4 / 9
side-B 2 発見
しおりを挟む
「何これ、人形……?」
リノリウムの廊下の片隅に落ちているものを見て、私はぽつりと呟いた。最初、私はそれを風によって一箇所に吹き寄せられたゴミだと思った。じっと見つめてみると、どうやら豚を模した人形であることが分かった。
豚だと断定したのは、ピンク色の鼻とカールしているしっぽがあったからだ。郵便はがきほどの大きさのその人形は、羊毛フェルトで作られていた。身体は薄黒く汚れていて、ドブのような臭いがした。ナイフのようなもので削って先を尖らせた木の枝が、胴体のフェルトから四本生えていて、どうやら足を表現しているらしかった。口には歯がびっしりと描かれており、ゴマのような目はぬらぬらと濡れていた。これが日香里の失踪と関係があるものなのかどうか、私は瞬時に判断ができなかった。
終業式が終わってから、あっという間に数日が経った。学校が夏休みの間も、警察の捜索は続けられていて、昼のニュース番組で日香里の失踪が報じられた。ニュースキャスターが日香里の名前を告げて、テレビ画面に学び舎が映ったものの、磨りガラス越しに見る風景のようにあまり現実感がなかった。
私は日香里の行きそうなあらゆる場所に行き、彼女の痕跡を探した。何もしないでただ待っていると、心が色彩を失っていき、自分という存在がどんどん透明になっていくような気がした。
高校はもちろん、最寄り駅、CDショップ、ハンバーガーショップ、塾、カラオケボックス、アパレルショップ、靴屋、雑貨屋、ゲームセンター、映画館など、思いついた場所は虱潰しに回った。しかし、日香里の痕跡はおろか、髪の毛一本さえ見つけることはできなかった。
肩を落としながら、私は夏休みにもかかわらず、図書委員の仕事を全うするために学校に来ていた。自室で燻っているよりは、学校に出向いたほうが気が紛れると思ったのだ。
学校の鉄扉の前の道路に、マスコミの車らしき軽自動車が止まっていた。それを横目に下駄箱に向かい、上履きに履き替えて、一階の廊下を歩いていた。そして先ほどの奇妙な人形を見つけたのだった。
膝を折ってしゃがみ、目を凝らして人形を見た。昼間の穏やかな空気の中で、その人形は異質な存在感を放っていた。誰がこんなものを置いたのだろう。ただのイタズラなのか、何らかのメッセージなのか……。難解な方程式を解いているように、思考がまとまらなかった。
「どうしました、こんなところで」
背中とシャツの隙間にムカデが落ちてきたような驚き。慌てて立ち上がると、後藤先生が目を丸くしていた。ほっそりとした頬をしていて、夏場にもかかわらず汗をかいていなかった。
「びっくりした、後藤先生だったんですか……」
「驚いたのはこっちですよ」目尻を下げてかすかに笑いながら、先生が言った。「五十嵐さん、それは触らないで良いですよ」
落ち着いた声色でそう言うと、先生はポケットからティッシュを一枚取り出して人形をつまみ上げた。伸ばした腕に、引っ掻いたような傷跡があった。
「先生、その傷は……」
「ああ、これですか」そう言って、先生は指先で軽く傷跡を擦った。「通勤途中に野良猫と遭遇しましてね。その子の頭を撫でようとしたら、引っかかれてしまいました」
「生物の先生でも、そんなことがあるんですね」
「弘法にも筆の誤りと言いますから」
屈託のない笑みを浮かべて、私もくすりと笑った。そして手元の人形を見ながら「それにしても困りました」と先生が呟いた。
「その人形のことですか?」
「こういうのが今朝から、学校のあちこちで見つかっているんですよ」
「誰かのイタズラですかね」
「そうだと思います。もう少し可愛げのある人形ならまだしも、これは少々不気味ですね」
「ちょっと怖いですね。ここ最近、色々とありましたから」色々と、の部分を強調して発音した。
「……そうですね」先生は眼鏡のブリッジをくいと上げた。廊下は人気が無く、互いの声が響いて、天井の隅にいつまでも残っているようだった。
「先生、日香里はまだ見つからないんですか?」
「まだ捜索中だと、昨日警察から連絡がありました」沈鬱な表情で先生が言った。
「この街は、そういう事件とは無縁だと思っていました」長身な先生の喉仏のあたりを見ながら言った。
「この学校に来て六年ですが、こういうケースは始めてですよ。二年前に、隣の区の中学校でちょっとした事件があったくらいでね。最近は、ずっと穏やかでしたから……」
「ちょっとした事件?」
