10 / 13
10
しおりを挟む
告白の後も、ニクラスはいつも通り工房に現れた。
帳簿を確認し、仕入れの報告をし、軽口を叩いて帰っていく。何も変わらない。ただ、以前なら自然に触れていた指先が、紙の受け渡しの時にわずかに引かれるようになった。フィーネの方も、目が合う瞬間に一拍遅れて視線を外すようになった。
お互いに気づいている。お互いに触れずにいる。
工房のエルマとヨハナは、何かを察しているようだったが何も言わなかった。大人の分別というものだろう。フィーネはその沈黙に感謝した。
その日の来客は、予告なしだった。
工房の扉を叩いたのは、仕立てのいい外套に身を包んだ若い女性だった。名乗りを聞いて、フィーネは針を落としそうになった。
「王妃付き侍女のクラーラと申します。王妃様よりお言伝がございます」
王妃。この国の頂点に立つ女性。
クラーラは落ち着いた声で伝えた。
「次の宮廷晩餐会のドレスを、メゾン・フローラに依頼したいとのことでございます。つきましては、王宮にてお打ち合わせの機会をいただけないかと」
フィーネは返事をするまでに長い時間がかかった。長いといっても数秒だったが、その間に頭の中を嵐のような思考が駆け抜けた。
王妃のドレスを手がける。それは、この国で最も高い評価を得ることを意味する。成功すれば、メゾン・フローラは揺るぎない地位を手にする。失敗すれば——考えたくなかった。
「謹んでお受けいたします」
声は震えなかった。震えないように、裁断台の縁を掴んでいた。
王宮の回廊は、フィーネがこれまで歩いたどの場所とも違っていた。磨き上げられた大理石の床に、自分の靴音だけが響く。クラーラに案内されて通された小さな応接室は、しかし思ったよりも温かな雰囲気だった。
王妃が入ってきた時、フィーネは深く頭を下げた。顔を上げると、想像とは違う人がそこにいた。威厳はあるが、冷たさがない。知的で穏やかな目をした、四十代半ばの女性。
「そんなに緊張しないで。今日は仕立てのお願いに来た、ただの客よ」
王妃は微笑んで、向かいの椅子を勧めた。
「あなたの作品をいくつも見せてもらったわ。ヘルムシュタット伯爵夫人のドレスは特に見事だった。バルトロメ男爵夫人のものもね」
フィーネの作品を、王妃が実際に見ていた。それだけで手が震えそうになる。
「あなたの服には、着る人への敬意がある」
王妃はまっすぐにフィーネを見て言った。
「技術は他にも優れた仕立て屋がいるでしょう。でも、着る人の本質を見抜いて、それを布で表現できる人は少ない。それが私は好きよ」
フィーネは深く息を吸い、姿勢を正した。
「王妃様は、どのようなお姿でいらっしゃいたいですか」
王妃はわずかに目を開き、それから柔らかく笑った。
「いい質問ね。他の仕立て屋は、まず流行の話をするのよ」
王妃の要望を聞き取る時間は、フィーネにとって深い学びだった。王妃は国の顔である。華やかさも必要だが、それ以上に品格と安定感を求めている。隣国の使節を迎える晩餐会で、この国の文化と誇りを纏いたいのだと語った。
工房に戻ったフィーネは、その夜から新しいデザインに没頭した。
王妃からの依頼の噂は、驚くべき速さで社交界に広がった。
カミラは茶会でその話を聞いて、カップを持つ手が止まった。周囲の婦人たちが興奮気味に語り合っている中、一人だけ顔色を失っていた。あの女がついに王妃にまで取り入ったのか。
ルートヴィヒにも伝わった。書斎で報告を受けた時、彼は長い間黙っていた。
自分が「華がない」と切り捨てた女が、王妃に選ばれている。
あの夜のバルコニーでの自分の言葉が、今になって刃のように返ってくる。華がなかったのではない。自分に、それを見る目がなかったのだ。
工房では、制作が佳境に入っていた。ニクラスは最高級の素材を確保するために各地を回り、フィーネは朝から深夜までデザインと試作を繰り返した。
告白の返事は宙に浮いたままだったが、二人の連携は完璧だった。ニクラスが調達してきた生地を、フィーネが手に取り、光に透かし、頷く。言葉にしなくても伝わるものがある。
ある日の深夜、フィーネは刺繍の手を止めて、ニクラスが差し入れてくれたお茶を飲んだ。もう冷めていた。カップの底に茶葉が沈んでいる。
ニクラスはとっくに帰っていたが、彼が淹れたお茶の味がする。ほんの少し甘い。フィーネの好みを覚えているのだ。
この人となら、隣にいて萎縮しない。
ふと、そう思った。自然に、当たり前のように。
答えが、もうほとんど形になっていた。あとは、声にするだけだった。
帳簿を確認し、仕入れの報告をし、軽口を叩いて帰っていく。何も変わらない。ただ、以前なら自然に触れていた指先が、紙の受け渡しの時にわずかに引かれるようになった。フィーネの方も、目が合う瞬間に一拍遅れて視線を外すようになった。
お互いに気づいている。お互いに触れずにいる。
工房のエルマとヨハナは、何かを察しているようだったが何も言わなかった。大人の分別というものだろう。フィーネはその沈黙に感謝した。
その日の来客は、予告なしだった。
工房の扉を叩いたのは、仕立てのいい外套に身を包んだ若い女性だった。名乗りを聞いて、フィーネは針を落としそうになった。
「王妃付き侍女のクラーラと申します。王妃様よりお言伝がございます」
王妃。この国の頂点に立つ女性。
クラーラは落ち着いた声で伝えた。
「次の宮廷晩餐会のドレスを、メゾン・フローラに依頼したいとのことでございます。つきましては、王宮にてお打ち合わせの機会をいただけないかと」
フィーネは返事をするまでに長い時間がかかった。長いといっても数秒だったが、その間に頭の中を嵐のような思考が駆け抜けた。
王妃のドレスを手がける。それは、この国で最も高い評価を得ることを意味する。成功すれば、メゾン・フローラは揺るぎない地位を手にする。失敗すれば——考えたくなかった。
「謹んでお受けいたします」
声は震えなかった。震えないように、裁断台の縁を掴んでいた。
王宮の回廊は、フィーネがこれまで歩いたどの場所とも違っていた。磨き上げられた大理石の床に、自分の靴音だけが響く。クラーラに案内されて通された小さな応接室は、しかし思ったよりも温かな雰囲気だった。
王妃が入ってきた時、フィーネは深く頭を下げた。顔を上げると、想像とは違う人がそこにいた。威厳はあるが、冷たさがない。知的で穏やかな目をした、四十代半ばの女性。
「そんなに緊張しないで。今日は仕立てのお願いに来た、ただの客よ」
王妃は微笑んで、向かいの椅子を勧めた。
「あなたの作品をいくつも見せてもらったわ。ヘルムシュタット伯爵夫人のドレスは特に見事だった。バルトロメ男爵夫人のものもね」
フィーネの作品を、王妃が実際に見ていた。それだけで手が震えそうになる。
「あなたの服には、着る人への敬意がある」
王妃はまっすぐにフィーネを見て言った。
「技術は他にも優れた仕立て屋がいるでしょう。でも、着る人の本質を見抜いて、それを布で表現できる人は少ない。それが私は好きよ」
フィーネは深く息を吸い、姿勢を正した。
「王妃様は、どのようなお姿でいらっしゃいたいですか」
王妃はわずかに目を開き、それから柔らかく笑った。
「いい質問ね。他の仕立て屋は、まず流行の話をするのよ」
王妃の要望を聞き取る時間は、フィーネにとって深い学びだった。王妃は国の顔である。華やかさも必要だが、それ以上に品格と安定感を求めている。隣国の使節を迎える晩餐会で、この国の文化と誇りを纏いたいのだと語った。
工房に戻ったフィーネは、その夜から新しいデザインに没頭した。
王妃からの依頼の噂は、驚くべき速さで社交界に広がった。
カミラは茶会でその話を聞いて、カップを持つ手が止まった。周囲の婦人たちが興奮気味に語り合っている中、一人だけ顔色を失っていた。あの女がついに王妃にまで取り入ったのか。
ルートヴィヒにも伝わった。書斎で報告を受けた時、彼は長い間黙っていた。
自分が「華がない」と切り捨てた女が、王妃に選ばれている。
あの夜のバルコニーでの自分の言葉が、今になって刃のように返ってくる。華がなかったのではない。自分に、それを見る目がなかったのだ。
工房では、制作が佳境に入っていた。ニクラスは最高級の素材を確保するために各地を回り、フィーネは朝から深夜までデザインと試作を繰り返した。
告白の返事は宙に浮いたままだったが、二人の連携は完璧だった。ニクラスが調達してきた生地を、フィーネが手に取り、光に透かし、頷く。言葉にしなくても伝わるものがある。
ある日の深夜、フィーネは刺繍の手を止めて、ニクラスが差し入れてくれたお茶を飲んだ。もう冷めていた。カップの底に茶葉が沈んでいる。
ニクラスはとっくに帰っていたが、彼が淹れたお茶の味がする。ほんの少し甘い。フィーネの好みを覚えているのだ。
この人となら、隣にいて萎縮しない。
ふと、そう思った。自然に、当たり前のように。
答えが、もうほとんど形になっていた。あとは、声にするだけだった。
116
あなたにおすすめの小説
家族に裏切られて辺境で幸せを掴む?
しゃーりん
恋愛
婚約者を妹に取られる。
そんな小説みたいなことが本当に起こった。
婚約者が姉から妹に代わるだけ?しかし私はそれを許さず、慰謝料を請求した。
婚約破棄と共に跡継ぎでもなくなったから。
仕事だけをさせようと思っていた父に失望し、伯父のいる辺境に行くことにする。
これからは辺境で仕事に生きよう。そう決めて王都を旅立った。
辺境で新たな出会いがあり、付き合い始めたけど?というお話です。
元婚約者のあなたへ どうか幸せに
石里 唯
恋愛
公爵令嬢ローラは王太子ケネスの婚約者だったが、家が困窮したことから、婚約破棄をされることになる。破棄だけでなく、相愛と信じていたケネスの冷酷な態度に傷つき、最後の挨拶もできず別れる。失意を抱いたローラは、国を出て隣国の大学の奨学生となることを決意する。
隣国は3年前、疫病が広がり大打撃を受け、国全体が復興への熱意に満ち、ローラもその熱意に染まり勉学に勤しむ日々を送っていたところ、ある日、一人の「学生」がローラに声をかけてきて―――。
妹の身代わり人生です。愛してくれた辺境伯の腕の中さえ妹のものになるようです。
桗梛葉 (たなは)
恋愛
タイトルを変更しました。
※※※※※※※※※※※※※
双子として生まれたエレナとエレン。
かつては忌み子とされていた双子も何代か前の王によって、そういった扱いは禁止されたはずだった。
だけどいつの時代でも古い因習に囚われてしまう人達がいる。
エレナにとって不幸だったのはそれが実の両親だったということだった。
両親は妹のエレンだけを我が子(長女)として溺愛し、エレナは家族とさえ認められない日々を過ごしていた。
そんな中でエレンのミスによって辺境伯カナトス卿の令息リオネルがケガを負ってしまう。
療養期間の1年間、娘を差し出すよう求めてくるカナトス卿へ両親が差し出したのは、エレンではなくエレナだった。
エレンのフリをして初恋の相手のリオネルの元に向かうエレナは、そんな中でリオネルから優しさをむけてもらえる。
だが、その優しささえも本当はエレンへ向けられたものなのだ。
自分がニセモノだと知っている。
だから、この1年限りの恋をしよう。
そう心に決めてエレナは1年を過ごし始める。
※※※※※※※※※※※※※
異世界として、その世界特有の法や産物、鉱物、身分制度がある前提で書いています。
現実と違うな、という場面も多いと思います(すみません💦)
ファンタジーという事でゆるくとらえて頂けると助かります💦
完】異端の治癒能力を持つ令嬢は婚約破棄をされ、王宮の侍女として静かに暮らす事を望んだ。なのに!王子、私は侍女ですよ!言い寄られたら困ります!
