃える。熱は過剰にしない。明日がある。
二人は少し離れて座り、同じ方向を見た。外では巡回が融け、遠くで馬が短く鼻を鳴らす。
* * *
明け方。雲は低いまま、風は横から吹く。集合の合図が短く鳴り、列は粛々と動き始めた。
先頭でヴィンセントが剣を肩に担ぎ、振り返らずに言う。
「俺は前を斬る。──お前は後ろで切り結べ」
「承知した。副団長殿」
レイモンドは列の中央後方へ目を遣る。紅の眼がいるはずの位置。そこに、いた。こちらを見てはいない。見ていないのに、見ている。不思議な角度で。
(来る。必ず。……なら、私も、──待つ)
戦場では、待てない者から死ぬ。だから、待つ。
待つこと自体を刃に変え、先に触れてくる手を、戦術の上で殺すために。
合図は鋭く、丘陵の縁を越えていった。銀の思考は冷えた刃、琥珀の剣は前を裂く火、真紅の視線は、なお線を引く。
それぞれの色が別々の熱を帯びながら、同じ一点に収束していく──その手触りだけが、朝の湿りよりも確かだった。
15
あなたにおすすめの小説
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました
タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。
クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。
死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。
「ここは天国ではなく魔界です」
天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。
「至上様、私に接吻を」
「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」
何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
シナリオ回避失敗して投獄された悪役令息は隊長様に抱かれました
無味無臭(不定期更新)
BL
悪役令嬢の道連れで従兄弟だった僕まで投獄されることになった。
前世持ちだが結局役に立たなかった。
そもそもシナリオに抗うなど無理なことだったのだ。
そんなことを思いながら収監された牢屋で眠りについた。
目を覚ますと僕は見知らぬ人に抱かれていた。
…あれ?
僕に風俗墜ちシナリオありましたっけ?
弟が兄離れしようとしないのですがどうすればいいですか?~本編~
荷居人(にいと)
BL
俺の家族は至って普通だと思う。ただ普通じゃないのは弟というべきか。正しくは普通じゃなくなっていったというべきか。小さい頃はそれはそれは可愛くて俺も可愛がった。実際俺は自覚あるブラコンなわけだが、それがいけなかったのだろう。弟までブラコンになってしまった。
これでは弟の将来が暗く閉ざされてしまう!と危機を感じた俺は覚悟を持って……
「龍、そろそろ兄離れの時だ」
「………は?」
その日初めて弟が怖いと思いました。
弟勇者と保護した魔王に狙われているので家出します。
あじ/Jio
BL
父親に殴られた時、俺は前世を思い出した。
だが、前世を思い出したところで、俺が腹違いの弟を嫌うことに変わりはない。
よくある漫画や小説のように、断罪されるのを回避するために、弟と仲良くする気は毛頭なかった。
弟は600年の眠りから醒めた魔王を退治する英雄だ。
そして俺は、そんな弟に嫉妬して何かと邪魔をしようとするモブ悪役。
どうせ互いに相容れない存在だと、大嫌いな弟から離れて辺境の地で過ごしていた幼少期。
俺は眠りから醒めたばかりの魔王を見つけた。
そして時が過ぎた今、なぜか弟と魔王に執着されてケツ穴を狙われている。
◎1話完結型になります
悪役令息に転生したらしいけど、何の悪役令息かわからないから好きにヤリチン生活ガンガンしよう!
ミクリ21 (新)
BL
ヤリチンの江住黒江は刺されて死んで、神を怒らせて悪役令息のクロエ・ユリアスに転生されてしまった………らしい。
らしいというのは、何の悪役令息かわからないからだ。
なので、クロエはヤリチン生活をガンガンいこうと決めたのだった。
冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される
マンスーン
BL
王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。
泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる