これで、私も自由になれます

たくわん

文字の大きさ
2 / 12

帰郷

しおりを挟む
王都から辺境のノイシュタット領まで、馬車で三日の道のりだ。

エリザベートは、揺れる馬車の中で書類に目を通していた。領地から定期的に送られてくる報告書。収穫量、税収、人口動態、商業活動の記録。数字が羅列された、社交界の令嬢たちが見たら卒倒しそうな書類だ。

しかし、彼女の目は輝いていた。

「小麦の収穫量が前年比で八パーセント増加……土壌改良の効果が出始めているわね」

彼女は小さく呟き、別の書類に目を移した。

「新しい街道の工事は順調。来年の春には完成予定。これで王都への輸送時間が二日短縮できる」

窓の外、景色が徐々に変わっていく。王都の華やかな石造りの建物から、木造の農家へ。整備された石畳の道から、轍の残る土の道へ。

しかし、エリザベートの表情は明るくなっていく。

「お嬢様」

御者台から声が掛かった。エリザベートに仕える侍女、マルタだ。五十代の、温厚だが芯の強い女性。

「もうすぐノイシュタットの領境です」
「ありがとう、マルタ」

エリザベートは書類を鞄にしまい、窓から顔を出した。

見慣れた風景が広がっている。

なだらかな丘陵地帯。麦畑が風に揺れている。遠くに小さな村が見える。質素だが、手入れの行き届いた農地。

ここが、彼女の故郷だ。

馬車は領境を示す標識を通過した。木製の簡素な標識に、「リヒテンシュタイン辺境伯領 ノイシュタット」と刻まれている。

「やはり、標識は新しくしないと」

エリザベートは呟いた。

「来年度の予算に組み込みましょう」

馬車はさらに進み、やがて領都ノイシュタットの町が見えてきた。

人口五千人ほどの小さな町。石造りの建物は少なく、多くが木造だ。中央に小さな広場があり、その奥に辺境伯の居城が見える。城と言っても、四階建ての石造りの館といった程度の規模だ。

しかし、町は活気に満ちていた。

広場では市が開かれ、商人たちが声を張り上げている。農民たちが荷車を引き、職人たちが工房で働いている。

三年前、エリザベートが本格的に領地経営に関わり始めた頃とは、明らかに違う。

あの頃、この町はもっと沈んでいた。人々の表情は暗く、建物は荒れ、道は泥だらけだった。

「変わったものですね」

マルタが感慨深げに言った。

「お嬢様が采配を振るい始めてから、この領地は見違えるようになりました」
「まだ、始まったばかりよ」

エリザベートは静かに答えた。

「やるべきことは、山ほどある」

馬車は居城の門をくぐった。

門番たちが敬礼する。エリザベートは軽く手を上げて応えた。

中庭で馬車が止まり、エリザベートが降りると、執事のフリードリヒが迎えに出ていた。六十代の白髪の老人で、エリザベートの祖父の代から仕えている。

「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、フリードリヒ。父は?」
「書斎におられます。お嬢様の帰りを心待ちにしておられました」

エリザベートは頷き、城内に入った。

廊下を歩きながら、彼女は城の様子を観察した。壁は清潔に保たれ、床は磨かれている。窓からは中庭の花壇が見える。質素だが、手入れは行き届いている。

書斎の扉をノックすると、中から弱々しい声が聞こえた。

「入りなさい」

エリザベートが扉を開けると、そこには病弱な父、エルンスト・フォン・リヒテンシュタインが座っていた。

五十代だが、病のせいで実年齢より老けて見える。痩せた身体、青白い顔。しかし、その目には優しさと知性が宿っていた。

「父上」

エリザベートは近づき、父の手を取った。

「エリザベート……無事に帰ってきたか」
「はい」

エルンストは娘の顔をじっと見た。

「……婚約は、解消されたのだな」
「ご存知でしたか」
「昨日、使者が来た」

エルンストは小さく咳をした。

「アレクサンダー公爵家から、正式な通知が。すまない……父として、お前を守れなかった」
「父上」

エリザベートは優しく微笑んだ。

「気になさらないでください。むしろ、これで良かったのです」

エルンストは驚いたように娘を見た。

「良かった、とは?」
「私は、あの社交界には向いていませんでした。毎日、虚飾に満ちた会話を繰り返し、意味のない舞踏会に出席し……本当にやりたいことができませんでした」

エリザベートは父の手を握った。

「でも、これでもう自由です。この領地で、本当にやりたいことに専念できます」

エルンストの目に、涙が浮かんだ。

「エリザベート……お前は、本当に優しい娘だ。私のような無能な父を持ったばかりに……」
「父上は無能ではありません」

エリザベートはきっぱりと言った。

「父上は心優しく、領民を愛し、正しい統治を心掛けてこられました。ただ、病が父上の力を奪ってしまっただけです」
「だが、領地経営は……」
「私に任せてください」

エリザベートの目に、強い決意が宿った。

「私は、この領地を必ず繁栄させます。王国中が驚くような、豊かで活気のある領地に」

エルンストは娘の顔を見つめた。

その目には、まだ見ぬ未来を見据える強い光があった。社交界では「地味」と言われていた娘が、今、こんなにも輝いて見える。

「……分かった」

エルンストは頷いた。

「お前に、全てを任せよう。私の代わりに、この領地を頼む」
「はい」

エリザベートは深く一礼した。

父との会話を終え、エリザベートは自室に向かった。

三階にある彼女の部屋は、質素だった。ベッド、机、本棚。装飾品はほとんどない。しかし、本棚には経済学、政治学、農学、工学の書物がぎっしりと詰まっている。

机の上には、領地の地図が広げられていた。

エリザベートはその地図を見つめた。

ノイシュタット領。面積は中規模。人口は約二万人。主な産業は農業と、わずかな鉱業。王国の辺境に位置し、交通の便は悪い。

しかし、可能性はある。

未開発の鉱山。肥沃な土地。勤勉な領民。

そして、何より。

「私がいる」

エリザベートは小さく呟いた。

彼女は引き出しから、一冊のノートを取り出した。

そこには、彼女が何年もかけて練り上げてきた計画が、びっしりと書き込まれている。

「ノイシュタット領発展計画」

第一段階:農業改革と生産性向上
第二段階:鉱山開発と工業の育成  
第三段階:商業路の整備と交易の拡大
第四段階:教育と技術の振興
第五段階:王国有数の経済圏への発展

それぞれの段階に、詳細な施策と予算計画が書き込まれている。

エリザベートは王都にいる間も、この計画を練り続けていた。社交界の令嬢たちが恋愛話に花を咲かせている間、彼女は経済書を読み、商人から話を聞き、数字を計算していた。

「アレクサンダー様には、申し訳ないことをしたわ」

エリザベートは苦笑した。

彼が領地経営の相談をしてきた時、彼女は喜んで応えていた。しかし、それは愛情ではなく、単に実務的な話ができる喜びだった。

彼女が求めていたのは、恋愛ではなく、知的な刺激。数字と計画と、目に見える成果。

「でも、もう終わったこと」

エリザベートは立ち上がり、窓の外を見た。

夕日が、麦畑を赤く染めている。農民たちが畑仕事を終え、家路につく姿が見える。

明日から、本格的に動き始める。

婚約破棄という足枷から解放された今、彼女は全力でこの領地の発展に取り組める。

「待っていてください、父上。そして、領民の皆さん」

エリザベートは決意を新たにした。

「必ず、この領地を繁栄させます」

その夜、エリザベートは城の執務室に主要な家臣たちを集めた。

執事フリードリヒ、騎士団長ヴォルフガング、財務官ハインリヒ、農務官クラウス。いずれも五十代以上の、古参の家臣たちだ。

彼らは、突然の召集に戸惑いの表情を浮かべていた。

「皆様、お集まりいただきありがとうございます」

エリザベートは席に着くと、まっすぐに彼らを見た。

「本日より、私が父に代わって、この領地の実質的な統治を行います」

家臣たちの間に、微かな動揺が走った。

「お嬢様」

財務官ハインリヒが口を開いた。

「それは、辺境伯様のご命令で?」
「はい。父上の全面的な信任を得ています」

エリザベートは頷いた。

「そして、今後の領地運営について、大きな改革を行います」

「改革、ですか」

騎士団長ヴォルフガングが眉をひそめた。

「具体的には、どのような?」
「まず、農業改革です」

エリザベートは地図を広げた。

「現在の三圃式農法から、輪作制への移行を進めます。休閑地を減らし、マメ科植物を取り入れることで、土壌の肥沃度を保ちながら生産量を増やします」

家臣たちは顔を見合わせた。

「次に、鉱山開発。北部の丘陵地帯に、鉄鉱石の鉱脈があることが確認されています。これを本格的に開発し、製鉄業を興します」
「お嬢様」

農務官クラウスが困惑した様子で言った。

「それは……あまりにも大胆な計画では。資金も人手も必要ですし……」
「資金については、すでに計画があります」

エリザベートは別の書類を取り出した。

「現在の領地の財政状況と、今後五年間の収支予測。そして、必要な投資額と、それによって得られる利益の試算です」

彼女が差し出した書類を、ハインリヒが受け取った。

財務官としての長年の経験を持つ彼は、数字に目を通すうちに、徐々に表情を変えていった。

「これは……」
「いかがですか、ハインリヒ殿」
「……驚きました」

ハインリヒは率直に言った。

「非常に緻密な計画です。リスクも織り込まれており、現実的な数字です。これなら……実現可能かもしれません」

他の家臣たちの表情が、わずかに変わった。

「しかし」

ヴォルフガングが言った。

「農民たちが、新しいやり方を受け入れるでしょうか。人は変化を嫌うものです」
「その通りです」

エリザベートは頷いた。

「だからこそ、段階的に進めます。まず、領地直轄の農地で試験的に実施し、成果を見せる。そして、希望する農民から順次導入していく。強制はしません」
「なるほど……」

クラウスが感心したように呟いた。

「それなら、抵抗も少ないでしょう」
「人手については」

エリザベートは続けた。

「近隣の領地から募集します。賃金を適正に支払い、住居も用意します。この領地で働けば、生活が向上すると分かれば、人は自然と集まってきます」

家臣たちは、若き令嬢の言葉に聞き入っていた。

わずか二十二歳の女性が、これほど具体的で現実的な計画を提示している。

「お嬢様」

フリードリヒが言った。

「我々は、お嬢様が王都で社交界の令嬢として過ごされている間、お嬢様のことを少し見くびっておりました」
「フリードリヒ……」
「しかし、今、理解しました」

老執事は深く頭を下げた。

「お嬢様こそが、この領地に必要な方だと」

他の家臣たちも、一斉に頭を下げた。

エリザベートは立ち上がり、彼らに向かって言った。

「皆様の協力が必要です。私一人では、何もできません。どうか、力を貸してください」
「はい」

四人の家臣が、声を揃えた。

「我らの全力を尽くします」

会議は夜遅くまで続いた。

具体的な実施計画、予算配分、人員配置。細部まで詰めていく。

エリザベートは一つ一つの質問に答え、問題点を洗い出し、解決策を提示していった。

家臣たちは、彼女の知識の深さと、思考の明晰さに驚嘆した。

これが、社交界で「つまらない」と言われていた令嬢なのか、と。

会議が終わり、家臣たちが退出した後、エリザベートは一人、執務室に残った。

窓の外は真っ暗だ。星が瞬いている。

「始まったわね」

彼女は小さく呟いた。

これから、険しい道のりが待っている。失敗も、挫折もあるだろう。

しかし、彼女は恐れていなかった。

むしろ、心が躍っていた。

これこそが、彼女が本当に求めていたもの。

数字と現実が交わる場所。

計画が形になり、人々の生活が良くなっていく過程。

「見ていてください、アレクサンダー様」

エリザベートは夜空を見上げた。

「あなたが『つまらない』と言った私が、どこまで行けるか」

その目には、静かな闘志が宿っていた。

王都では、婚約破棄された哀れな令嬢として噂されているだろう。

しかし、ここでは違う。

ここでは、彼女が主役だ。

彼女の物語が、今、本当に始まろうとしていた。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。

黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」 豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。 しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

婚約者が聖女を選ぶことくらい分かっていたので、先に婚約破棄します。

黒蜜きな粉
恋愛
魔王討伐を終え、王都に凱旋した英雄たち。 その中心には、異世界から来た聖女と、彼女に寄り添う王太子の姿があった。 王太子の婚約者として壇上に立ちながらも、私は自分が選ばれない側だと理解していた。 だから、泣かない。縋らない。 私は自分から婚約破棄を願い出る。 選ばれなかった人生を終わらせるために。 そして、私自身の人生を始めるために。 短いお話です。

結婚十年目の夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。彼は「送り間違えた」というけれど、それはそれで問題なのでは?

ぽんた
恋愛
レミ・マカリスター侯爵夫人は、夫と政略結婚をして十年目。侯爵夫人として、義父母の介護や領地経営その他もろもろを完ぺきにこなしている。そんなある日、王都に住む夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。義弟を通じ、夫を追求するも夫は「送り間違えた。ほんとうは金を送れというメモを送りたかった」という。レミは、心から思った。「それはそれで問題なのでは?」、と。そして、彼女の夫にたいするざまぁがはじまる。 ※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。

《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。

ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」 その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。

婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの
恋愛
主人公ルシアン・ヴァイオレットは、「悪役令嬢」として振る舞う孤独愛好家の公爵令嬢。念願だった第一王子アランとの婚約破棄を言い渡されると、内心では歓喜し、大都会の喧騒から逃れて森の奥の廃墟同然の別荘へと引きこもる。ルシアンの目的は、誰にも邪魔されない至高の静寂ライフを満喫することだった。 しかし、彼女の理想郷にはすでに先客がいた。それは、無口で無愛想だがハイスペックな謎の男、キース。実は彼は、王国の裏社会を統べる『影の英雄』と呼ばれる辺境伯であり、ルシアンの孤高の姿に心奪われた重度の隠れファンだった。

【完結】これをもちまして、終了とさせていただきます

楽歩
恋愛
異世界から王宮に現れたという“女神の使徒”サラ。公爵令嬢のルシアーナの婚約者である王太子は、簡単に心奪われた。 伝承に語られる“女神の使徒”は時代ごとに現れ、国に奇跡をもたらす存在と言われている。婚約解消を告げる王、口々にルシアーナの処遇を言い合う重臣。 そんな混乱の中、ルシアーナは冷静に状況を見据えていた。 「王妃教育には、国の内部機密が含まれている。君がそれを知ったまま他家に嫁ぐことは……困難だ。女神アウレリア様を祀る神殿にて、王家の監視のもと、一生を女神に仕えて過ごすことになる」 神殿に閉じ込められて一生を過ごす? 冗談じゃないわ。 「お話はもうよろしいかしら?」 王族や重臣たち、誰もが自分の思惑通りに動くと考えている中で、ルシアーナは静かに、己の存在感を突きつける。 ※39話、約9万字で完結予定です。最後までお付き合いいただけると嬉しいですm(__)m

婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話

ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。 リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。 婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。 どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。 死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて…… ※正常な人があまりいない話です。

処理中です...