幻想世界のセラピスト ~言の音の呪いと聖賢の乙女~

鈴片ひかり

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サマリー2 呪詛性構音障害

漸次接近法

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 稀人が呪われた乙女と何か奇妙なことをしているという噂は、立ちどころに治療院内に広まっていった。

いかがわしいことではなく、詠唱の練習を一緒にしていると知られた後は普段より馬鹿にしていた連中が、さらに暴言や罵りの言葉を投げつけていくようになっていた。

 光平の容姿が非常に若く見え穏やかな顔立ちと優し気な雰囲気が漂う面立ちのため、幼い頃よころよりいじめを何度か経験している。

彼らに言葉は通じないし、己の力だけで改心させるのは無理だというのが光平の見解であった。やめるとしたら、より力の強い権力のある存在からの圧力や暴力のみであろう。

だから無視をしたし、フィーネも同様の態度で追い返した。

 キースから呼び出しを受けたのは、訓練を開始してから5日後のことであった。

王立治療院の一室を手配したキースは、相変わらず神経質そうなダークブロンドのロングヘアを靡かせながら眼鏡をくいっと持ち上げた。

「おっさん、あんたがフィーネ様にやっているあれなんだけど、本当に言の音の呪いを解呪できると思ってやっているのか?」

「分からない。でもやる価値はあると思っているよ」

「稀人のあんたは知らなくても当然なんだけど、そのさあ、聖賢(せいけん)の乙女を言の音の呪いから解放するってことはな、おっさんが思っている以上に政治的意味合いが強すぎるんだよ」

「政治?」

「つまりだ、稀人が手を出した時点で失敗したら」くっと首を掻っ切る仕草をしてみせるキース。

「殺されるってこと?」

「悪いが冗談で済ませられる状況じゃない。今まで誰も解いたことのない呪いを、しかもラングワースの至宝とまで言われた聖賢の乙女を解呪してみせたら、今まで治療や解呪の研究してきた名うての魔導研究者や王国軍関係者、魔導学院の名誉教授たちのメンツが丸つぶれになる」

「僕はあの子を苦しみから救えるかもしれないから、全力を尽くしているだけだよ」

「あんたが売名ではったりこなせるほど器用な人間だとは思っちゃいないし、分かってるさそんなこと。だからこうやって忠告に来てやってるんだ。あと10日だ、タイムリミットは」

「訓練期間に制限をかけるのか? 治るかもしれないのに焦って失敗したらそれこそ聖賢の乙女を救えなくなるじゃないか!」

「おっさんよ。あんたが真っすぐで正しいことに一生懸命取り組んでるのは分かる。じゃなかったらこんなこと言うかよ。老人たちのメンツはな、聖賢の乙女の解呪より政治的価値が上ってことだ、クソだなまったく」 

 あくまでキースは光平のことを心配してくれての忠告だということは痛いほどに伝わった。しかしあと10日は正直難しい。

 カ行音の自主練習を指示されたタイミングで、単音や無意味音節で発音することはできるようになるだろう。しかし日常般化という意識せず自由に使えるようになるレベルへの到達には、大人であっても時間がかかることなのだ。

 無理に練習しすぎれば、歪み誤った音を学習してしまうことになり正常な魔法詠唱という高度な発語運動を成し遂げることはできないだろう。誤用学習をしてしまうリスクが高まってしまう。

 この時点で光平の腹が決まった。

普段通り。

 己の命を惜しむあまりに、フィーネの未来を閉ざしてなるものか。

自分で死ぬ勇気もなかったのであればちょうどいい。全力で取り組み、自主訓練で改善できるレベルまで引き上げることを目指そう。

不思議と恐怖や不安が吹き飛んでいた。迷いも、戸惑いもなくただ思考を埋め尽くすのはフィーネの訓練に対する細かいアプローチ方法の探求と考察と、10日間の細かいスモールステップで構成された訓練プログラムである。

何の因果か訪れた、誰かのために一生懸命になれる瞬間に光平は幸せを感じていた。


 機能的構音障害の訓練頻度は基本的に週一回ほどだ。

家庭で一日5分ほど練習してもらうことが条件ではあるが、それでも子供たちは改善していく。

逆に子供にはそれぐらいのペースがないと、般化に悪影響を与える場合があるのだ。

しかしフィーネは毎日のように訓練を望んだ。

妥協して提示したのは毎日一回15分ほど。時計は身に着けたたまま転移したので、時間計測に問題はない。

「今日もよろしくね」
「はい先生!」

光平      : ŋあーおー
フィーネ    : ŋあー・おー

「いいよ、最初うまかった!」
「は、はい!」

訓練において重要なこと、それは良いポイントを的確に褒めることにある。

だめな点を指摘するよりは、数倍も効果があると光平は確信していたし、学習心理学の観点からもそれは強化として定着している知識だ。

フィーネの素直で負けん気の強い性格がこの点とがっちり歯車のように噛み合った。

フィーネ: ŋあーおー

「いい! めっちゃいい! すごいうまいぞ」
「やった!」
「次はね、ちょっと難しいよ」光平の挑戦的な笑みに、フィーネがやる気漲る笑顔で返す。

光平  : ŋあーおーŋあー
エルフィ: ŋあーおーŋあー

「うまいなぁ、じゃあ次のもやってみる?」
「はい、やってみたいです!」

 勝気な性格が良い方向へ乗って来たのを感じる。

こういう時は、変に時間やペース、予定した課題にとらわれずに攻めることを心情にしている光平だ。

 この駆け引きのうまさは一日やそこらの練習や知識レベルで身に付くものではない。

経験を積み重ね、子供たちと真摯に向き合うことで醸成され磨かれる技能。安易にセンスがないと断言する指導教員は、大抵己の狭い価値観で学生の未来を奪うことに気付いていない。

光平は学生時代、実習担当から粘着的に指導された経験がありセンスがないと断言された過去があるが、今こうして卓越し数コンマ何秒単位の絶妙なフィードバックでフィーネのやる気と反応を見事に強化し引き出している。

 何度か反復練習をした後、光平はじわじわと湧きあがる構音訓練のサビとも言える段階に到達するため、勝負に出ることにした。

「じゃあもう少し早くやってみよう」
「は、はい!」

光平  :  ŋあ お ŋあ
フィーネ:  ŋあ お kあ

「! それ!」光平の弾んだ声と鋭くも優しい視線が、フィーネの胸に希望の矢を打ち込んだ。
「え?」
「今、すごく良い音が出たよ。じゃ忘れないうちに続けよう」
「はい!」

光平  : ŋあ お ŋあ kあ
フィーネ: ŋあ お kあ か

「それ! 今の!」 ŋと母音の「お」が融合し、「ka」 つまり「か」の音を生成できた瞬間である。優しくŋと母音「あ」を短く組み合わせ繰り返すと 「か」になることを試してもらうとより分かりやすいだろう。

「え? いまのですた?」

ここから光平の攻めは続く。子供であればある程度ゆとりと休み、般化までの余裕を持つがフィーネのやる気に応え燃やしてあげたかった。

光平  : か お か か
フィーネ: か お か か

「いいね!」

 ここから反復を繰り返すも、フィーネは見事に 「かおかか」 という音を出すことができた。

ŋ と 母音を組み合わせることにより、 カ行の音を融合するイメージで構音をさせる方法。

漸次接近法(ぜんじせっきんほう)。

これを使いこなせなくては、言語聴覚士とは言えないほどの基礎的な技術である。

 だがまだまだなのだ。単音、無意味音節でのカ行の一部生成には成功したが、フィーネは会話中での カ行 がいまだに タ行に置き換わったままである。

そう。
/ka/ を 「か」 として脳が認識していないのだ。もしくは呪いが邪魔をしているのか。

 いわゆるおませな女の子が、うまく話したいからと早熟的に 間違った音を身に着けてしまうケースはたまに見かける。

そういう子はある日突然に「あれ? わたしまちがってた?」と気付くことも多い。

 大体は意味のある音節、単語や短文練習で認識するパターンだ。

フィーネもそうであってほしい。k音の表出が可能になったのであれば、きっと単語レベルであれば……


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