22 / 36
22
しおりを挟む
四月の午後、侯爵邸の薬草園は生命の息吹に満ちていた。
冬を越えた薬草たちが一斉に芽吹き、庭全体が柔らかな緑に包まれている。カモミールの白い花、ラベンダーの紫の蕾、ミントの若葉。空気は甘く爽やかな香りで満たされていた。
セラフィーナは麦わら帽子を被り、園芸用の手袋をはめて、丁寧に雑草を取り除いていた。傍らではエドウィンが、新しい薬草の苗を植える準備をしている。
「この区画には、新しく入手したヴァレリアンを植えましょう」
エドウィンが提案した。
「不眠症に効果的ですね。良い考えです」
セラフィーナは微笑んだ。この一年で、彼女とエドウィンは完璧な研究パートナーとなっていた。互いの知識を補完し合い、新しい発見を共に喜び、失敗を共に乗り越える。
「セラフィーナ」
エドウィンが真剣な声で名を呼んだ。いつもと違う響きに、セラフィーナは手を止めて彼を見た。
エドウィンは立ち上がり、土のついた手袋を外した。そして深呼吸をして、セラフィーナの目を真っ直ぐに見つめた。
「私には、あなたに伝えなければならないことがあります」
心臓が高鳴った。セラフィーナはゆっくりと立ち上がり、自分も手袋を外した。
春の風が二人の間を通り過ぎる。ラベンダーの香りが濃くなった。
「私は、あなたを尊敬しています」
エドウィンは静かに、しかし確固とした声で言った。
「あなたの知性、強さ、そして優しさを。病から立ち上がり、多くの人々を救う事業を成し遂げた勇気を。そして…」
彼は一歩、セラフィーナに近づいた。
「私はあなたを愛しています。研究者として、人として、女性として」
セラフィーナの瞳が揺れた。驚きではなかった。この感情は、実は互いに育ててきたものだった。ただ、言葉にする勇気がなかっただけで。
「私は公爵でも王子でもない、ただの学者です」
エドウィンは続けた。
「大きな領地も、華やかな地位も、あなたに提供できるものは何もありません。ただ、この薬草園と研究室と、あなたへの誠実な愛だけです」
彼は懐から小さな箱を取り出した。開くと、中には簡素だが美しい指輪が入っていた。銀の台座に、小さなアメジストが一粒。セラフィーナの瞳の色を思わせる、深い紫だった。
「セラフィーナ・ロスウェル。あなたと共に研究し、共に生きたい。私の妻になってください」
時が止まったようだった。薬草園の静寂の中、鳥の囀りだけが響いている。
セラフィーナは胸に手を当てた。そこには確かな温かさがあった。これが愛なのだと、彼女は初めて理解した。前世でも今世でも、本当の愛を知らなかった。アレクシスとの婚約は政略的なもので、感情は伴っていなかった。
だが今、目の前にいる誠実な学者は、彼女自身を愛してくれている。病弱な令嬢でも、侯爵の娘でもなく、セラフィーナという一人の人間を。
「エドウィン」
彼女は静かに微笑んだ。その笑顔には、迷いがなかった。
「だからこそです」
「え?」
「あなたが公爵でも王子でもないからこそ、です。私が欲しかったのは、地位でも権力でもありません。共に歩んでくれる人。私を理解してくれる人。そして…」
セラフィーナは一歩前に出て、エドウィンの手を取った。
「私もあなたを愛しています。あなたと共に研究し、共に人々を救い、共に生きたい」
エドウィンの目が大きく見開かれた。そして、溢れそうな感情を抑えるように、彼はセラフィーナの手を強く握った。
「本当に?」
「ええ。喜んで、あなたの妻になります」
エドウィンは震える手で指輪を取り出し、セラフィーナの左手薬指に通した。アメジストが春の陽光を受けて、静かに輝いた。
そして二人は、薬草園の中で抱き合った。カモミールの花々が風に揺れ、まるで祝福しているかのようだった。
「幸せにします」
エドウィンが彼女の髪に顔を埋めて囁いた。
「もう充分幸せです」
セラフィーナは答えた。そして心の中で付け加えた。
(こんな未来が待っていたなんて。病弱で、婚約破棄されて、社交界の同情の的だった私に)
涙が一筋、頬を伝った。でもそれは悲しみの涙ではなかった。
薬草園の片隅で、老庭師が目を細めてこの光景を見守っていた。あの病弱だった令嬢が、こんなにも幸せそうに笑っている。彼は静かに頷いて、二人の邪魔をしないようにその場を離れた。
春の薬草園に、新しい愛が芽吹いた。それは何よりも美しい花だった。
冬を越えた薬草たちが一斉に芽吹き、庭全体が柔らかな緑に包まれている。カモミールの白い花、ラベンダーの紫の蕾、ミントの若葉。空気は甘く爽やかな香りで満たされていた。
セラフィーナは麦わら帽子を被り、園芸用の手袋をはめて、丁寧に雑草を取り除いていた。傍らではエドウィンが、新しい薬草の苗を植える準備をしている。
「この区画には、新しく入手したヴァレリアンを植えましょう」
エドウィンが提案した。
「不眠症に効果的ですね。良い考えです」
セラフィーナは微笑んだ。この一年で、彼女とエドウィンは完璧な研究パートナーとなっていた。互いの知識を補完し合い、新しい発見を共に喜び、失敗を共に乗り越える。
「セラフィーナ」
エドウィンが真剣な声で名を呼んだ。いつもと違う響きに、セラフィーナは手を止めて彼を見た。
エドウィンは立ち上がり、土のついた手袋を外した。そして深呼吸をして、セラフィーナの目を真っ直ぐに見つめた。
「私には、あなたに伝えなければならないことがあります」
心臓が高鳴った。セラフィーナはゆっくりと立ち上がり、自分も手袋を外した。
春の風が二人の間を通り過ぎる。ラベンダーの香りが濃くなった。
「私は、あなたを尊敬しています」
エドウィンは静かに、しかし確固とした声で言った。
「あなたの知性、強さ、そして優しさを。病から立ち上がり、多くの人々を救う事業を成し遂げた勇気を。そして…」
彼は一歩、セラフィーナに近づいた。
「私はあなたを愛しています。研究者として、人として、女性として」
セラフィーナの瞳が揺れた。驚きではなかった。この感情は、実は互いに育ててきたものだった。ただ、言葉にする勇気がなかっただけで。
「私は公爵でも王子でもない、ただの学者です」
エドウィンは続けた。
「大きな領地も、華やかな地位も、あなたに提供できるものは何もありません。ただ、この薬草園と研究室と、あなたへの誠実な愛だけです」
彼は懐から小さな箱を取り出した。開くと、中には簡素だが美しい指輪が入っていた。銀の台座に、小さなアメジストが一粒。セラフィーナの瞳の色を思わせる、深い紫だった。
「セラフィーナ・ロスウェル。あなたと共に研究し、共に生きたい。私の妻になってください」
時が止まったようだった。薬草園の静寂の中、鳥の囀りだけが響いている。
セラフィーナは胸に手を当てた。そこには確かな温かさがあった。これが愛なのだと、彼女は初めて理解した。前世でも今世でも、本当の愛を知らなかった。アレクシスとの婚約は政略的なもので、感情は伴っていなかった。
だが今、目の前にいる誠実な学者は、彼女自身を愛してくれている。病弱な令嬢でも、侯爵の娘でもなく、セラフィーナという一人の人間を。
「エドウィン」
彼女は静かに微笑んだ。その笑顔には、迷いがなかった。
「だからこそです」
「え?」
「あなたが公爵でも王子でもないからこそ、です。私が欲しかったのは、地位でも権力でもありません。共に歩んでくれる人。私を理解してくれる人。そして…」
セラフィーナは一歩前に出て、エドウィンの手を取った。
「私もあなたを愛しています。あなたと共に研究し、共に人々を救い、共に生きたい」
エドウィンの目が大きく見開かれた。そして、溢れそうな感情を抑えるように、彼はセラフィーナの手を強く握った。
「本当に?」
「ええ。喜んで、あなたの妻になります」
エドウィンは震える手で指輪を取り出し、セラフィーナの左手薬指に通した。アメジストが春の陽光を受けて、静かに輝いた。
そして二人は、薬草園の中で抱き合った。カモミールの花々が風に揺れ、まるで祝福しているかのようだった。
「幸せにします」
エドウィンが彼女の髪に顔を埋めて囁いた。
「もう充分幸せです」
セラフィーナは答えた。そして心の中で付け加えた。
(こんな未来が待っていたなんて。病弱で、婚約破棄されて、社交界の同情の的だった私に)
涙が一筋、頬を伝った。でもそれは悲しみの涙ではなかった。
薬草園の片隅で、老庭師が目を細めてこの光景を見守っていた。あの病弱だった令嬢が、こんなにも幸せそうに笑っている。彼は静かに頷いて、二人の邪魔をしないようにその場を離れた。
春の薬草園に、新しい愛が芽吹いた。それは何よりも美しい花だった。
492
あなたにおすすめの小説
この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
グランディア様、読まないでくださいっ!〜仮死状態となった令嬢、婚約者の王子にすぐ隣で声に出して日記を読まれる〜
月
恋愛
第三王子、グランディアの婚約者であるティナ。
婚約式が終わってから、殿下との溝は深まるばかり。
そんな時、突然聖女が宮殿に住み始める。
不安になったティナは王妃様に相談するも、「私に任せなさい」とだけ言われなぜかお茶をすすめられる。
お茶を飲んだその日の夜、意識が戻ると仮死状態!?
死んだと思われたティナの日記を、横で読み始めたグランディア。
しかもわざわざ声に出して。
恥ずかしさのあまり、本当に死にそうなティナ。
けれど、グランディアの気持ちが少しずつ分かり……?
※この小説は他サイトでも公開しております。
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
氷の騎士と契約結婚したのですが、愛することはないと言われたので契約通り離縁します!
柚屋志宇
恋愛
「お前を愛することはない」
『氷の騎士』侯爵令息ライナスは、伯爵令嬢セルマに白い結婚を宣言した。
セルマは家同士の政略による契約結婚と割り切ってライナスの妻となり、二年後の離縁の日を待つ。
しかし結婚すると、最初は冷たかったライナスだが次第にセルマに好意的になる。
だがセルマは離縁の日が待ち遠しい。
※小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。
記憶を失くして転生しました…転生先は悪役令嬢?
ねこママ
恋愛
「いいかげんにしないかっ!」
バシッ!!
わたくしは咄嗟に、フリード様の腕に抱き付くメリンダ様を引き離さなければと手を伸ばしてしまい…頬を叩かれてバランスを崩し倒れこみ、壁に頭を強く打ち付け意識を失いました。
目が覚めると知らない部屋、豪華な寝台に…近付いてくるのはメイド? 何故髪が緑なの?
最後の記憶は私に向かって来る車のライト…交通事故?
ここは何処? 家族? 友人? 誰も思い出せない……
前世を思い出したセレンディアだが、事故の衝撃で記憶を失くしていた……
前世の自分を含む人物の記憶だけが消えているようです。
転生した先の記憶すら全く無く、頭に浮かぶものと違い過ぎる世界観に戸惑っていると……?
【完結】この運命を受け入れましょうか
なか
恋愛
「君のようは妃は必要ない。ここで廃妃を宣言する」
自らの夫であるルーク陛下の言葉。
それに対して、ヴィオラ・カトレアは余裕に満ちた微笑みで答える。
「承知しました。受け入れましょう」
ヴィオラにはもう、ルークへの愛など残ってすらいない。
彼女が王妃として支えてきた献身の中で、平民生まれのリアという女性に入れ込んだルーク。
みっともなく、情けない彼に対して恋情など抱く事すら不快だ。
だが聖女の素養を持つリアを、ルークは寵愛する。
そして貴族達も、莫大な益を生み出す聖女を妃に仕立てるため……ヴィオラへと無実の罪を被せた。
あっけなく信じるルークに呆れつつも、ヴィオラに不安はなかった。
これからの顛末も、打開策も全て知っているからだ。
前世の記憶を持ち、ここが物語の世界だと知るヴィオラは……悲運な運命を受け入れて彼らに意趣返す。
ふりかかる不幸を全て覆して、幸せな人生を歩むため。
◇◇◇◇◇
設定は甘め。
不安のない、さっくり読める物語を目指してます。
良ければ読んでくだされば、嬉しいです。
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
当て馬令息の婚約者になったので美味しいお菓子を食べながら聖女との恋を応援しようと思います!
朱音ゆうひ@11/5受賞作が発売されます
恋愛
「わたくし、当て馬令息の婚約者では?」
伯爵令嬢コーデリアは家同士が決めた婚約者ジャスティンと出会った瞬間、前世の記憶を思い出した。
ここは小説に出てくる世界で、当て馬令息ジャスティンは聖女に片思いするキャラ。婚約者に遠慮してアプローチできないまま失恋する優しいお兄様系キャラで、前世での推しだったのだ。
「わたくし、ジャスティン様の恋を応援しますわ」
推しの幸せが自分の幸せ! あとお菓子が美味しい!
特に小説では出番がなく悪役令嬢でもなんでもない脇役以前のモブキャラ(?)コーデリアは、全力でジャスティンを応援することにした!
※ゆるゆるほんわかハートフルラブコメ。
サブキャラに軽く百合カップルが出てきたりします
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5753hy/ )
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる