これで、私も自由になれます

たくわん

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アレクサンダーの転落

王都、ローゼンベルク公爵邸。

豪華なシャンデリアが輝く大広間で、アレクサンダー・フォン・ローゼンベルクは書類の山に囲まれていた。

領地からの報告書、支出の記録、税収の報告。数字が並ぶ書類を見るたびに、彼の頭は痛くなった。

「アレクサンダー様」

秘書官が心配そうに声をかけた。

「お顔の色が優れませんが……」
「大丈夫だ」

アレクサンダーは額を押さえた。

婚約破棄から三ヶ月。ソフィアと結婚してから二ヶ月が経っていた。

新婚生活は、当初は幸せだった。明るく華やかなソフィアと過ごす日々は、まるで夢のようだった。

しかし、現実は甘くなかった。

「今月の支出が、また予算を超過しています」

秘書官が別の書類を差し出した。

「奥様の宝飾品の購入、衣装の新調、それから先週の晩餐会の費用……」

アレクサンダーは書類を見て、ため息をついた。

どれも、ソフィアの浪費だった。

「また、か」
「それから」

秘書官は言いにくそうに続けた。

「領地の税収が、前年比で十五パーセント減少しております」
「何だって?」

アレクサンダーは顔を上げた。

「なぜだ?」
「昨年の冷害の影響と、それから……家臣たちの報告によれば、殿が領地経営に関心を払わなくなったため、様々な問題が放置されているとのことです」

アレクサンダーは言葉を失った。

確かに、この数ヶ月、領地のことはほとんど考えていなかった。ソフィアとの新婚生活に夢中で、報告書も読まずに決裁していた。

「それから、こちらは……」

秘書官が、さらに分厚い書類を差し出した。

「父上からの伝言です。『無駄な支出を抑え、領地経営を立て直せ。さもなくば、お前を後継者から外すことも考える』と」

アレクサンダーの顔が青ざめた。

公爵位を継げない。それは、彼にとって考えられないことだった。

「分かった……何とかする」

秘書官が退出した後、アレクサンダーは一人、書類を見つめた。

数字、数字、数字。

昔、エリザベートは、こういう書類を読むのが好きだと言っていた。

彼女は、領地の収支や経営改善について、熱心に話していた。

当時、アレクサンダーはそれを「つまらない」と感じていた。

でも、今なら分かる。

あれは、愛情表現だった。

彼女なりの、支える方法だった。

「エリザベート……」

アレクサンダーは呟いた。

彼女がいれば、こんな問題はすぐに解決してくれただろう。彼女は数字に強く、計画的で、現実的だった。

でも、彼は彼女を手放した。

「アレクサンダー様!」

扉が勢いよく開き、ソフィアが入ってきた。

華やかなドレスに身を包み、高価な宝石を身につけている。その笑顔は、いつも通り明るい。

「今日は素晴らしいお知らせがありますのよ!」
「……何だ?」

アレクサンダーは疲れた声で答えた。

「今週末、マルクス侯爵家で大舞踏会が開かれるのです。王都中の貴族が集まるそうですわ!」

ソフィアは興奮した様子で続けた。

「私、新しいドレスを注文しようと思って。それから、髪飾りも新調しないと。ああ、靴も必要ですわね」
「ソフィア」

アレクサンダーは額に手を当てた。

「今は、そういう時ではない」
「まあ、どういう意味ですの?」

ソフィアは不満そうな顔をした。

「あなたの妻として、恥ずかしくない装いをするのは当然のことですわ」
「だが、今月の支出はすでに……」
「お金のことなんて、私に言わないでください」

ソフィアは不機嫌そうに言った。

「そんなつまらない話、聞きたくありませんわ。あなたは公爵家の御曹司でしょう? お金なんて、いくらでもあるはずですわ」
「いくらでも、あるわけではない!」

アレクサンダーは、つい声を荒げた。

ソフィアは驚いたように目を見開いた。

「まあ……あなた、私に怒鳴るのですか?」
「すまない」

アレクサンダーはすぐに謝った。

「だが、本当に今は財政が厳しいんだ。少し、支出を控えてくれないか」

ソフィアの顔が、見る見るうちに不機嫌になった。

「つまらない。あなたって、本当につまらない人だったのですね」

彼女はくるりと背を向けた。

「あの人の方が、まだマシでしたわ」
「あの人?」
「エリザベート様ですわ」

ソフィアは振り返った。

「あの方は地味で社交性もありませんでしたけど、少なくともあなたの相談に乗っていたでしょう? 私には、お金の心配なんてさせないでくださいな」

そう言い残して、ソフィアは部屋を出て行った。

アレクサンダーは、一人残された。

静寂の中、彼は深くため息をついた。

間違えた、と彼は思った。

エリザベートは地味だったかもしれない。社交界では目立たなかったかもしれない。

でも、彼女は賢かった。現実的だった。そして、何より、彼を支えようとしてくれていた。

一方、ソフィアは華やかで魅力的だが……それだけだった。

「取り返しがつかない」

アレクサンダーは呟いた。

その日の夕方、王都の社交クラブで、貴族たちが集まっていた。

「聞いたか? ローゼンベルク公爵家の財政が悪化しているらしい」
「ああ、知っている。若様の新しい奥方が、とんでもない浪費家だそうだ」
「それに、領地経営もうまくいっていないとか」

貴族たちの噂話は、容赦なかった。

「あの若様、前の婚約者を手放したのは失敗だったな」
「リヒテンシュタイン辺境伯の令嬢だろう? 地味だが、賢い娘だったと聞く」
「そうそう。領地経営にも詳しかったらしい。もったいないことをしたものだ」

その会話を、偶然通りかかったアレクサンダーは聞いてしまった。

彼は足を止め、壁の陰に身を隠した。

「まあ、若いうちは華やかな女性に惹かれるものさ」
「だが、結婚となれば別だ。妻に必要なのは、美貌や社交性だけではない」
「その通り。賢さ、思慮深さ、そして何より、家を支える力だ」

貴族たちは、さらに続けた。

「それに、リヒテンシュタイン辺境伯領が発展しているという噂も聞くぞ」
「本当か? あの辺境が?」
「ああ。どうやら、あの令嬢が領地経営を采配しているらしい。農業改革、鉱山開発、商業の振興……かなり本格的だそうだ」
「ほう……あの地味な令嬢が、ねえ」

アレクサンダーは、信じられない思いで聞いていた。

エリザベートが、領地経営で成果を上げている?

「王都の商人ギルドでも、話題になっているらしい。『次世代の経営者』として注目されているとか」
「それは興味深い。一度、話を聞いてみたいものだ」

貴族たちの会話は続いたが、アレクサンダーはもう聞いていなかった。

彼は静かにその場を離れ、外に出た。

夜の王都。煌びやかな街並み。

しかし、彼の心は暗かった。

自分は、何という過ちを犯したのだろう。

エリザベートは、本当は素晴らしい女性だった。

彼女の価値を、彼は理解していなかった。

華やかさや社交性ばかりを求めて、本当に大切なものを見失っていた。

「エリザベート……」

アレクサンダーは夜空を見上げた。

今、彼女は辺境で頑張っているのだろう。

自分を捨てた男のことなど、もう忘れて。

自分の道を、まっすぐに歩んでいるのだろう。

アレクサンダーの胸に、深い後悔が広がった。

翌日、アレクサンダーは父である公爵に呼ばれた。

公爵の執務室。厳格な父が、険しい顔で座っていた。

「アレクサンダー」

公爵の声は冷たかった。

「お前の放蕩ぶりは、目に余る」
「父上……」
「財政は悪化し、領地経営は混乱している。その上、社交界でも良からぬ噂が立っている」

公爵は書類を叩きつけた。

「これが、お前の選んだ道か」
「申し訳ございません」

アレクサンダーは頭を下げた。

「リヒテンシュタイン辺境伯の令嬢を手放したのは、愚かだったな」

公爵は冷たく言った。

「あの娘は賢かった。地味だが、実務に強く、お前を支えられる女性だった」
「……はい」
「だが、お前は華やかな子爵令嬢に目が眩んだ。そして今、その代償を払っている」

公爵は立ち上がった。

「アレクサンダー、よく聞け。もし一年以内に財政を立て直せなければ、お前を後継者から外す」
「父上!」
「これは最後通告だ」

公爵は背を向けた。

「出て行け」

アレクサンダーは、力なく執務室を後にした。

廊下を歩きながら、彼は自分の人生を振り返った。

全てが、婚約破棄から狂い始めた。

いや、違う。

狂っていたのは、自分自身だった。

本当に大切なものを見極められず、表面的な華やかさに惑わされた。

「エリザベート……」

アレクサンダーは呟いた。

「君は、今、幸せだろうか」

彼女が幸せであることを、彼は願った。

それが、せめてもの償いだと思った。

その頃、ノイシュタット領では。

エリザベートは、完成したばかりの倉庫を視察していた。

大きな石造りの建物。穀物を保管するための、最新の設備を備えている。

「素晴らしい出来ですね、お嬢様」

商人のハンスが感激した様子で言った。

「これで、収穫期も安心して保管できます」
「これも、皆さんの協力があってこそです」

エリザベートは微笑んだ。

彼女の周りには、多くの商人や農民が集まっていた。

皆、希望に満ちた表情をしている。

この三ヶ月で、領地は確実に変わり始めていた。

農業改革は順調に進み、直轄地の収穫量は前年比で二十パーセント増加した。

鉱山開発も始まり、雇用が生まれている。

道路整備は半分まで進み、王都への輸送時間は短縮されつつある。

そして、何より。

人々が、希望を持ち始めていた。

「お嬢様」

農夫のペーターが近づいてきた。

「他の村からも、新しい農法を学びたいという人が来ています」
「それは良いことですね」

エリザベートは頷いた。

「喜んで教えましょう。知識は、共有すべきものです」

彼女は、領地の未来を見据えていた。

まだまだ、やるべきことは山ほどある。

でも、確実に、一歩ずつ前に進んでいる。

「お嬢様」

侍女のマルタが近づいてきた。

「王都から、また手紙が届いています」
「誰から?」
「商人ギルドのシュミット様からです」

エリザベートは手紙を受け取り、開いた。

『拝啓、リヒテンシュタイン令嬢様

貴女の領地経営の噂は、王都まで届いております。我がギルドとしても、大変興味深く拝見しております。

つきましては、一度お時間をいただき、正式に商談をさせていただきたく存じます。

貴女の領地の特産品を、我がギルドで扱わせていただけないでしょうか。

ご返事をお待ちしております。

商人ギルド長 グスタフ・シュミット』

エリザベートの目が輝いた。

「マルタ、返事を書く準備をして」
「はい」

彼女は倉庫の窓から、遠くの麦畑を見た。

風に揺れる黄金色の穂。

その向こうに、さらなる未来が見える。

「見ていてください、アレクサンダー様」

エリザベートは小さく呟いた。

「あなたが捨てた『つまらない』私が、どこまで行けるか」

その目には、静かな炎が燃えていた。

後悔するのは、あなたの方だと。

そう、彼女は確信していた。
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