仰木 あん
恋愛
マリアはエネローワ王国のライオネル伯爵の長女である。
ある日、婚約者のハルト=リッチに呼び出され、婚約破棄を告げられる。
理由はマリアの義理の妹、ソフィアに心変わりしたからだそうだ。
ハルトとソフィアは互いに惹かれ、『真実の愛』に気付いたとのこと…。
マリアは色々な物を継母の連れ子である、ソフィアに奪われてきたが、今度は婚約者か…と、気落ちをして、実家に帰る。
自室にて、過去の母の言葉を思い出す。
マリアには、王国において、異端とされるドルイダスの異能があり、強力な治癒能力で、人を癒すことが出来る事を…
しかしそれは、この国では迫害される恐れがあるため、内緒にするようにと強く言われていた。
そんな母が亡くなり、継母がソフィアを連れて屋敷に入ると、マリアの生活は一変した。
ハルトという婚約者を得て、家を折角出たのに、この始末……。
マリアは父親に願い出る。
家族に邪魔されず、一人で静かに王宮の侍女として働いて生きるため、再び家を出るのだが………
この話はフィクションです。
名前等は実際のものとなんら関係はありません。
聞き分けよくしていたら婚約者が妹にばかり構うので、困らせてみることにした
今川幸乃
恋愛
カレン・ブライスとクライン・ガスターはどちらも公爵家の生まれで政略結婚のために婚約したが、お互い愛し合っていた……はずだった。
二人は貴族が通う学園の同級生で、クラスメイトたちにもその仲の良さは知られていた。
しかし、昨年クラインの妹、レイラが貴族が学園に入学してから状況が変わった。
元々人のいいところがあるクラインは、甘えがちな妹にばかり構う。
そのたびにカレンは聞き分けよく我慢せざるをえなかった。
が、ある日クラインがレイラのためにデートをすっぽかしてからカレンは決心する。
このまま聞き分けのいい婚約者をしていたところで状況は悪くなるだけだ、と。
※ざまぁというよりは改心系です。
※4/5【レイラ視点】【リーアム視点】の間に、入れ忘れていた【女友達視点】の話を追加しました。申し訳ありません。
【完結】転生地味悪役令嬢は婚約者と男好きヒロイン諸共無視しまくる。
なーさ
恋愛
アイドルオタクの地味女子 水上羽月はある日推しが轢かれそうになるのを助けて死んでしまう。そのことを不憫に思った女神が「あなた、可哀想だから転生!」「え?」なんの因果か異世界に転生してしまう!転生したのは地味な公爵令嬢レフカ・エミリーだった。目が覚めると私の周りを大人が囲っていた。婚約者の第一王子も男好きヒロインも無視します!今世はうーん小説にでも生きようかな〜と思ったらあれ?あの人は前世の推しでは!?地味令嬢のエミリーが知らず知らずのうちに戦ったり溺愛されたりするお話。
本当に駄文です。そんなものでも読んでお気に入り登録していただけたら嬉しいです!
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
悪役断罪?そもそも何かしましたか?
SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。
男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。
あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。
えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。
勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる