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ニクラスは自分の気持ちに気づいたのが、いつだったのか正確には思い出せない。
最初は純粋に商機だと思っていた。メゾン・フローラの看板、フィーネの技術、埋もれた需要。投資家としての判断に間違いはなかった。実際に利益は出ている。計算通りだ。
ただ、計算に入れていなかったものがある。
工房で針を動かすフィーネの横顔。集中している時のわずかに険しい眉。仕上がったドレスを見て、誰にも気づかれないような小さな微笑みを浮かべる瞬間。帳簿の数字について議論する時の、頑固で真っ直ぐな目。
いつからか、それを見るために工房に通うようになっていた。帳簿の確認など、正直なところ月に一度で十分だった。週に二度も顔を出す理由は、もう商売ではない。
ニクラスは商人だ。自分の感情を冷静に分析する癖がある。これは投資家としての関心ではない。フィーネという人間への、一人の男としての感情だ。
認めてしまえば、あとは行動するだけだった。商機は逃すなと、父に教わっている。
その日は、生地の買い付けに二人で出かけた。郊外の織物工房まで馬車で半日。新しい仕入れ先の開拓を兼ねた遠出だった。
買い付けは順調に終わった。上質な絹を通常より安い価格で仕入れる交渉をまとめ、フィーネは珍しく上機嫌だった。
「ニクラスさん、交渉の最後の一押し、見事でした」
「あなたが生地の品質を具体的に語ったから、相手が本気になったんですよ。僕はただ値段の話をしただけです」
帰りの馬車を降りて、王都の外れの並木道を歩いていた。冬の夕暮れは早い。西の空が茜色に染まり、葉の落ちた木々の枝が細い影を地面に伸ばしている。
ニクラスは立ち止まった。
フィーネが数歩先で振り返る。
「どうしました?」
「ずっと言いたかったことがあるんです」
フィーネの表情が変わった。何かを察したように、かすかに身構えている。
「僕はもう、投資家としてあなたの隣にいるのは無理です」
沈黙が落ちた。並木道に人影はなく、遠くで鳥が一羽鳴いた。
「一人の男として、あなたのそばにいたい」
飾りのない言葉だった。商人らしく回りくどい交渉をする余裕はなかった。フィーネの前では、いつも言葉が直線になる。
フィーネは動けなかった。
わかっていた。気づいていた。ニクラスの視線が、打ち合わせの合間に自分に向けられている時の温度。投資家の目ではない何かが、ずっとそこにあった。
そして自分の中にも、同じ温度のものがあることを。
けれど、踏み出せない。
身分の壁がある。伯爵令嬢と商家の息子。世間はどう見るか。父はどう思うか。社交界はどんな噂を立てるか。
それだけではない。もっと深いところに、恐怖がある。
「華がない」と言われた夜の記憶。大切な人の隣に立って、「足りない」と切り捨てられた痛み。あれをもう一度味わうくらいなら、最初から踏み込まないほうがいい。
でも目の前のこの人は、一度も自分を「足りない」とは言わなかった。あなたの力だと言った。あなた自身の華を縫えばいいと言った。
「今は——」
声がかすれた。咳払いをして、もう一度。
「今は、工房のことで精一杯です。少し、時間をいただけますか」
逃げだとわかっている。ニクラスにもわかっているだろう。
ニクラスは一瞬だけ目を伏せた。それから、いつもの軽い笑顔を作った。作ったのだとフィーネにはわかった。
「待ちます。僕は商人ですから、長期投資は得意です」
その声は明るかったが、ほんの少しだけ震えていた。気づかないふりはできなかった。
二人は並んで歩き始めた。さっきまでと同じ道なのに、空気が変わっている。半歩分の距離が、近くも遠くもなく、ただそこにある。
工房の前で別れる時、ニクラスは振り返らなかった。フィーネはその背中が角を曲がって見えなくなるまで立っていた。
一人になって、胸に手を当てた。鼓動が速い。
私は、もう二度と誰かの隣で萎縮したくない。でも——。
答えはまだ出ない。出せない。けれど、胸の奥でほどけかけている結び目が、いつかは解ける予感だけがあった。
最初は純粋に商機だと思っていた。メゾン・フローラの看板、フィーネの技術、埋もれた需要。投資家としての判断に間違いはなかった。実際に利益は出ている。計算通りだ。
ただ、計算に入れていなかったものがある。
工房で針を動かすフィーネの横顔。集中している時のわずかに険しい眉。仕上がったドレスを見て、誰にも気づかれないような小さな微笑みを浮かべる瞬間。帳簿の数字について議論する時の、頑固で真っ直ぐな目。
いつからか、それを見るために工房に通うようになっていた。帳簿の確認など、正直なところ月に一度で十分だった。週に二度も顔を出す理由は、もう商売ではない。
ニクラスは商人だ。自分の感情を冷静に分析する癖がある。これは投資家としての関心ではない。フィーネという人間への、一人の男としての感情だ。
認めてしまえば、あとは行動するだけだった。商機は逃すなと、父に教わっている。
その日は、生地の買い付けに二人で出かけた。郊外の織物工房まで馬車で半日。新しい仕入れ先の開拓を兼ねた遠出だった。
買い付けは順調に終わった。上質な絹を通常より安い価格で仕入れる交渉をまとめ、フィーネは珍しく上機嫌だった。
「ニクラスさん、交渉の最後の一押し、見事でした」
「あなたが生地の品質を具体的に語ったから、相手が本気になったんですよ。僕はただ値段の話をしただけです」
帰りの馬車を降りて、王都の外れの並木道を歩いていた。冬の夕暮れは早い。西の空が茜色に染まり、葉の落ちた木々の枝が細い影を地面に伸ばしている。
ニクラスは立ち止まった。
フィーネが数歩先で振り返る。
「どうしました?」
「ずっと言いたかったことがあるんです」
フィーネの表情が変わった。何かを察したように、かすかに身構えている。
「僕はもう、投資家としてあなたの隣にいるのは無理です」
沈黙が落ちた。並木道に人影はなく、遠くで鳥が一羽鳴いた。
「一人の男として、あなたのそばにいたい」
飾りのない言葉だった。商人らしく回りくどい交渉をする余裕はなかった。フィーネの前では、いつも言葉が直線になる。
フィーネは動けなかった。
わかっていた。気づいていた。ニクラスの視線が、打ち合わせの合間に自分に向けられている時の温度。投資家の目ではない何かが、ずっとそこにあった。
そして自分の中にも、同じ温度のものがあることを。
けれど、踏み出せない。
身分の壁がある。伯爵令嬢と商家の息子。世間はどう見るか。父はどう思うか。社交界はどんな噂を立てるか。
それだけではない。もっと深いところに、恐怖がある。
「華がない」と言われた夜の記憶。大切な人の隣に立って、「足りない」と切り捨てられた痛み。あれをもう一度味わうくらいなら、最初から踏み込まないほうがいい。
でも目の前のこの人は、一度も自分を「足りない」とは言わなかった。あなたの力だと言った。あなた自身の華を縫えばいいと言った。
「今は——」
声がかすれた。咳払いをして、もう一度。
「今は、工房のことで精一杯です。少し、時間をいただけますか」
逃げだとわかっている。ニクラスにもわかっているだろう。
ニクラスは一瞬だけ目を伏せた。それから、いつもの軽い笑顔を作った。作ったのだとフィーネにはわかった。
「待ちます。僕は商人ですから、長期投資は得意です」
その声は明るかったが、ほんの少しだけ震えていた。気づかないふりはできなかった。
二人は並んで歩き始めた。さっきまでと同じ道なのに、空気が変わっている。半歩分の距離が、近くも遠くもなく、ただそこにある。
工房の前で別れる時、ニクラスは振り返らなかった。フィーネはその背中が角を曲がって見えなくなるまで立っていた。
一人になって、胸に手を当てた。鼓動が速い。
私は、もう二度と誰かの隣で萎縮したくない。でも——。
答えはまだ出ない。出せない。けれど、胸の奥でほどけかけている結び目が、いつかは解ける予感だけがあった。
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