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冬の大舞踏会の夜が来た。
フィーネは会場には入らず、裏手の控えの間で待機していた。万が一ドレスに不具合があった場合に備えて、針と糸を携えている。エルマとヨハナも一緒だった。三人とも、緊張で口数が少ない。
広間から楽団の音が漏れ聞こえてくる。大勢の足音、笑い声、グラスが触れ合う音。その華やかな世界の中に、自分が作ったものが今まさに送り出される。
控えの間の扉が開いた。ヘルムシュタット伯爵夫人が姿を見せる。
深い青を基調にしたドレス。月光を模した銀糸の刺繍が、胸元から裾にかけて流れるように散りばめられている。背中の開きは大胆だが、肩のラインを美しく見せる設計で品を損なわない。伯爵夫人の堂々とした体格を、包み隠すのではなく、そのまま力に変える仕立て。
伯爵夫人は鏡をちらりと見て、満足げに頷いた。
「完璧よ、フィーネ嬢。行ってくるわ」
その背中が広間へ消えていく。フィーネは拳を握りしめて見送った。
広間にどよめきが走ったのは、伯爵夫人が階段を降りた瞬間だった。
控えの間まで、その空気の変化は伝わってきた。ざわめきが一度静まり、それから波のように広がる。フィーネには見えないが、耳がすべてを捉えていた。
「あのドレス——」
「どこの仕立て屋?」
「見たことのない刺繍ね」
囁きが渦を巻いている。エルマが控えの間の扉の隙間からそっと覗き、振り返った。目が潤んでいる。
「フィーネ様。皆さん、伯爵夫人を見ていますよ。伯爵夫人しか見ていません」
その言葉で十分だった。フィーネは目を閉じて、静かに息を吐いた。
舞踏会の途中で、伯爵夫人がドレスの出どころを明かした。
「メゾン・フローラ。ヴァイスベルク伯爵家のご令嬢が手がけた作品よ」
広間のあちこちで目配せが交わされた。ヴァイスベルク。あの婚約破棄された令嬢。あの地味な——。
驚きと好奇心が入り混じった視線は、しかしすぐに感嘆に変わった。ドレスの出来が、余計な詮索を黙らせたのだ。夜が更けるにつれて、伯爵夫人の周りには人が絶えなかった。
広間の別の一角では、ルートヴィヒとカミラが並んでいた。カミラのドレスは高価な生地を使った既製品で、十分に美しかったが、今夜は誰の話題にもならなかった。すべての視線が伯爵夫人に向いていたからだ。
ルートヴィヒは伯爵夫人のドレスを見て、それからそのドレスを作った人物の名前を聞いて、グラスを持つ手がわずかに止まった。カミラが何か話しかけているが、耳に入っていなかった。
フィーネ。あの、フィーネが。
脳裏に、バルコニーで言葉を失っていた彼女の姿がよぎった。振り払うように、ワインを一口飲んだ。
舞踏会の翌朝から、工房は嵐のようだった。
注文の問い合わせが殺到した。手紙が次々と届き、使用人が直接訪ねてくるものもあった。伯爵夫人、男爵夫人、子爵夫人。これまで商家の婦人が中心だった顧客層が、一夜にして貴族社会へ広がった。
フィーネは嬉しさよりも先に、身が引き締まる思いだった。ここからが本当の勝負だ。貴族社会の目は厳しい。一度でも品質を落とせば、容赦なく切り捨てられる。
エルマとヨハナは新しい針子の候補を探し始め、ニクラスは生地の仕入れルートの拡充に動いた。工房は小さいが、歯車が噛み合い始めている手応えがあった。
その日の夜遅く、ニクラスが工房に戻ってきた。仕入れ先との交渉を終えてきたらしく、外套にはまだ夜の冷気がまとわりついていた。
フィーネは最後の手紙に目を通しているところだった。顔を上げると、ニクラスがいつもの場所——工房の隅の椅子に座って、静かにこちらを見ていた。
「おめでとうございます」
一言だった。飾りのない、けれど確かな重みのある声。
「ニクラスさんのおかげです」
「それは違います」
珍しく、きっぱりと否定された。
「僕がしたのは金を出しただけです。生地を選んだのも、デザインを起こしたのも、夜中まで刺繍を縫ったのも、全部あなたです。あなたの手が作ったものが、あの広間を黙らせたんです」
フィーネは何か返そうとしたが、喉が詰まった。ルートヴィヒには一度も言われなかった種類の言葉だった。あなたの力だ、と。あなたがやったのだ、と。
「……ありがとうございます」
それだけ絞り出すので精一杯だった。ニクラスは少し照れたように視線をそらし、立ち上がった。
「明日も早いでしょう。今夜は早く休んでください」
「ニクラスさんこそ」
「僕は商人ですから。忙しいのは好きなんですよ」
軽口を叩いて、ニクラスは工房を出ていった。扉が閉まった後、フィーネはしばらくその場に立っていた。
胸の奥で何かがじわりと温かくなっている。蓋をしたはずの感情が、少しだけ隙間から漏れ出しているのを感じた。
今夜は、見ないふりをした。
