30 / 32
第三章 忘れても忘れない想い
3-6
しおりを挟む
「あんた、こんなかわいい娘が親切にしてやっとるのに、その厚意を受け取らんなんてなんばしよると?」
老婆の口から発せられたとは思えないほど鋭い声が、その場に響き渡る。凪がはっとして橙子のほうを見やる。普段、橙子は軽度の認知症のせいか、ぼんやりとしていることが多い。話の内容も、一度聞いたものが多かったり、同じことを何度も繰り返したりと不自然なこともある。だが、今の橙子は確固たる意思のもと、自分の思いを爆発させているように見えた。
しばらくその場は静まり返っていたが、やがて木戸が「フッ」と軽く笑い出した。
「ばあさん、あんたいきなり入ってきて何なん? 俺らの仕事が始まってから集会所にも何度も来とるけど、何の用なん?」
木戸のその鋭い矢のような一言に、周りにいた男たちも加勢する。
「あのばあさん、認知症だろ」
「いつもうちにやってきて迷惑しとったっちゃけど」
「てかばあさんはずっと人探ししとるっちゃろ? その人たち巻き込んで自分のことばっかやん」
「そもそも山笠は男の祭りやし、娘もばあさんも首突っ込むなや」
心無い言葉の数々が、凪や橙子の耳を容赦なく汚していく。
凪ははっとして橙子を見やる。橙子の表情が、悲しみや怒り、寂しさの入り混じった複雑なものに変わっていく。唇はわなわなと震え、今にも崩れ落ちてしまうのではないかと思った。
「ばあさんが探しとる人、本当は誰もおらんっちゃない? 全部妄想やろ」
誰かが放ったその一言に、凪と光一が凍りつく。
橙子の震えが止まっていた。
その代わり、目を大きく見開き、片方の目からツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。凪がぎょっとして「橙子」と彼女を呼びかける。でも橙子は自分のことを呼ばれていることが分からないかのように、ふらふらとその場から駆け出した。最初はおぼつかない足取りだったのに、老婆の足とは思えないほどダッシュで那珂流メンバーから離れていく。
「おい、橙子さん!」
光一が声を張り上げた。凪も、我に返ったように「橙子!」と彼女の名前を再び呼ぶ。流メンバーは「もうほっとけよ」と鼻で笑うように光一の肩をポンと軽く叩いた。その手を光一が軽く払いのける。
「伯父さん、悪いけど俺抜けます」
「は? お前何言って……準備はまだ終わってないぞ」
「これだけの人がおるんやけん、俺が一人抜けても大丈夫やろ!? 差し入れだってたくさんもらったんだし、それ食べたら力が出るはずやんっ」
光一はそれだけ言い残すと、橙子の走っていくほうへと駆け出した。すかさず凪も光一を追いかける。
老婆なので、すぐに追いつけるだろう。
そう思ったのに、橙子は意外と逃げ足が速かった。那珂川のほうへと走って、橋を渡ろうとしている。足の速い光一が全速力で橙子を追いかける背中を、凪は必死に見つめていた。
「橙子さんっ!」
やがて光一が、橋の真ん中で橙子の腕を捕まえる。「離して~!」と声を上げる橙子を必死に抱き止めて、「落ち着いてくださいっ」と腕の中でもがく彼女に声をかけた。
「橙子さん、一度呼吸を整えんとっ! いきなり走るなんて心臓にも悪か! 自分の身体のことちゃんと考えて」
光一の必死の訴えに、「イヤダイヤダ」と駄々っ子のように首を横に振る。凪もようやく光一たちに追いついて、振り回される橙子の腕を抑えた。
「橙子、さっきのはあの人たちが悪いけん、気にせんでいい!」
橙子が走っていってしまったのは、那珂流の男たちが橙子に心無い言葉を浴びせたせいだ。そうと分かっていた凪は、橙子は悪くないのだと声を張り上げて伝える。
それでも、橙子は「ウワァァァァン」と子どものように泣きじゃくる。道ゆく人々が何事かとこちらをチラチラと見ている。中にはスマホで「110」通報をしようとしている人まで現れて、凪が「やめて」と止めた。
未だ泣き止まない橙子。完全に興奮状態に陥っている。ほとほと困り果てた凪と光一だったが、光一がふと気づいたかのようにこう尋ねた。
「もしかして橙子さんがずっと探しとるのって、初恋の人?」
橙子の動きがぴたりと止まる。まるで、失くしていたおもちゃを見つけた子どものように涙が引っ込んだ。
図星なのだ、と凪は察する。光一も答えが分かったからか、きりっと表情を引き締めて、橙子に向き直る。
「その人のことが、忘れられない?」
橙子が瞳を伏せながら、ゆっくりと頷いた。
橙子が探していたのは、忘れられない初恋の人だった。凪はてっきり、息子さんや娘さんとばかり思っていたが違ったのだ。
橙子は、今まで泣き腫らしていた顔をくしゃりと歪め、苦痛に耐えるようにして話し出した。
「……その人のことを覚えとらんのに、ずっとここが苦しくて仕方ない」
“ここ”の部分で自分の胸にぎゅっと拳を押し当てる。
「一年前に、階段でつまずいて倒れてからずっと、自分が今いる一メートル先に黒いもやが見えとった」
「黒いもや……?」
凪は思わず疑問の声を上げる。橙子が一年前に階段から落ちて倒れていたということも驚きだが、それ以上に黒いもやが見えるなんて、どう解釈すればいいのか分からない。光一も同じだったのか、目を丸くして橙子の話を聞いていた。
老婆の口から発せられたとは思えないほど鋭い声が、その場に響き渡る。凪がはっとして橙子のほうを見やる。普段、橙子は軽度の認知症のせいか、ぼんやりとしていることが多い。話の内容も、一度聞いたものが多かったり、同じことを何度も繰り返したりと不自然なこともある。だが、今の橙子は確固たる意思のもと、自分の思いを爆発させているように見えた。
しばらくその場は静まり返っていたが、やがて木戸が「フッ」と軽く笑い出した。
「ばあさん、あんたいきなり入ってきて何なん? 俺らの仕事が始まってから集会所にも何度も来とるけど、何の用なん?」
木戸のその鋭い矢のような一言に、周りにいた男たちも加勢する。
「あのばあさん、認知症だろ」
「いつもうちにやってきて迷惑しとったっちゃけど」
「てかばあさんはずっと人探ししとるっちゃろ? その人たち巻き込んで自分のことばっかやん」
「そもそも山笠は男の祭りやし、娘もばあさんも首突っ込むなや」
心無い言葉の数々が、凪や橙子の耳を容赦なく汚していく。
凪ははっとして橙子を見やる。橙子の表情が、悲しみや怒り、寂しさの入り混じった複雑なものに変わっていく。唇はわなわなと震え、今にも崩れ落ちてしまうのではないかと思った。
「ばあさんが探しとる人、本当は誰もおらんっちゃない? 全部妄想やろ」
誰かが放ったその一言に、凪と光一が凍りつく。
橙子の震えが止まっていた。
その代わり、目を大きく見開き、片方の目からツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。凪がぎょっとして「橙子」と彼女を呼びかける。でも橙子は自分のことを呼ばれていることが分からないかのように、ふらふらとその場から駆け出した。最初はおぼつかない足取りだったのに、老婆の足とは思えないほどダッシュで那珂流メンバーから離れていく。
「おい、橙子さん!」
光一が声を張り上げた。凪も、我に返ったように「橙子!」と彼女の名前を再び呼ぶ。流メンバーは「もうほっとけよ」と鼻で笑うように光一の肩をポンと軽く叩いた。その手を光一が軽く払いのける。
「伯父さん、悪いけど俺抜けます」
「は? お前何言って……準備はまだ終わってないぞ」
「これだけの人がおるんやけん、俺が一人抜けても大丈夫やろ!? 差し入れだってたくさんもらったんだし、それ食べたら力が出るはずやんっ」
光一はそれだけ言い残すと、橙子の走っていくほうへと駆け出した。すかさず凪も光一を追いかける。
老婆なので、すぐに追いつけるだろう。
そう思ったのに、橙子は意外と逃げ足が速かった。那珂川のほうへと走って、橋を渡ろうとしている。足の速い光一が全速力で橙子を追いかける背中を、凪は必死に見つめていた。
「橙子さんっ!」
やがて光一が、橋の真ん中で橙子の腕を捕まえる。「離して~!」と声を上げる橙子を必死に抱き止めて、「落ち着いてくださいっ」と腕の中でもがく彼女に声をかけた。
「橙子さん、一度呼吸を整えんとっ! いきなり走るなんて心臓にも悪か! 自分の身体のことちゃんと考えて」
光一の必死の訴えに、「イヤダイヤダ」と駄々っ子のように首を横に振る。凪もようやく光一たちに追いついて、振り回される橙子の腕を抑えた。
「橙子、さっきのはあの人たちが悪いけん、気にせんでいい!」
橙子が走っていってしまったのは、那珂流の男たちが橙子に心無い言葉を浴びせたせいだ。そうと分かっていた凪は、橙子は悪くないのだと声を張り上げて伝える。
それでも、橙子は「ウワァァァァン」と子どものように泣きじゃくる。道ゆく人々が何事かとこちらをチラチラと見ている。中にはスマホで「110」通報をしようとしている人まで現れて、凪が「やめて」と止めた。
未だ泣き止まない橙子。完全に興奮状態に陥っている。ほとほと困り果てた凪と光一だったが、光一がふと気づいたかのようにこう尋ねた。
「もしかして橙子さんがずっと探しとるのって、初恋の人?」
橙子の動きがぴたりと止まる。まるで、失くしていたおもちゃを見つけた子どものように涙が引っ込んだ。
図星なのだ、と凪は察する。光一も答えが分かったからか、きりっと表情を引き締めて、橙子に向き直る。
「その人のことが、忘れられない?」
橙子が瞳を伏せながら、ゆっくりと頷いた。
橙子が探していたのは、忘れられない初恋の人だった。凪はてっきり、息子さんや娘さんとばかり思っていたが違ったのだ。
橙子は、今まで泣き腫らしていた顔をくしゃりと歪め、苦痛に耐えるようにして話し出した。
「……その人のことを覚えとらんのに、ずっとここが苦しくて仕方ない」
“ここ”の部分で自分の胸にぎゅっと拳を押し当てる。
「一年前に、階段でつまずいて倒れてからずっと、自分が今いる一メートル先に黒いもやが見えとった」
「黒いもや……?」
凪は思わず疑問の声を上げる。橙子が一年前に階段から落ちて倒れていたということも驚きだが、それ以上に黒いもやが見えるなんて、どう解釈すればいいのか分からない。光一も同じだったのか、目を丸くして橙子の話を聞いていた。
8
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
なぜ、私に関係あるのかしら?
シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」
彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。
そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。
「…レオンハルト・トレヴァントだ」
非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。
そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。
「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」
この判断によって、どうなるかなども考えずに…
※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。
※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、
※ 画像はAIにて作成しております
身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」
魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。
鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。
(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
腹違いの妹にすべてを奪われた薄幸の令嬢が、義理の母に殴られた瞬間、前世のインテリヤクザなおっさんがぶちギレた場合。
灯乃
ファンタジー
十二歳のときに母が病で亡くなった途端、父は後妻と一歳年下の妹を新たな『家族』として迎え入れた。
彼らの築く『家族』の輪から弾き出されたアニエスは、ある日義母の私室に呼び出され――。
タイトル通りのおっさんコメディーです。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
王宮に薬を届けに行ったなら
佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。
カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。
この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。
慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。
弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。
「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」
驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。
「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」
※ベリーズカフェにも掲載中です。そちらではラナの設定が変わっています。(貴族→庶民)それにより、内容も少し変更しておりますのであわせてお楽しみください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる