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薄いカーテンを通して、春の朝日が差し込んでいる。
セラフィーナ・アルトリア・ヴァレンシュタインは、ゆっくりと目を開けた。天蓋付きの寝台。繊細な刺繍が施された絹のシーツ。高い天井には豪奢なシャンデリア。
「ここは……」
声が震える。それは自分のものではあるが、同時に記憶にある声とは少し違う。
頭の中に、二つの人生が存在していた。
一つは、現代日本で看護師として働いていた記憶。過労で倒れ、病院のベッドで意識を失った最後の瞬間まで。深夜勤務が続いた日々。患者たちの笑顔。そして、自分の身体を顧みなかった愚かさ。
もう一つは、この世界――ヴェルディア王国の侯爵令嬢セラフィーナとしての十七年間の記憶。豪奢な屋敷での生活。優しい両親。そして、いつも身体が重く、思うように動けない日々。
「まさか……転生?」
身体を起こそうとして、セラフィーナは息を呑んだ。腕が思うように動かない。全身が鉛のように重く、わずかに上半身を起こしただけで息が切れる。心臓が激しく打ち、額には冷や汗が滲む。
この身体の病弱さは、記憶の中でも明らかだった。幼い頃から虚弱で、頻繁に寝込み、階段を上るだけで息切れする。医師たちは「生まれつきの虚弱体質」と診断し、両親は諦めにも似た表情で娘を見つめていた。
だが、看護師としての知識がある今、セラフィーナには分かる。これは本当に「生まれつき」なのだろうか?
ベッドサイドのテーブルに、見覚えのある小さな本が置かれている。
『運命の恋人たち――フォーエバー・ラブ・ストーリー』
セラフィーナの手が震えた。
「これは……あの乙女ゲーム……」
前世で、同僚の看護師が夢中になっていたゲームだ。休憩時間に何度も話を聞かされた。豪華声優陣、美麗なイラスト、そして複雑に絡み合う恋愛ルート。
王国を舞台に、平民出身のヒロインが五人の魅力的な男性キャラクターと恋に落ちる物語。その中の一人が――公爵嫡男アレクシス。冷静で知的だが、心優しい理想の王子様。
「公爵嫡男、アレクシス・フォン・エルデンベルク……」
セラフィーナは唇を噛んだ。
ゲームの中で、アレクシスには婚約者がいた。病弱な侯爵令嬢。序盤で婚約破棄され、その後は物語から姿を消す脇役。プレイヤーである平民ヒロインが彼と恋に落ちるための、障害として存在するだけのキャラクター。
その名前は、セラフィーナ・ヴァレンシュタイン。
「私……脇役令嬢なの……」
震える手で本を開く。攻略本ではなく、この世界の貴族名鑑だった。ページをめくり、自分の家族の項を見つける。
『ヴァレンシュタイン侯爵家――古くから薬草栽培と医学で知られる名門。現当主ロデリック・ヴァレンシュタインには一人娘セラフィーナがいるが、虚弱体質のため社交界への参加は限定的。公爵家との婚約が決まっているものの、その実現は不透明との声もある』
薬草栽培。医学。
セラフィーナの心臓が高鳴った。看護師としての知識が、この世界で役立つかもしれない。いや、役立てなければ。
コンコンとノックの音。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
優しい声と共に、侍女のマリアが部屋に入ってきた。三十代半ばの落ち着いた女性で、セラフィーナが幼い頃から世話をしている。灰色がかった茶色の髪を後ろで結い、清潔な黒いドレスに白いエプロンを身に着けている。
「マリア……」
「まあ、お顔色が優れませんわ。今朝も体調が悪いのですか?」
マリアは心配そうに近づき、額に手を当てる。その手は温かく、母親のような優しさがあった。
「熱はないようですが……昨日も階段を上られた後、ずっとお休みになっていましたものね」
セラフィーナは自分の身体の状態を分析しようとした。前世の医学知識を総動員して。
慢性的な倦怠感。筋力の低下。わずかな運動での息切れ。動悸。顔色の悪さ。
これらの症状から考えられる原因は――貧血、栄養失調、運動不足、あるいは心疾患。だが、心臓に先天的な問題があるなら、もっと深刻な症状が出ているはずだ。
そして、記憶を辿ると――幼い頃から飲まされている「薬草茶」がある。
「マリア、私がいつも飲んでいる薬草茶……あれは何の薬草を使っているの?」
「お嬢様の体調を整えるためのものですわ。ヨモギ、トリカブトの根、ベラドンナの……」
「待って」
セラフィーナは驚愕した。トリカブト。ベラドンナ。どちらも猛毒植物だ。
トリカブトはアコニチンという猛毒を含み、少量でも中毒症状を起こす。ベラドンナも同様に、アトロピンを含む危険な植物。確かに薬として使われることもあるが、それは厳密に管理された量だけだ。
「それ、誰が調合したの?」
「代々この屋敷に伝わる民間療法だと……お嬢様?」
セラフィーナは理解した。この身体の「虚弱体質」の真実を。
適切な栄養管理もされず、運動も禁じられ、その上毒性のある「薬」を飲まされ続けてきた。周囲は善意だったのだろう。セラフィーナの健康を願って、代々の知恵を信じて。しかし結果として、健康な身体を病弱にしてしまっていた。
慢性的な毒物摂取による症状。それが「虚弱体質」の正体だったのだ。
「マリア、今日からあの薬草茶は飲まないわ」
「でも、お嬢様の健康のために……」
「いいえ。私、自分の身体のことを真剣に考えたいの」
セラフィーナは、できるだけ優しく、しかし確固とした口調で言った。
「あの薬草茶は、もしかしたら私の身体に合っていないのかもしれない。しばらく飲むのをやめて、様子を見たいの」
マリアは困惑した表情を浮かべたが、令嬢の真剣な眼差しに押されて頷いた。
「かしこまりました。お父様には私からお伝えしておきます」
窓の外を見ると、美しい庭園が広がっている。春の花々が咲き誇り、噴水が優雅に水を噴き上げている。青い空には白い雲が浮かび、小鳥たちが囀っている。
セラフィーナは唇を噛んだ。
明日、アレクシス・フォン・エルデンベルクが婚約破棄を告げに来る。ゲームの中で、それは避けられない運命だった。ヒロインが登場する前の、定められたイベント。
しかし、その後は?
脇役令嬢は物語から消える。だが、これは現実だ。セラフィーナには、この後も人生が続く。
「私は……どう生きればいいの?」
その答えはまだ見つからない。ただ一つだけ確かなことがあった。
この病弱な身体を、何としてでも治す。
そして、自分の人生を取り戻す。
復讐ではない。誰かを恨むためではない。アレクシスに見返してやろうというのでもない。
ただ、自分らしく生きるために。
健康な身体で、自分の意志で、自分の人生を歩むために。
前世では、他人の命を救うことに尽くしすぎて、自分の命を失った。今世こそは、自分を大切にしたい。
春の風が、カーテンを揺らした。新しい季節の始まりを告げるように。
セラフィーナ・アルトリア・ヴァレンシュタインは、ゆっくりと目を開けた。天蓋付きの寝台。繊細な刺繍が施された絹のシーツ。高い天井には豪奢なシャンデリア。
「ここは……」
声が震える。それは自分のものではあるが、同時に記憶にある声とは少し違う。
頭の中に、二つの人生が存在していた。
一つは、現代日本で看護師として働いていた記憶。過労で倒れ、病院のベッドで意識を失った最後の瞬間まで。深夜勤務が続いた日々。患者たちの笑顔。そして、自分の身体を顧みなかった愚かさ。
もう一つは、この世界――ヴェルディア王国の侯爵令嬢セラフィーナとしての十七年間の記憶。豪奢な屋敷での生活。優しい両親。そして、いつも身体が重く、思うように動けない日々。
「まさか……転生?」
身体を起こそうとして、セラフィーナは息を呑んだ。腕が思うように動かない。全身が鉛のように重く、わずかに上半身を起こしただけで息が切れる。心臓が激しく打ち、額には冷や汗が滲む。
この身体の病弱さは、記憶の中でも明らかだった。幼い頃から虚弱で、頻繁に寝込み、階段を上るだけで息切れする。医師たちは「生まれつきの虚弱体質」と診断し、両親は諦めにも似た表情で娘を見つめていた。
だが、看護師としての知識がある今、セラフィーナには分かる。これは本当に「生まれつき」なのだろうか?
ベッドサイドのテーブルに、見覚えのある小さな本が置かれている。
『運命の恋人たち――フォーエバー・ラブ・ストーリー』
セラフィーナの手が震えた。
「これは……あの乙女ゲーム……」
前世で、同僚の看護師が夢中になっていたゲームだ。休憩時間に何度も話を聞かされた。豪華声優陣、美麗なイラスト、そして複雑に絡み合う恋愛ルート。
王国を舞台に、平民出身のヒロインが五人の魅力的な男性キャラクターと恋に落ちる物語。その中の一人が――公爵嫡男アレクシス。冷静で知的だが、心優しい理想の王子様。
「公爵嫡男、アレクシス・フォン・エルデンベルク……」
セラフィーナは唇を噛んだ。
ゲームの中で、アレクシスには婚約者がいた。病弱な侯爵令嬢。序盤で婚約破棄され、その後は物語から姿を消す脇役。プレイヤーである平民ヒロインが彼と恋に落ちるための、障害として存在するだけのキャラクター。
その名前は、セラフィーナ・ヴァレンシュタイン。
「私……脇役令嬢なの……」
震える手で本を開く。攻略本ではなく、この世界の貴族名鑑だった。ページをめくり、自分の家族の項を見つける。
『ヴァレンシュタイン侯爵家――古くから薬草栽培と医学で知られる名門。現当主ロデリック・ヴァレンシュタインには一人娘セラフィーナがいるが、虚弱体質のため社交界への参加は限定的。公爵家との婚約が決まっているものの、その実現は不透明との声もある』
薬草栽培。医学。
セラフィーナの心臓が高鳴った。看護師としての知識が、この世界で役立つかもしれない。いや、役立てなければ。
コンコンとノックの音。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
優しい声と共に、侍女のマリアが部屋に入ってきた。三十代半ばの落ち着いた女性で、セラフィーナが幼い頃から世話をしている。灰色がかった茶色の髪を後ろで結い、清潔な黒いドレスに白いエプロンを身に着けている。
「マリア……」
「まあ、お顔色が優れませんわ。今朝も体調が悪いのですか?」
マリアは心配そうに近づき、額に手を当てる。その手は温かく、母親のような優しさがあった。
「熱はないようですが……昨日も階段を上られた後、ずっとお休みになっていましたものね」
セラフィーナは自分の身体の状態を分析しようとした。前世の医学知識を総動員して。
慢性的な倦怠感。筋力の低下。わずかな運動での息切れ。動悸。顔色の悪さ。
これらの症状から考えられる原因は――貧血、栄養失調、運動不足、あるいは心疾患。だが、心臓に先天的な問題があるなら、もっと深刻な症状が出ているはずだ。
そして、記憶を辿ると――幼い頃から飲まされている「薬草茶」がある。
「マリア、私がいつも飲んでいる薬草茶……あれは何の薬草を使っているの?」
「お嬢様の体調を整えるためのものですわ。ヨモギ、トリカブトの根、ベラドンナの……」
「待って」
セラフィーナは驚愕した。トリカブト。ベラドンナ。どちらも猛毒植物だ。
トリカブトはアコニチンという猛毒を含み、少量でも中毒症状を起こす。ベラドンナも同様に、アトロピンを含む危険な植物。確かに薬として使われることもあるが、それは厳密に管理された量だけだ。
「それ、誰が調合したの?」
「代々この屋敷に伝わる民間療法だと……お嬢様?」
セラフィーナは理解した。この身体の「虚弱体質」の真実を。
適切な栄養管理もされず、運動も禁じられ、その上毒性のある「薬」を飲まされ続けてきた。周囲は善意だったのだろう。セラフィーナの健康を願って、代々の知恵を信じて。しかし結果として、健康な身体を病弱にしてしまっていた。
慢性的な毒物摂取による症状。それが「虚弱体質」の正体だったのだ。
「マリア、今日からあの薬草茶は飲まないわ」
「でも、お嬢様の健康のために……」
「いいえ。私、自分の身体のことを真剣に考えたいの」
セラフィーナは、できるだけ優しく、しかし確固とした口調で言った。
「あの薬草茶は、もしかしたら私の身体に合っていないのかもしれない。しばらく飲むのをやめて、様子を見たいの」
マリアは困惑した表情を浮かべたが、令嬢の真剣な眼差しに押されて頷いた。
「かしこまりました。お父様には私からお伝えしておきます」
窓の外を見ると、美しい庭園が広がっている。春の花々が咲き誇り、噴水が優雅に水を噴き上げている。青い空には白い雲が浮かび、小鳥たちが囀っている。
セラフィーナは唇を噛んだ。
明日、アレクシス・フォン・エルデンベルクが婚約破棄を告げに来る。ゲームの中で、それは避けられない運命だった。ヒロインが登場する前の、定められたイベント。
しかし、その後は?
脇役令嬢は物語から消える。だが、これは現実だ。セラフィーナには、この後も人生が続く。
「私は……どう生きればいいの?」
その答えはまだ見つからない。ただ一つだけ確かなことがあった。
この病弱な身体を、何としてでも治す。
そして、自分の人生を取り戻す。
復讐ではない。誰かを恨むためではない。アレクシスに見返してやろうというのでもない。
ただ、自分らしく生きるために。
健康な身体で、自分の意志で、自分の人生を歩むために。
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