先生の目に焦燥の色が走り、慌てて取り繕った風の笑顔を見せた。
「いや、そんな大きな事件じゃないんです。不安にさせてしまったなら、すみません」
先生は早口で話してから、摘んでいた人形をゴミ箱に投げ捨てた。そして「図書委員の仕事、頑張ってくださいね」と言うと、職員室に入っていった。
ちょっとした事件とは何だろうかと考えながら、私は三階の図書室の方へ歩き出した。廊下の隅や掲示物の下に、先ほど見た人形と同様のものが置かれていた。私はそれをティッシュで摘み、ゴミ箱の中へ放った。人形の作りは甘く、投げ捨てるときに手がもげたり、首が取れたりした。
三階の廊下の壁には、進路関係や薬物乱用防止のポスター、校内新聞などが張られていた。校内は静かで、廊下を歩いているときにすれ違ったのは、用務員のおじさんや数人の生徒だけだった。
図書室に到着して、何故あの人形が学校中に置かれていたのか考えながら、私はカウンターに鞄を置いた。その時、小銭同士がぶつかるような音がして、足元に三日月のキーホルダーが転がった。
「そんな……」
鞄を置くときに、キーホルダーがどこかに引っかかってしまったのかもしれない。拾い上げると、金具が千切れてしまっていた。私は制服のポケットにキーホルダーをしまい、深いため息をついた。
気落ちしたまま、私は校舎側の窓を開けた。湿り気のある風が吹き込み、空には溶けた水銀のような太陽が燃えていた。運動部の熱を孕んだ声と、吹奏楽部の楽器の奏でる音色が聞こえた。
夕方になって自宅に帰ると、私は制服のまま自室のパソコンを立ち上げた。図書室で雑務をしている間も、先生の言っていた「ちょっとした事件」の正体が気になっていた。
新聞社のサイトにアクセスして、隣接した地区の高校の名前を、一つずつ検索エンジンに入力した。一昨年の記事に絞り込み、片っ端から見出しに目を走らせた。
《吹奏楽コンクール最終日、音色響かせる》……《高校生作文コンテスト、テーマは「私の家族」》………《三年ぶり初戦突破、高校野球選手権大会》……《米国の高校生と異文化交流》……《SNSで高まるリスク、青少年に安全なネット利用》……《学生のアイデアを商品化、コンビニと共同開発》……《オリンピック代表選手、母校で激励》……《百人一首大会、高校生が技を競う》……《高校生が啓発ポスター、安全なまちづくり》
日常の延長線上にある、月並みな話題ばかりだった。事件と呼べるようなニュースはなかなか見つからず、いくら食い入るように題字に目を通しても、注目に値する記事は見つけられなかった。
窓の外を見ると、夕日が名残惜しげに地平線にしがみついていた。もう少し経てば夜の気配が部屋を漂い始めてしまうだろう。パソコンの画面を睨んでいたせいか、眼の奥がつんと痛み、何度か目を瞬かせると、じんわりと涙が滲んできた。
新聞の記事に載らないような小さな事件だったのだろうか。それとも、二年前というのは先生の勘違いで、時期を間違えているのだろうか。半ば諦めていたとき、『X県の中学校に切断された犬の死体』という見出しが目に飛び込んできた。
***
二十四日午前八時ごろ、Y市Z区の公立中学校の屋上で犬が死んでいるのを、校内の見回りをしていた校長が見つけ、警察に通報した。
同署によると、死体は首と胴体と足が切断されており、何者かが鋭利な刃物のようなものを使ったとみられる。また、死体の周辺に血だまりがないことから、何者かが別の場所で犬を殺し、学校に運んできた可能性が高いという。
今年の夏以降、Z区を含む近接区内で動物の切断死体が多数見つかっており、同署は動物愛護法違反の疑いで調べるとともに、学校周辺の警戒を強めている。
この犬は頻繁に校内へ出没していて、生徒から可愛がられていたという。
***
夕刊の隅に載っていた小さな記事だった。だが、純白のドレスに付いた一点の黒染みのように、この事件は私の心に強く引っかかるものがあった。隣区の出来事だったが、私はこの事件のことを全く知らなかった。事の残虐性を鑑みた両親が、私からこの話題を遠ざけていたのかもしれない。
事件の起こった中学校は、近くの国道を東に進み、踏切を跨いだ先にある長閑な学校だ。私の通っていた中学校からは一駅分ほど離れていて、この中学校出身の人は知り合いに誰もいなかった。どうしたものか悩んでいると、ふと啓ちゃんの「いつでも電話していいから」という言葉を思い出した。
制服のポケットから携帯電話を取り出し、啓ちゃんに連絡を取った。呼び出し音が三回鳴り、電話が繋がった。
「もしもし、どうした?」
「ちょっと訊きたいことがあって。今、時間大丈夫?」
「いや、今忙しい。英語の宿題とにらめっこしていたところだから」
「それ、忙しいって言うの?」
久しぶりに啓ちゃんの声を聞いたような気がして、私はほっとした。二言三言、他愛のない話をしてから、私は記事にあった中学校の名前を伝え、二年前に何か事件が無かったかどうか、遠回しに尋ねた。
「もしかして、犬の事件か?」
「知ってるの?」
「友達が話していたのを、耳にしたことがあるよ。夜になると、学校の廊下を犬の幽霊が彷徨うとか」
「まさか、オカルトでしょ……」
「まあ、俺も詳しくは知らないんだ」啓ちゃんの短い笑い声が聞こえた。「友達にその中学校出身の奴がいるから、詳しく訊いてみようか?」
「お願いしても良い?」
「良いよ。今はうちの高校の三組にいる、岸田って、知らないかな。背が高くて丸刈りの……」
啓ちゃんと違って交流関係の狭い私には、いまいちピンと来なかった。「いたような、いなかったような……」
「いるって。じゃあ後で岸田にメールしてみるよ」
電話の向こうで、啓ちゃんの名前を呼ぶ声がした。母親が声をかけているらしく、「すぐに行くよ」という啓ちゃんの大きな声が響いた。
「悪い、夕飯の時間だから来いって母親が呼んできた。詳しいことが分かったら、また電話するよ」
「うん、ありがとう。夏休みの英語の宿題、私の写して良いから」
「マジで? 恩に着るよ。それじゃあな」
じゃあね、と言ってから私は電話を切った。啓ちゃんの優しさが温かい湯になり、私の心を満たしていくような気がした。
私は啓ちゃんのことが好きなのだろうか、とふいに考えた。彼に対する漠然とした好意はあるが、この気持ちは国語辞典に載っているどんな言葉にも――例えば、友愛、景仰、愛情など――ぴったりと当てはまらないような気がした。小学生の頃から、私と啓ちゃんの関係は水平に保たれていた。そして、片方の分銅の重さが変わってしまえば、二人のバランスはたちまち崩れてしまうように思えた。
部屋をノックする音がして、夕飯の時間だと母親がドアの前で告げた。私は上擦った声で返事をしてから、部屋着に着替え始めた。とにかく今は、啓ちゃんの電話を待つしか無かった。窓の外に目をやると、蝉の羽のような澄んだ月が、雲の切れ間から見え隠れしていた。
リノリウムの廊下の片隅に落ちているものを見て、私はぽつりと呟いた。最初、私はそれを風によって一箇所に吹き寄せられたゴミだと思った。じっと見つめてみると、どうやら豚を模した人形であることが分かった。
豚だと断定したのは、ピンク色の鼻とカールしているしっぽがあったからだ。郵便はがきほどの大きさのその人形は、羊毛フェルトで作られていた。身体は薄黒く汚れていて、ドブのような臭いがした。ナイフのようなもので削って先を尖らせた木の枝が、胴体のフェルトから四本生えていて、どうやら足を表現しているらしかった。口には歯がびっしりと描かれており、ゴマのような目はぬらぬらと濡れていた。これが日香里の失踪と関係があるものなのかどうか、私は瞬時に判断ができなかった。
終業式が終わってから、あっという間に数日が経った。学校が夏休みの間も、警察の捜索は続けられていて、昼のニュース番組で日香里の失踪が報じられた。ニュースキャスターが日香里の名前を告げて、テレビ画面に学び舎が映ったものの、磨りガラス越しに見る風景のようにあまり現実感がなかった。
私は日香里の行きそうなあらゆる場所に行き、彼女の痕跡を探した。何もしないでただ待っていると、心が色彩を失っていき、自分という存在がどんどん透明になっていくような気がした。
高校はもちろん、最寄り駅、CDショップ、ハンバーガーショップ、塾、カラオケボックス、アパレルショップ、靴屋、雑貨屋、ゲームセンター、映画館など、思いついた場所は虱潰しに回った。しかし、日香里の痕跡はおろか、髪の毛一本さえ見つけることはできなかった。
肩を落としながら、私は夏休みにもかかわらず、図書委員の仕事を全うするために学校に来ていた。自室で燻っているよりは、学校に出向いたほうが気が紛れると思ったのだ。
学校の鉄扉の前の道路に、マスコミの車らしき軽自動車が止まっていた。それを横目に下駄箱に向かい、上履きに履き替えて、一階の廊下を歩いていた。そして先ほどの奇妙な人形を見つけたのだった。
膝を折ってしゃがみ、目を凝らして人形を見た。昼間の穏やかな空気の中で、その人形は異質な存在感を放っていた。誰がこんなものを置いたのだろう。ただのイタズラなのか、何らかのメッセージなのか……。難解な方程式を解いているように、思考がまとまらなかった。
「どうしました、こんなところで」
背中とシャツの隙間にムカデが落ちてきたような驚き。慌てて立ち上がると、後藤先生が目を丸くしていた。ほっそりとした頬をしていて、夏場にもかかわらず汗をかいていなかった。
「びっくりした、後藤先生だったんですか……」
「驚いたのはこっちですよ」目尻を下げてかすかに笑いながら、先生が言った。「五十嵐さん、それは触らないで良いですよ」
落ち着いた声色でそう言うと、先生はポケットからティッシュを一枚取り出して人形をつまみ上げた。伸ばした腕に、引っ掻いたような傷跡があった。
「先生、その傷は……」
「ああ、これですか」そう言って、先生は指先で軽く傷跡を擦った。「通勤途中に野良猫と遭遇しましてね。その子の頭を撫でようとしたら、引っかかれてしまいました」
「生物の先生でも、そんなことがあるんですね」
「弘法にも筆の誤りと言いますから」
屈託のない笑みを浮かべて、私もくすりと笑った。そして手元の人形を見ながら「それにしても困りました」と先生が呟いた。
「その人形のことですか?」
「こういうのが今朝から、学校のあちこちで見つかっているんですよ」
「誰かのイタズラですかね」
「そうだと思います。もう少し可愛げのある人形ならまだしも、これは少々不気味ですね」
「ちょっと怖いですね。ここ最近、色々とありましたから」色々と、の部分を強調して発音した。
「……そうですね」先生は眼鏡のブリッジをくいと上げた。廊下は人気が無く、互いの声が響いて、天井の隅にいつまでも残っているようだった。
「先生、日香里はまだ見つからないんですか?」
「まだ捜索中だと、昨日警察から連絡がありました」沈鬱な表情で先生が言った。
「この街は、そういう事件とは無縁だと思っていました」長身な先生の喉仏のあたりを見ながら言った。
「この学校に来て六年ですが、こういうケースは始めてですよ。二年前に、隣の区の中学校でちょっとした事件があったくらいでね。最近は、ずっと穏やかでしたから……」
「ちょっとした事件?」
先生の目に焦燥の色が走り、慌てて取り繕った風の笑顔を見せた。
「いや、そんな大きな事件じゃないんです。不安にさせてしまったなら、すみません」
先生は早口で話してから、摘んでいた人形をゴミ箱に投げ捨てた。そして「図書委員の仕事、頑張ってくださいね」と言うと、職員室に入っていった。
ちょっとした事件とは何だろうかと考えながら、私は三階の図書室の方へ歩き出した。廊下の隅や掲示物の下に、先ほど見た人形と同様のものが置かれていた。私はそれをティッシュで摘み、ゴミ箱の中へ放った。人形の作りは甘く、投げ捨てるときに手がもげたり、首が取れたりした。
三階の廊下の壁には、進路関係や薬物乱用防止のポスター、校内新聞などが張られていた。校内は静かで、廊下を歩いているときにすれ違ったのは、用務員のおじさんや数人の生徒だけだった。
図書室に到着して、何故あの人形が学校中に置かれていたのか考えながら、私はカウンターに鞄を置いた。その時、小銭同士がぶつかるような音がして、足元に三日月のキーホルダーが転がった。
「そんな……」
鞄を置くときに、キーホルダーがどこかに引っかかってしまったのかもしれない。拾い上げると、金具が千切れてしまっていた。私は制服のポケットにキーホルダーをしまい、深いため息をついた。
気落ちしたまま、私は校舎側の窓を開けた。湿り気のある風が吹き込み、空には溶けた水銀のような太陽が燃えていた。運動部の熱を孕んだ声と、吹奏楽部の楽器の奏でる音色が聞こえた。
夕方になって自宅に帰ると、私は制服のまま自室のパソコンを立ち上げた。図書室で雑務をしている間も、先生の言っていた「ちょっとした事件」の正体が気になっていた。
新聞社のサイトにアクセスして、隣接した地区の高校の名前を、一つずつ検索エンジンに入力した。一昨年の記事に絞り込み、片っ端から見出しに目を走らせた。
《吹奏楽コンクール最終日、音色響かせる》……《高校生作文コンテスト、テーマは「私の家族」》………《三年ぶり初戦突破、高校野球選手権大会》……《米国の高校生と異文化交流》……《SNSで高まるリスク、青少年に安全なネット利用》……《学生のアイデアを商品化、コンビニと共同開発》……《オリンピック代表選手、母校で激励》……《百人一首大会、高校生が技を競う》……《高校生が啓発ポスター、安全なまちづくり》
