26 / 30
26
しおりを挟む
クロードが商業省で書類不備を起こしたという話が、王都の社交界に広まったのは、冬も深まった頃だった。
リンが昼休みに教えてくれた。
「商業省の第三法令に関する申請書類で、記載の誤りがあったらしいんだけど……それだけなら小さな話なんだけど、問題はその後で」
リンは声を少し落とした。
「誤りを指摘された時に、クロード様が部下に責任をなすりつけようとしたって。それを目撃した職員が複数いて、上官の耳に入ったって話」
書類の不備そのものは軽微だったらしい。
ただ、その後の対応が問題になった。
「エスタント伯爵家がそれを知って、婚約解消を申し出たっていう話が出てるみたい」
セシルは弁当の箸を止めた。
「婚約解消を」
「うん。伯爵家としては、公職での信用問題は看過できないって判断したみたい。しかもその理由が『家格と将来性の不一致』だって話で……なんか、覚えがある言葉でしょ」
リンは少し困った顔で笑った。
セシルは窓の外を見た。
かつてセシルに向けられた言葉が、今度はクロードに向けられた。
そのことを聞いて、自分の中に何が湧くか確認した。
溜飲が下がる、という感覚はなかった。
ざまぁだと思いたい気持ちも、なかった。
ただ、静かだった。
もうあの五年間は、遠い話になっていた。
「知らせてくれてありがとうございます」
「大丈夫? 複雑な気分でしょ」
「複雑、というよりは……もう関係ない話、という感じです」
リンが少し目を細めた。
「それを言えるようになったんだね」
「春の頃とは、自分が変わりましたから」
リンは「そうだね」とだけ言って、コーヒーを一口飲んだ。
その日の午後、セシルは案件の書類整理をしながら、ぼんやりと考えた。
クロードのことを、責める気持ちはなかった。
ただ、あの五年間に気づいたことがある。
自分は、誰かに見ていてほしかったのだと思う。
仕事のことを、やっていることを、積み重ねてきたものを。
クロードはそれをしなかった。
できなかったのか、しようとしなかったのかは、今となってはわからない。
でも、エドワードは見ていた。
報告書の構造を読んで、折衝の場面を廊下から見て、緊急案件の内容を朝に確認して、名前を全体集会で呼んだ。
見ている、ということは、それだけで誰かを救う。
セシルはそう思いながら、書類にペンを走らせた。
夕方、長官室の前を通った時、扉の向こうから低い声が聞こえた。
ヴィクトルと何かを話しているらしかった。
足を止めずに通り過ぎた。
でも、廊下を歩きながら、胸の中にある感情の輪郭が、今日はいつもより少しだけはっきりしているのを感じた。
認めてしまえば、簡単なことだった。
好きだ、と思っていた。
いつからかは、わからなかった。
傘の夜かもしれないし、コーヒーの夜かもしれないし、雪の夜かもしれなかった。
気づいたら、もうそこにあった。
でも、それをどうするかは、まだわからなかった。
上司だった。
侯爵だった。
自分は男爵令嬢で、仕事だけを頼りに今ここにいた。
冬の廊下は少し冷えていた。
窓の外に、暮れていく空が見えた。
橙から、紺へと変わっていく境目が、遠くにあった。
リンが昼休みに教えてくれた。
「商業省の第三法令に関する申請書類で、記載の誤りがあったらしいんだけど……それだけなら小さな話なんだけど、問題はその後で」
リンは声を少し落とした。
「誤りを指摘された時に、クロード様が部下に責任をなすりつけようとしたって。それを目撃した職員が複数いて、上官の耳に入ったって話」
書類の不備そのものは軽微だったらしい。
ただ、その後の対応が問題になった。
「エスタント伯爵家がそれを知って、婚約解消を申し出たっていう話が出てるみたい」
セシルは弁当の箸を止めた。
「婚約解消を」
「うん。伯爵家としては、公職での信用問題は看過できないって判断したみたい。しかもその理由が『家格と将来性の不一致』だって話で……なんか、覚えがある言葉でしょ」
リンは少し困った顔で笑った。
セシルは窓の外を見た。
かつてセシルに向けられた言葉が、今度はクロードに向けられた。
そのことを聞いて、自分の中に何が湧くか確認した。
溜飲が下がる、という感覚はなかった。
ざまぁだと思いたい気持ちも、なかった。
ただ、静かだった。
もうあの五年間は、遠い話になっていた。
「知らせてくれてありがとうございます」
「大丈夫? 複雑な気分でしょ」
「複雑、というよりは……もう関係ない話、という感じです」
リンが少し目を細めた。
「それを言えるようになったんだね」
「春の頃とは、自分が変わりましたから」
リンは「そうだね」とだけ言って、コーヒーを一口飲んだ。
その日の午後、セシルは案件の書類整理をしながら、ぼんやりと考えた。
クロードのことを、責める気持ちはなかった。
ただ、あの五年間に気づいたことがある。
自分は、誰かに見ていてほしかったのだと思う。
仕事のことを、やっていることを、積み重ねてきたものを。
クロードはそれをしなかった。
できなかったのか、しようとしなかったのかは、今となってはわからない。
でも、エドワードは見ていた。
報告書の構造を読んで、折衝の場面を廊下から見て、緊急案件の内容を朝に確認して、名前を全体集会で呼んだ。
見ている、ということは、それだけで誰かを救う。
セシルはそう思いながら、書類にペンを走らせた。
夕方、長官室の前を通った時、扉の向こうから低い声が聞こえた。
ヴィクトルと何かを話しているらしかった。
足を止めずに通り過ぎた。
でも、廊下を歩きながら、胸の中にある感情の輪郭が、今日はいつもより少しだけはっきりしているのを感じた。
認めてしまえば、簡単なことだった。
好きだ、と思っていた。
いつからかは、わからなかった。
傘の夜かもしれないし、コーヒーの夜かもしれないし、雪の夜かもしれなかった。
気づいたら、もうそこにあった。
でも、それをどうするかは、まだわからなかった。
上司だった。
侯爵だった。
自分は男爵令嬢で、仕事だけを頼りに今ここにいた。
冬の廊下は少し冷えていた。
窓の外に、暮れていく空が見えた。
橙から、紺へと変わっていく境目が、遠くにあった。
9
あなたにおすすめの小説
侯爵家の婚約者に手を出す意味、わかってます?
碧井 汐桜香
恋愛
侯爵令嬢ジョセリアは地味な外見をしている少女だ。いつも婚約者のアランとその取り巻きの少女たちに罵倒されている。
しかし、今日はアランの取り巻きは一人しかおらず、いつも無視を決め込んでいたジョセリアが口を開いた。
「貧相な小娘」と罵った第一王子へ。番(つがい)は貴方ではなく、国王陛下(お父様)でした
しえろ あい
恋愛
「お父様、わたくし、あの方と目が合った瞬間、分かってしまったのです」
十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。
会場に響く冷笑と、愛用の刺繍に込めた自信さえ打ち砕くような屈辱。しかし、絶望の淵に立たされた彼女を見つめていたのは、王子ではなく、圧倒的な威厳を放つ「ある男」だった。
魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。
※小説家になろう様にも投稿しています※
ちゃんと忠告をしましたよ?
柚木ゆず
ファンタジー
ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。
「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」
アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。
アゼット様。まだ間に合います。
今なら、引き返せますよ?
※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。
邪魔者な私なもので
あんど もあ
ファンタジー
婚約者のウィレル様が、私の妹を食事に誘ったと報告をしてきました。なんて親切な方なのでしょう。でも、シェフが家にいるのになぜレストランに行くのですか?
天然な人の良いお嬢さまが、意図せずざまぁをする話。
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
人生の全てを捨てた王太子妃
八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。
傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。
だけど本当は・・・
受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。
※※※幸せな話とは言い難いです※※※
タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。
※本編六話+番外編六話の全十二話。
※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。
不器量令嬢は、婚約破棄の断罪が面倒くさい
あんど もあ
ファンタジー
不器量なマルグリットは、婚約者の美しい第一王子からずっと容姿を貶められる日々。とうとう王立学園の卒業パーティーで王子に婚約破棄を宣言され、「王子から解放される! それいいかも!」となったが、続く断罪が面倒くさくて他の人に丸投げする事にする。
公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌
招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」
毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。
彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。
そして…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる