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マルガレーテが最初にそのドレスを着たのは、商家の婦人たちが集まる秋の茶会だった。フィーネはその場にいなかったが、結果は翌日のうちに届いた。
ニクラスが工房に飛び込んできて、息を切らしながら言った。
「大変なことになりました」
フィーネは針を持つ手を止めた。何か問題が起きたのかと身構えたが、ニクラスの顔は笑っていた。
「注文です。七件。うちの母のドレスを見た婦人たちが、こぞって『あの仕立て屋を教えて』と」
七件。一人で回している工房に、七件。嬉しさと恐怖が同時に押し寄せた。
「……受けられるでしょうか」
「受けなければ始まりません。ただ、一人では無理だ」
それはわかっていた。フィーネの腕は一対しかない。
ニクラスが二人の女性を連れてきたのは、その三日後だった。エルマとヨハナ。どちらも四十代で、かつて別の仕立て屋で針子をしていたが、店が畳まれて以来職を探していたという。
「腕は確かです。ただ、メゾン・フローラのやり方を覚えてもらう必要はあるでしょうね」
ニクラスはそう言って、あとはフィーネに任せた。経営への口出しはしないという約束を、彼は律儀に守っていた。
フィーネはエルマとヨハナに、まず母のデザイン画帳を見せた。それから自分の刺繍の技法を実演した。二人は目を丸くして針先を見つめ、それから顔を見合わせて頷いた。
「お嬢様、これは——すごい技術ですね」
「お嬢様はやめてください。フィーネで構いません」
三人での作業が始まった。基本的な縫製はエルマとヨハナが担当し、デザインと刺繍の仕上げはフィーネが行う。最初はぎこちなかった連携も、一着、二着と仕上げるうちに噛み合い始めた。
注文をこなす日々の中で、フィーネはひとつのことに気づいた。依頼主の話を聞く時間が、何より大切だということだ。
ある商家の夫人は、夫の事業が傾きかけていて不安を抱えていた。別の夫人は、最近太ったことを気にしていた。またある夫人は、嫁ぎ先の姑との関係に疲れていた。
服の話をしているうちに、そういうことが自然とこぼれ落ちてくる。フィーネはそれを聞き流さなかった。不安を抱えている人には、背筋が伸びるような仕立てを。体型を気にしている人には、長所を引き立てるラインを。疲れている人には、鏡の前で少しだけ笑顔になれる色を。
母がそうしていたように。
出来上がったドレスを受け取った夫人たちの反応は、どれも似ていた。鏡の前で一瞬止まり、それから表情がほどける。その瞬間が、フィーネにとって何よりの報酬だった。
ニクラスとの打ち合わせは週に一度、工房の奥の小さなテーブルで行われた。帳簿を広げ、収支を確認し、次の仕入れを相談する。
「順調ですね。このペースなら、年内に初期投資の三割は回収できる」
「そんなに早く」
「いい商品は売れるんです。当たり前のことですよ」
ニクラスは淡々と数字を読み上げるが、時折フィーネの作業を見る目は数字を見る目とは違っていた。フィーネもそれに気づいてはいたが、気づかないふりをしていた。
今はまだ、仕事の話だけでいい。そう思っていた。
転機は、ある秋の茶会で訪れた。
商家の夫人の一人が、貴族の婦人たちが集まる社交の場にフィーネのドレスを着て出席した。フィーネの名は伏せられていたが、そのドレスは確実に目を引いた。
深い葡萄色の生地に、蔦の葉を模した刺繍。光の加減で模様が浮き沈みする仕掛けは、他のどの仕立て屋にも真似できないものだった。
「あの刺繍、見たことのない技法ね」
「どちらの仕立て屋かしら」
囁きが広がり、やがて名前が明かされた。メゾン・フローラ。ヴァイスベルク伯爵家の令嬢が手がける工房。
ざわめきが走った。婚約破棄されたあの令嬢が、仕立て屋を——?
好奇と驚きの混じった視線が、フィーネの知らないところで交差していた。一方、社交界の話題の中心には相変わらずルートヴィヒとカミラがいた。華やかな二人の姿は、夜会のたびに人々の目を楽しませていた。まだ、誰もフィーネのことなど気に留めていない。
けれど、種は蒔かれた。
数日後、工房に一通の手紙が届いた。差出人は、バルトロメ男爵夫人。社交界ではそれほど目立つ存在ではないが、堅実な家柄で知られている。
手紙には、冬の晩餐会に着るドレスの注文が、丁寧な文面で綴られていた。貴族の婦人からの、初めての正式な依頼。
フィーネは手紙を読み返し、工房の窓から差し込む午後の光を見た。
ニクラスがいつものように帳簿を持って現れた。手紙を見せると、彼は少し目を細めて笑った。
「おめでとうございます、フローラの二代目」
「まだ二代目なんて名乗れません」
「名乗れるかどうかは、自分で決めることですよ」
その言葉が妙に胸に残った。フィーネは手紙を大切にしまい、新しいデザイン画に取りかかった。頬がわずかに熱いのは、秋の陽射しのせいだと自分に言い聞かせた。
ニクラスが工房に飛び込んできて、息を切らしながら言った。
「大変なことになりました」
フィーネは針を持つ手を止めた。何か問題が起きたのかと身構えたが、ニクラスの顔は笑っていた。
「注文です。七件。うちの母のドレスを見た婦人たちが、こぞって『あの仕立て屋を教えて』と」
七件。一人で回している工房に、七件。嬉しさと恐怖が同時に押し寄せた。
「……受けられるでしょうか」
「受けなければ始まりません。ただ、一人では無理だ」
それはわかっていた。フィーネの腕は一対しかない。
ニクラスが二人の女性を連れてきたのは、その三日後だった。エルマとヨハナ。どちらも四十代で、かつて別の仕立て屋で針子をしていたが、店が畳まれて以来職を探していたという。
「腕は確かです。ただ、メゾン・フローラのやり方を覚えてもらう必要はあるでしょうね」
ニクラスはそう言って、あとはフィーネに任せた。経営への口出しはしないという約束を、彼は律儀に守っていた。
フィーネはエルマとヨハナに、まず母のデザイン画帳を見せた。それから自分の刺繍の技法を実演した。二人は目を丸くして針先を見つめ、それから顔を見合わせて頷いた。
「お嬢様、これは——すごい技術ですね」
「お嬢様はやめてください。フィーネで構いません」
三人での作業が始まった。基本的な縫製はエルマとヨハナが担当し、デザインと刺繍の仕上げはフィーネが行う。最初はぎこちなかった連携も、一着、二着と仕上げるうちに噛み合い始めた。
注文をこなす日々の中で、フィーネはひとつのことに気づいた。依頼主の話を聞く時間が、何より大切だということだ。
ある商家の夫人は、夫の事業が傾きかけていて不安を抱えていた。別の夫人は、最近太ったことを気にしていた。またある夫人は、嫁ぎ先の姑との関係に疲れていた。
服の話をしているうちに、そういうことが自然とこぼれ落ちてくる。フィーネはそれを聞き流さなかった。不安を抱えている人には、背筋が伸びるような仕立てを。体型を気にしている人には、長所を引き立てるラインを。疲れている人には、鏡の前で少しだけ笑顔になれる色を。
母がそうしていたように。
出来上がったドレスを受け取った夫人たちの反応は、どれも似ていた。鏡の前で一瞬止まり、それから表情がほどける。その瞬間が、フィーネにとって何よりの報酬だった。
ニクラスとの打ち合わせは週に一度、工房の奥の小さなテーブルで行われた。帳簿を広げ、収支を確認し、次の仕入れを相談する。
「順調ですね。このペースなら、年内に初期投資の三割は回収できる」
「そんなに早く」
「いい商品は売れるんです。当たり前のことですよ」
ニクラスは淡々と数字を読み上げるが、時折フィーネの作業を見る目は数字を見る目とは違っていた。フィーネもそれに気づいてはいたが、気づかないふりをしていた。
今はまだ、仕事の話だけでいい。そう思っていた。
転機は、ある秋の茶会で訪れた。
商家の夫人の一人が、貴族の婦人たちが集まる社交の場にフィーネのドレスを着て出席した。フィーネの名は伏せられていたが、そのドレスは確実に目を引いた。
深い葡萄色の生地に、蔦の葉を模した刺繍。光の加減で模様が浮き沈みする仕掛けは、他のどの仕立て屋にも真似できないものだった。
「あの刺繍、見たことのない技法ね」
「どちらの仕立て屋かしら」
囁きが広がり、やがて名前が明かされた。メゾン・フローラ。ヴァイスベルク伯爵家の令嬢が手がける工房。
ざわめきが走った。婚約破棄されたあの令嬢が、仕立て屋を——?
好奇と驚きの混じった視線が、フィーネの知らないところで交差していた。一方、社交界の話題の中心には相変わらずルートヴィヒとカミラがいた。華やかな二人の姿は、夜会のたびに人々の目を楽しませていた。まだ、誰もフィーネのことなど気に留めていない。
けれど、種は蒔かれた。
数日後、工房に一通の手紙が届いた。差出人は、バルトロメ男爵夫人。社交界ではそれほど目立つ存在ではないが、堅実な家柄で知られている。
手紙には、冬の晩餐会に着るドレスの注文が、丁寧な文面で綴られていた。貴族の婦人からの、初めての正式な依頼。
フィーネは手紙を読み返し、工房の窓から差し込む午後の光を見た。
ニクラスがいつものように帳簿を持って現れた。手紙を見せると、彼は少し目を細めて笑った。
「おめでとうございます、フローラの二代目」
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