フィーネは会場には入らず、裏手の控えの間で待機していた。万が一ドレスに不具合があった場合に備えて、針と糸を携えている。エルマとヨハナも一緒だった。三人とも、緊張で口数が少ない。
広間から楽団の音が漏れ聞こえてくる。大勢の足音、笑い声、グラスが触れ合う音。その華やかな世界の中に、自分が作ったものが今まさに送り出される。
控えの間の扉が開いた。ヘルムシュタット伯爵夫人が姿を見せる。
深い青を基調にしたドレス。月光を模した銀糸の刺繍が、胸元から裾にかけて流れるように散りばめられている。背中の開きは大胆だが、肩のラインを美しく見せる設計で品を損なわない。伯爵夫人の堂々とした体格を、包み隠すのではなく、そのまま力に変える仕立て。
伯爵夫人は鏡をちらりと見て、満足げに頷いた。
「完璧よ、フィーネ嬢。行ってくるわ」
その背中が広間へ消えていく。フィーネは拳を握りしめて見送った。
広間にどよめきが走ったのは、伯爵夫人が階段を降りた瞬間だった。
控えの間まで、その空気の変化は伝わってきた。ざわめきが一度静まり、それから波のように広がる。フィーネには見えないが、耳がすべてを捉えていた。
「あのドレス——」
「どこの仕立て屋?」
「見たことのない刺繍ね」
囁きが渦を巻いている。エルマが控えの間の扉の隙間からそっと覗き、振り返った。目が潤んでいる。
「フィーネ様。皆さん、伯爵夫人を見ていますよ。伯爵夫人しか見ていません」
その言葉で十分だった。フィーネは目を閉じて、静かに息を吐いた。
舞踏会の途中で、伯爵夫人がドレスの出どころを明かした。
「メゾン・フローラ。ヴァイスベルク伯爵家のご令嬢が手がけた作品よ」
広間のあちこちで目配せが交わされた。ヴァイスベルク。あの婚約破棄された令嬢。あの地味な——。
驚きと好奇心が入り混じった視線は、しかしすぐに感嘆に変わった。ドレスの出来が、余計な詮索を黙らせたのだ。夜が更けるにつれて、伯爵夫人の周りには人が絶えなかった。
広間の別の一角では、ルートヴィヒとカミラが並んでいた。カミラのドレスは高価な生地を使った既製品で、十分に美しかったが、今夜は誰の話題にもならなかった。すべての視線が伯爵夫人に向いていたからだ。
ルートヴィヒは伯爵夫人のドレスを見て、それからそのドレスを作った人物の名前を聞いて、グラスを持つ手がわずかに止まった。カミラが何か話しかけているが、耳に入っていなかった。
フィーネ。あの、フィーネが。
脳裏に、バルコニーで言葉を失っていた彼女の姿がよぎった。振り払うように、ワインを一口飲んだ。
舞踏会の翌朝から、工房は嵐のようだった。
注文の問い合わせが殺到した。手紙が次々と届き、使用人が直接訪ねてくるものもあった。伯爵夫人、男爵夫人、子爵夫人。これまで商家の婦人が中心だった顧客層が、一夜にして貴族社会へ広がった。
フィーネは嬉しさよりも先に、身が引き締まる思いだった。ここからが本当の勝負だ。貴族社会の目は厳しい。一度でも品質を落とせば、容赦なく切り捨てられる。
エルマとヨハナは新しい針子の候補を探し始め、ニクラスは生地の仕入れルートの拡充に動いた。工房は小さいが、歯車が噛み合い始めている手応えがあった。
その日の夜遅く、ニクラスが工房に戻ってきた。仕入れ先との交渉を終えてきたらしく、外套にはまだ夜の冷気がまとわりついていた。
フィーネは最後の手紙に目を通しているところだった。顔を上げると、ニクラスがいつもの場所——工房の隅の椅子に座って、静かにこちらを見ていた。
「おめでとうございます」
一言だった。飾りのない、けれど確かな重みのある声。
「ニクラスさんのおかげです」
「それは違います」
珍しく、きっぱりと否定された。
「僕がしたのは金を出しただけです。生地を選んだのも、デザインを起こしたのも、夜中まで刺繍を縫ったのも、全部あなたです。あなたの手が作ったものが、あの広間を黙らせたんです」
フィーネは何か返そうとしたが、喉が詰まった。ルートヴィヒには一度も言われなかった種類の言葉だった。あなたの力だ、と。あなたがやったのだ、と。
「……ありがとうございます」
それだけ絞り出すので精一杯だった。ニクラスは少し照れたように視線をそらし、立ち上がった。
「明日も早いでしょう。今夜は早く休んでください」
「ニクラスさんこそ」
「僕は商人ですから。忙しいのは好きなんですよ」
軽口を叩いて、ニクラスは工房を出ていった。扉が閉まった後、フィーネはしばらくその場に立っていた。
胸の奥で何かがじわりと温かくなっている。蓋をしたはずの感情が、少しだけ隙間から漏れ出しているのを感じた。
今夜は、見ないふりをした。
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