日常の延長線上にある、月並みな話題ばかりだった。事件と呼べるようなニュースはなかなか見つからず、いくら食い入るように題字に目を通しても、注目に値する記事は見つけられなかった。
窓の外を見ると、夕日が名残惜しげに地平線にしがみついていた。もう少し経てば夜の気配が部屋を漂い始めてしまうだろう。パソコンの画面を睨んでいたせいか、眼の奥がつんと痛み、何度か目を瞬かせると、じんわりと涙が滲んできた。
新聞の記事に載らないような小さな事件だったのだろうか。それとも、二年前というのは先生の勘違いで、時期を間違えているのだろうか。半ば諦めていたとき、『X県の中学校に切断された犬の死体』という見出しが目に飛び込んできた。
***
二十四日午前八時ごろ、Y市Z区の公立中学校の屋上で犬が死んでいるのを、校内の見回りをしていた校長が見つけ、警察に通報した。
同署によると、死体は首と胴体と足が切断されており、何者かが鋭利な刃物のようなものを使ったとみられる。また、死体の周辺に血だまりがないことから、何者かが別の場所で犬を殺し、学校に運んできた可能性が高いという。
今年の夏以降、Z区を含む近接区内で動物の切断死体が多数見つかっており、同署は動物愛護法違反の疑いで調べるとともに、学校周辺の警戒を強めている。
この犬は頻繁に校内へ出没していて、生徒から可愛がられていたという。
***
夕刊の隅に載っていた小さな記事だった。だが、純白のドレスに付いた一点の黒染みのように、この事件は私の心に強く引っかかるものがあった。隣区の出来事だったが、私はこの事件のことを全く知らなかった。事の残虐性を鑑みた両親が、私からこの話題を遠ざけていたのかもしれない。
事件の起こった中学校は、近くの国道を東に進み、踏切を跨いだ先にある長閑な学校だ。私の通っていた中学校からは一駅分ほど離れていて、この中学校出身の人は知り合いに誰もいなかった。どうしたものか悩んでいると、ふと啓ちゃんの「いつでも電話していいから」という言葉を思い出した。
制服のポケットから携帯電話を取り出し、啓ちゃんに連絡を取った。呼び出し音が三回鳴り、電話が繋がった。
「もしもし、どうした?」
「ちょっと訊きたいことがあって。今、時間大丈夫?」
「いや、今忙しい。英語の宿題とにらめっこしていたところだから」
「それ、忙しいって言うの?」
久しぶりに啓ちゃんの声を聞いたような気がして、私はほっとした。二言三言、他愛のない話をしてから、私は記事にあった中学校の名前を伝え、二年前に何か事件が無かったかどうか、遠回しに尋ねた。
「もしかして、犬の事件か?」
「知ってるの?」
「友達が話していたのを、耳にしたことがあるよ。夜になると、学校の廊下を犬の幽霊が彷徨うとか」
「まさか、オカルトでしょ……」
「まあ、俺も詳しくは知らないんだ」啓ちゃんの短い笑い声が聞こえた。「友達にその中学校出身の奴がいるから、詳しく訊いてみようか?」
「お願いしても良い?」
「良いよ。今はうちの高校の三組にいる、岸田って、知らないかな。背が高くて丸刈りの……」
啓ちゃんと違って交流関係の狭い私には、いまいちピンと来なかった。「いたような、いなかったような……」
「いるって。じゃあ後で岸田にメールしてみるよ」
電話の向こうで、啓ちゃんの名前を呼ぶ声がした。母親が声をかけているらしく、「すぐに行くよ」という啓ちゃんの大きな声が響いた。
「悪い、夕飯の時間だから来いって母親が呼んできた。詳しいことが分かったら、また電話するよ」
「うん、ありがとう。夏休みの英語の宿題、私の写して良いから」
「マジで? 恩に着るよ。それじゃあな」
じゃあね、と言ってから私は電話を切った。啓ちゃんの優しさが温かい湯になり、私の心を満たしていくような気がした。
私は啓ちゃんのことが好きなのだろうか、とふいに考えた。彼に対する漠然とした好意はあるが、この気持ちは国語辞典に載っているどんな言葉にも――例えば、友愛、景仰、愛情など――ぴったりと当てはまらないような気がした。小学生の頃から、私と啓ちゃんの関係は水平に保たれていた。そして、片方の分銅の重さが変わってしまえば、二人のバランスはたちまち崩れてしまうように思えた。
部屋をノックする音がして、夕飯の時間だと母親がドアの前で告げた。私は上擦った声で返事をしてから、部屋着に着替え始めた。とにかく今は、啓ちゃんの電話を待つしか無かった。窓の外に目をやると、蝉の羽のような澄んだ月が、雲の切れ間から見え隠れしていた。
0
あなたにおすすめの小説
魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
俺が死んでから始まる物語
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていたポーター(荷物運び)のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもないことは自分でも解っていた。
だが、それでもセレスはパーティに残りたかったので土下座までしてリヒトに情けなくもしがみついた。
余りにしつこいセレスに頭に来たリヒトはつい剣の柄でセレスを殴った…そして、セレスは亡くなった。
そこからこの話は始まる。
セレスには誰にも言った事が無い『秘密』があり、その秘密のせいで、死ぬことは怖く無かった…死から始まるファンタジー此処に開幕
【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。
ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。
彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。
婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。
そして迎えた学園卒業パーティー。
ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。
ガッツポーズを決めるリリアンヌ。
そのままアレックスに飛び込むかと思いきや――
彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。
僕の秘密を知った自称勇者が聖剣を寄越せと言ってきたので渡してみた
黒木メイ
ファンタジー
世界に一人しかいないと言われている『勇者』。
その『勇者』は今、ワグナー王国にいるらしい。
曖昧なのには理由があった。
『勇者』だと思わしき少年、レンが頑なに「僕は勇者じゃない」と言っているからだ。
どんなに周りが勇者だと持て囃してもレンは認めようとしない。
※小説家になろうにも随時転載中。
レンはただ、ある目的のついでに人々を助けただけだと言う。
それでも皆はレンが勇者だと思っていた。
突如日本という国から彼らが転移してくるまでは。
はたして、レンは本当に勇者ではないのか……。
ざまぁあり・友情あり・謎ありな作品です。
※小説家になろう、カクヨム、ネオページにも掲載。
英雄一家は国を去る【一話完結】
青緑 ネトロア
ファンタジー
婚約者との舞踏会中、火急の知らせにより領地へ帰り、3年かけて魔物大発生を収めたテレジア。3年振りに王都へ戻ったが、国の一大事から護った一家へ言い渡されたのは、テレジアの婚約破棄だった。
- - - - - - - - - - - - -
ただいま後日談の加筆を計画中です。
2025/06/22
貧弱の英雄
カタナヅキ
ファンタジー
この世界では誰もが生まれた時から「異能」と「レベル」呼ばれる能力を身に付けており、人々はレベルを上げて自分の能力を磨き、それに適した職業に就くのが当たり前だった。しかし、山奥で捨てられていたところを狩人に拾われ、後に「ナイ」と名付けられた少年は「貧弱」という異能の中でも異質な能力を身に付けていた。
貧弱の能力の効果は日付が変更される度に強制的にレベルがリセットされてしまい、生まれた時からナイは「レベル1」だった。どれだけ努力してレベルを上げようと日付変わる度にレベル1に戻ってしまい、レベルで上がった分の能力が低下してしまう。
自分の貧弱の技能に悲観する彼だったが、ある時にレベルを上昇させるときに身に付ける「SP」の存在を知る。これを使用すれば「技能」と呼ばれる様々な技術を身に付ける事を知り、レベルが毎日のようにリセットされる事を逆に利用して彼はSPを溜めて数々の技能を身に付け、落ちこぼれと呼んだ者達を見返すため、底辺から成り上がる――
※修正要請のコメントは対処後に削除します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる