もう、あなたには何も感じません

たくわん

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冬が近づいていた。

畑では、秋に植えたライ麦が芽を出し始めている。来年の春には、豊かな収穫が期待できる。

クラリッサは、オスカーと共に領地を巡回していた。

オスカーが来てから、既に一ヶ月が経っていた。彼は言葉通り、全力で働いてくれていた。

農作業を手伝い、村人たちと交流し、時には護衛として馬車に同行する。文句一つ言わず、黙々と働く姿は、村人たちからも信頼を得ていた。

「オスカー、あの森の向こうに放牧地があるわ」

「はい、見に行きましょう」

二人は、馬で森を抜けた。

放牧地には、数十頭の羊が草を食んでいた。痩せ細っていた羊たちも、最近は見違えるほど健康的になっている。

「羊たちも、元気になりましたね」

「ええ。餌を改善したから」

クラリッサは、羊に近づいた。

「でも、まだ羊毛の質は良くない。品種改良が必要ね」

「品種改良、ですか」

「ええ。優良な種羊を導入して、徐々に群れ全体の質を上げるの」

クラリッサは、計画を説明した。

「隣国には、羊毛の質が優れた品種がある。その雄羊を数頭購入して、交配させるのよ」

「なるほど。時間はかかりますが、確実な方法ですね」

「数年後には、高品質な羊毛が取れるようになるわ。それを使って、上質な毛織物も作れる」

オスカーは、感心したように頷いた。

「あなたは、常に先を見ていますね」

「今だけを見ていては、成長できないもの」

クラリッサは、遠くを見つめた。

「五年後、十年後のことを考えて、今行動する。それが大切なの」

放牧地を後にし、二人は村に戻った。

途中、オスカーが口を開いた。

「お嬢様、一つ聞いても良いですか」

「何かしら」

「なぜ、こんなに頑張るのですか」

クラリッサは、少し驚いた表情を見せた。

「もちろん、借金返済のためだとは分かります。でも、それだけではないような気がして」

オスカーの目は、真剣だった。

「あなたは、もっと深い理由があるのではないですか」

クラリッサは、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと口を開いた。

「最初は、復讐だったの」

「復讐?」

「ええ。婚約を破棄した人への。私を見捨てた人たちへの」

クラリッサの声は、静かだった。

「見返してやりたかった。私がどれだけやれるか、証明したかった」

「でも、今は?」

「今は、違うわ」

クラリッサは、微笑んだ。

「この領地の人々を、幸せにしたい。それが、何より大切になった」

「そうですか」

オスカーは、優しい目で彼女を見た。

「あなたは、素晴らしい領主です」

「ありがとう」

二人は、並んで村への道を歩いた。

その夜、屋敷の書斎でトマスの勉強会が開かれた。

トマスは、この一ヶ月で驚くほど進歩していた。簡単な文章なら読めるようになり、数字の計算もできるようになった。

「トマス、素晴らしいわ」

クラリッサは、彼が書いた文章を見て感心した。

「ありがとうございます、お嬢様」

トマスの顔は、誇らしげだった。

「もっと勉強して、お嬢様の役に立ちたいんです」

「十分に役立っているわ」

クラリッサは、新しい本を取り出した。

「今日は、この本を読みましょう。農業技術についての本よ」

二人で、ゆっくりと本を読み進めた。

トマスは、難しい言葉に苦戦しながらも、一生懸命に理解しようとした。

「お嬢様、この『輪作』という言葉ですが」

「ああ、それはね」

クラリッサは、丁寧に説明した。

勉強会が終わる頃、既に深夜になっていた。

「今日は、ここまでにしましょう」

「はい。ありがとうございました」

トマスが帰った後、クラリッサは窓から外を見た。

月明かりに照らされた村が、静かに眠っている。

ふと、ノックの音がした。

「失礼します」

オスカーが、顔を覗かせた。

「まだ起きておられたのですね」

「ええ。少し、考え事をしていたの」

「お茶をお持ちしました」

オスカーは、盆を持って入ってきた。温かい茶の香りが、部屋に広がる。

「ありがとう」

クラリッサは、茶を受け取った。

二人は、しばらく無言で茶を飲んだ。

「オスカー」

「はい」

「あなたは、なぜ本当にここにいるの?」

クラリッサの問いに、オスカーは少し考えた。

「正直に言えば、最初は好奇心でした」

「好奇心?」

「ええ。婚約破棄された令嬢が、一人で領地を立て直している。それが、どんな人物なのか見たかった」

オスカーは、クラリッサを見つめた。

「でも、実際に会って、考えが変わりました」

「どう変わったの?」

「あなたは、本物だと分かったんです」

オスカーの声は、真剣だった。

「見栄でも、意地でもない。本当に、人々のことを考えている」

「そんな、大袈裟よ」

「いいえ。あなたは、自分が思っているより素晴らしい人です」

オスカーは、静かに続けた。

「私は、あなたのような人に仕えたい。あなたと共に、何かを成し遂げたい」

クラリッサは、彼の真摯な目を見た。

そこには、嘘も下心もなかった。ただ、純粋な敬意と信頼があるだけだった。

「ありがとう、オスカー」

クラリッサは、微笑んだ。

「あなたがいてくれて、心強いわ」

翌朝、クラリッサは隣国の商人に手紙を書いた。

優良な種羊の購入について、交渉するためだ。

数日後、返事が届いた。

種羊三頭を、金貨百枚で売るという内容だった。

「高いわね」

クラリッサは、眉をひそめた。

「でも、投資としては悪くありません」

ヘンリーが、計算書を見せた。

「数年後には、群れ全体の質が向上します。羊毛の価格も、倍以上になるでしょう」

「分かったわ。購入しましょう」

クラリッサは、返事を書いた。

その週の終わり、村に大きな荷車が到着した。

隣国の商人が、種羊を連れてきたのだ。

三頭の立派な雄羊。毛並みは美しく、体格も良い。

「素晴らしい羊ですね」

オスカーが、感心した声を上げた。

「ええ。これで、品種改良が始められるわ」

クラリッサは、羊飼いの老人に指示を出した。

「この三頭を、群れの中に入れてください。そして、交配の記録を取るのよ」

「分かりました、お嬢様」

老人は、嬉しそうに頷いた。

「ようやく、質の良い羊が飼えるようになるんですね」

その日の午後、王都から使者が来た。

アルトワ子爵からの手紙だった。

クラリッサが指導した農法を実践したところ、早くも効果が出始めているという内容だった。

「素晴らしい成果です。来年の春には、大幅な増収が期待できます。約束通り、成功報酬をお支払いします」

クラリッサは、満足そうに微笑んだ。

「順調ね」

「他の貴族からも、同様の報告が来ています」

ヘンリーが、複数の手紙を見せた。

「皆、感謝していますよ」

「それは良かった」

クラリッサは、返事を書き始めた。

それぞれの領地の状況に応じて、追加のアドバイスを送る。

夕方、村を歩いていると、子供たちが駆け寄ってきた。

「お嬢様」

「どうしたの?」

「これ、お嬢様に」

小さな女の子が、野花の花束を差し出した。

「まあ、ありがとう」

クラリッサは、花束を受け取った。

「綺麗ね」

「お嬢様、大好き」

子供たちは、口々に言った。

「お嬢様のおかげで、お母さんが笑うようになった」

「ご飯も、たくさん食べられるようになった」

「ありがとう、お嬢様」

クラリッサは、涙が出そうになった。

子供たちの無邪気な笑顔。それが、何より嬉しかった。

「こちらこそ、ありがとう」

クラリッサは、しゃがんで子供たちと目線を合わせた。

「皆が元気でいてくれるのが、一番嬉しいわ」

その夜、書斎で帳簿を整理していると、セバスチャンが入ってきた。

「お嬢様、良い知らせです」

「何かしら」

「今月の収入が、確定しました」

セバスチャンは、報告書を差し出した。

クラリッサは、それを読んで目を見開いた。

「金貨千二百枚」

「はい。小麦、リネン、そして他領地への指導料。全てを合わせると、この額になります」

「年間収入が、去年の四倍以上」

クラリッサは、深く息を吐いた。

「ヘンリー、借金返済のシミュレーションを」

ヘンリーが、計算書を広げた。

「現在のペースなら、二年半で全額返済できます」

「二年半」

クラリッサは、呟いた。

一年前は、絶望的だった借金。それが、二年半で完済できる。

「素晴らしい成果ですね」

オスカーが、言った。

「いいえ、まだ油断はできないわ」

クラリッサは、慎重だった。

「何が起こるか分からない。不作もあるかもしれないし、商人が契約を破棄するかもしれない」

「でも、お嬢様」

「リスクは、常に考えておかなければ」

クラリッサは、新しい紙を取り出した。

「予備資金を貯める必要があるわ。万が一に備えて」

「お嬢様は、本当に慎重ですね」

「慎重すぎるくらいが、ちょうど良いのよ」

クラリッサは、計画を書き始めた。

その時、窓の外から雪が舞い始めた。

今年最初の雪だ。

「もう、そんな季節ね」

クラリッサは、窓に近づいた。

雪が、静かに畑を覆っていく。

この一年、様々なことがあった。

婚約破棄、絶望、決意、努力、成功。

全てが、走馬灯のように思い出される。

「お嬢様、疲れているのでは?」

オスカーが、心配そうに尋ねた。

「少し、ね」

クラリッサは、正直に答えた。

「でも、良い疲れよ。やり遂げた、という満足感がある」

「無理はなさらないでください」

「大丈夫。私は、まだまだやれるわ」

クラリッサの目には、強い光が宿っていた。

「これから、もっと良くしていくの。この領地を、王国で一番豊かな場所に」

「必ず、実現できますよ」

オスカーは、微笑んだ。

「あなたなら」

窓の外では、雪が降り続いていた。

白い雪が、全てを覆い尽くしていく。

そして、その下では、春に向けて作物が静かに成長していた。

クラリッサの戦いは、まだ終わらない。

でも、勝利は確実に近づいていた。
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