博多はつ恋おわらせ屋〜シロヘビさんの幸運結び〜

葉方萌生

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第三章 忘れても忘れない想い

3-7

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「……あぁ。私にはそれが、あの人・・・に思えて仕方ないとよ。きっと私を恨んどる。理由は分からんけど、そんな気がすると。……この辺に初恋を忘れさせてくれるお店があるっていうのも知っとって、いつも中洲辺りを歩いとった。でも那珂流の男性たちを見て、どうもあの中に私の初恋の人がおるような気がして……。おらんって分かっとっても、彼らのことを見守らずにはいられんかったったい」

「橙子さん……」
 
 凪は、橙子がこれまで覚えてもいない初恋の人の影のようなものに悩まされ、苦しめられてきたことを知り、胸がきりきりと痛くなった。光一も同じなのだろう。眉を顰め、痛みに耐えるように歯をぎりぎりと噛み締めている。

「全部私の気のせいやって思われても仕方ないと思う。ほら私、認知症やろ? 記憶がはっきりしてる時とそうでない時があって、支離滅裂なこと言うこともあるやろうし……。さっきも、取り乱して頭の中パニックになっとった。光一くんたちが追いかけて来てくれんかったら、川の中に飛び込んどったかもしれん。黒いもやが、川の上に浮かんどったけんね」

 その話を聞いた凪は、背筋がゾッと震えるようだった。
 もし本当に自分たちが橙子を追いかけなかったら……。
 橙子は黒いもやを追って、橋の上から川に落っこちていたかもしれないのだ。
 想像するだけで胸が抉られるように痛み出す。

「凪さん」

 橙子の背中を優しくさすりながら、光一が凪のほうへ向き直る。

「なに?」

「お願いがある。橙子さんの儀式をしてほしい」

 ひどく真剣な面持ちをした彼が、凪の胸を貫かんばかりの勢いでそう頼み込んだ。

「橙子の儀式を? いや……それは無理やろ」

 凪は静かに首を横に振る。

「なんで!? 橙子さんがこんなに苦しんどるのに助けてやれんってことですか?」

 光一が必死に食い下がる。凪は胸がずきずきと軋むのを感じつつも、儀式ができない理由を伝えようとした。

「いや、私だって助けたいよ。でも橙子さんは初恋の人を忘れとるっちゃろ? そもそも覚えてないなら、儀式なんてしても意味ないよ。それに、お店は今閉店中で——」

 凪が混乱しながら答える。そもそも初恋の相手を忘れているなら、儀式をする意味がないのに、どうして光一は儀式をしてなんて訴えてくるのか。橙子のためとはいえ、やっても意味のないことはできない。儀式をするのにはそれなりに労力もかかってくる。だから光一には諦めてもらうしかない。
 そう思って凪が再び口を開きかけた時、光一が「でも!」と大きな声を上げた。その声に凪も橙子もびくんと身体を揺らす。

「認知症で忘れとったって、心を覚えとるっちゃろ。やけん、苦しんどーとよ。凪さんが始めたお店やろ? お願いやけん、橙子さんの話を聞いてやって」

 普段は凪に対して丁寧な言葉遣いをする光一が、荒々しい口調で思いの丈を叫んだ。あまりの勢いに、凪は呆けたように彼の言葉を受け止める。

「凪さん……ごめんねぇ。もういいとよ。光一くんも、ありがとうねぇ」

 橙子が両手のひらを擦りながら、「ごめんね、ごめんね」と繰り返す。
 そんな橙子の小さな身体を見つめながら、凪はさっき、那珂流の飾り山笠の前で、橙子が自分を庇ってくれたことを思い出した。

——あんた、こんなかわいい娘が親切にしてやっとるのに、その厚意を受け取らんなんてなんばしよっと?

 聞いたことのないような鋭いその声は、確かに凪の心に温かなぬくもりを運んできてくれた。
 そうだ、私は……。
 凪は自分の胸に手を当てる。
 橙子は、確かに不思議な発言をすることもあるけれど、根っこの部分は優しくて強い女性だ。そんな人が、初恋の人のことで苦しんでいる。それならば、光一の言うとおり儀式をするべきではないか。

“この『白蛇の鱗』で初恋を忘れられずに苦しむ人を救いなさい”

 櫛田神社で聞いた天からのお告げを思い出す。
自分は橙子に助けられたまま、何も恩返しができないなんて嫌だ。

「橙子さん。やろう、儀式」

 気がつけば凪の口から一つの想いがこぼれ落ちていた。
 橙子と光一がはっと目を見開く。

「凪さん……気持ちはありがたいんだけどねえ……。私、相手のこと思い出せんけん、儀式はやっぱりできんと思うんよ」

「そんなことない。橙子さんの胸の真ん中に、その人はおるっちゃろ? だったら、完全に思い出せなくても、その人への気持ちはきっとまだ橙子さんの中に残っとる。その人と一緒にいた時の気持ちを思い出せば、断片的にでも記憶が蘇るかもしれん」

 凪は、なんとか橙子の儀式がうまくいくように説得にかかる。しばらくじいっと何かを考え込むようにして視線を宙に彷徨わせていた橙子だったが、やがて気持ちが固まった様子で、「分かったわ」と頷いた。

「凪さんがそこまで言うなら、やらせてもらおうかねぇ」

 普段は「どこにおると~?」と初恋の人も分からずに誰かの面影を探し続ける橙子だったが、この時ばかりは瞳にしっかりと意思の光が宿っていた。

 凪と光一、橙子は歩いて『はつ恋おわらせ屋』へと戻っていく。

「光一、山笠の準備は大丈夫と? 橙子さんのことなら私に任せたらいいけん、光一は戻り」

「いや、いいんです。もともと悪いのは伯父さんたちですし。今日は橙子さんの儀式を見守りたいんです。それよりさっき、せっかく差し入れ持ってきてくれたのにうちの伯父がひどいこと言ってすみませんでした」

 光一が心底申し訳なさそうに凪に頭を下げる。光一が謝ることなど一つもないのに、彼の優しさが身に染みて胸がじんわりと熱くなった。

「光一のせいやない。木戸さんたちが言ったことやろ。同じチームやからって、光一が全部背負う必要はないよ」

 確かに、光一の伯父の木戸が凪の差し入れを拒んだ時、ショックを受けたし傷ついた。でも、突然押しかけた自分も自分だし、光一のように受け入れてくれる人もいる。今の凪にはその事実だけで十分だった。

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