博多はつ恋おわらせ屋〜シロヘビさんの幸運結び〜

葉方萌生

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第三章 忘れても忘れない想い

3-6

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「あんた、こんなかわいい娘が親切にしてやっとるのに、その厚意を受け取らんなんてなんばしよると?」

 老婆の口から発せられたとは思えないほど鋭い声が、その場に響き渡る。凪がはっとして橙子のほうを見やる。普段、橙子は軽度の認知症のせいか、ぼんやりとしていることが多い。話の内容も、一度聞いたものが多かったり、同じことを何度も繰り返したりと不自然なこともある。だが、今の橙子は確固たる意思のもと、自分の思いを爆発させているように見えた。

 しばらくその場は静まり返っていたが、やがて木戸が「フッ」と軽く笑い出した。

「ばあさん、あんたいきなり入ってきて何なん? 俺らの仕事が始まってから集会所にも何度も来とるけど、何の用なん?」

 木戸のその鋭い矢のような一言に、周りにいた男たちも加勢する。

「あのばあさん、認知症だろ」
「いつもうちにやってきて迷惑しとったっちゃけど」
「てかばあさんはずっと人探ししとるっちゃろ? その人たち巻き込んで自分のことばっかやん」
「そもそも山笠は男の祭りやし、娘もばあさんも首突っ込むなや」

 心無い言葉の数々が、凪や橙子の耳を容赦なく汚していく。
 凪ははっとして橙子を見やる。橙子の表情が、悲しみや怒り、寂しさの入り混じった複雑なものに変わっていく。唇はわなわなと震え、今にも崩れ落ちてしまうのではないかと思った。

「ばあさんが探しとる人、本当は誰もおらんっちゃない? 全部妄想やろ」

 誰かが放ったその一言に、凪と光一が凍りつく。
 橙子の震えが止まっていた。
 その代わり、目を大きく見開き、片方の目からツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。凪がぎょっとして「橙子」と彼女を呼びかける。でも橙子は自分のことを呼ばれていることが分からないかのように、ふらふらとその場から駆け出した。最初はおぼつかない足取りだったのに、老婆の足とは思えないほどダッシュで那珂流メンバーから離れていく。

「おい、橙子さん!」

 光一が声を張り上げた。凪も、我に返ったように「橙子!」と彼女の名前を再び呼ぶ。流メンバーは「もうほっとけよ」と鼻で笑うように光一の肩をポンと軽く叩いた。その手を光一が軽く払いのける。

「伯父さん、悪いけど俺抜けます」

「は? お前何言って……準備はまだ終わってないぞ」

「これだけの人がおるんやけん、俺が一人抜けても大丈夫やろ!? 差し入れだってたくさんもらったんだし、それ食べたら力が出るはずやんっ」

 光一はそれだけ言い残すと、橙子の走っていくほうへと駆け出した。すかさず凪も光一を追いかける。
 老婆なので、すぐに追いつけるだろう。
 そう思ったのに、橙子は意外と逃げ足が速かった。那珂川のほうへと走って、橋を渡ろうとしている。足の速い光一が全速力で橙子を追いかける背中を、凪は必死に見つめていた。

「橙子さんっ!」

 やがて光一が、橋の真ん中で橙子の腕を捕まえる。「離して~!」と声を上げる橙子を必死に抱き止めて、「落ち着いてくださいっ」と腕の中でもがく彼女に声をかけた。

「橙子さん、一度呼吸を整えんとっ! いきなり走るなんて心臓にも悪か! 自分の身体のことちゃんと考えて」

 光一の必死の訴えに、「イヤダイヤダ」と駄々っ子のように首を横に振る。凪もようやく光一たちに追いついて、振り回される橙子の腕を抑えた。

「橙子、さっきのはあの人たちが悪いけん、気にせんでいい!」

橙子が走っていってしまったのは、那珂流の男たちが橙子に心無い言葉を浴びせたせいだ。そうと分かっていた凪は、橙子は悪くないのだと声を張り上げて伝える。
 それでも、橙子は「ウワァァァァン」と子どものように泣きじゃくる。道ゆく人々が何事かとこちらをチラチラと見ている。中にはスマホで「110」通報をしようとしている人まで現れて、凪が「やめて」と止めた。

 未だ泣き止まない橙子。完全に興奮状態に陥っている。ほとほと困り果てた凪と光一だったが、光一がふと気づいたかのようにこう尋ねた。

「もしかして橙子さんがずっと探しとるのって、初恋の人?」

 橙子の動きがぴたりと止まる。まるで、失くしていたおもちゃを見つけた子どものように涙が引っ込んだ。
 図星なのだ、と凪は察する。光一も答えが分かったからか、きりっと表情を引き締めて、橙子に向き直る。

「その人のことが、忘れられない?」

 橙子が瞳を伏せながら、ゆっくりと頷いた。
 橙子が探していたのは、忘れられない初恋の人だった。凪はてっきり、息子さんや娘さんとばかり思っていたが違ったのだ。
 橙子は、今まで泣き腫らしていた顔をくしゃりと歪め、苦痛に耐えるようにして話し出した。

「……その人のことを覚えとらんのに、ずっとここが苦しくて仕方ない」

“ここ”の部分で自分の胸にぎゅっと拳を押し当てる。

「一年前に、階段でつまずいて倒れてからずっと、自分が今いる一メートル先に黒いもや・・・・が見えとった」

「黒いもや……?」

 凪は思わず疑問の声を上げる。橙子が一年前に階段から落ちて倒れていたということも驚きだが、それ以上に黒いもやが見えるなんて、どう解釈すればいいのか分からない。光一も同じだったのか、目を丸くして橙子の話を聞いていた。
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