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真実
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山の日暮れは街よりも早い。
開放的で隠すものは何もないように見えた山の明るい性分は夜に沈んで、代わりに不気味な底知れない姿を現していた。
蝉は名残惜し気にまだちらほら鳴いているが、キリギリスやコオロギの鳴き声がそれに取って代わって響いている。
泉さんは、夜の山を撮りたい、とカメラを用意しはじめた。最初はひとりで行くつもりだったみたいだが、光流も行きたいと言い出した。
「いいよいいよ、行って来いよ。真澄ちゃんと荷物番しとくよ」
海堂が、火をつつきながら言った。火を見るのが好きらしく、一人でたきぎを拾ってきては、燃やし続けている。
光流たちが行ってしまうと、ふたり、かまどの前に座って燃え上がる炎を見ていた。海堂は何本目か分からないビールをぐびり、とやり、私はウーロン茶をちびちびやっている。
炎はゆらゆら揺らめき、ときどき爆ぜて音を立てる。
ふたりとも黙っていた。
気詰まりではなく、ただ舐めるようなオレンジ色の火の動きに魅入られている。
ふと、目に映るものが内側に吸い込まれていくような感覚がある。
火の奥に何かがいる。
山の闇に潜んでいた過去の声が、炎の奥から蘇る。
「思い出が懐かしいだけじゃないのは、苦しいもんだな」
海堂がやっと聴こえるくらいの声で言う。
私はちゃんと聴き取れたか自信のないまま、海堂をちらりと見やった。
「お前と再会してから、日に日に強くなる。炎を前にすれば……俺は嘘はつけない」
彼の声が、立ちのぼる。海堂は火を見つめたままだ。真意は分からない。だが、分からないのに自分の内側にざわつき始めた声がある。
そしてその声は、私の認識の外で動き出した。
「空海……」
「伝えられないまま、お前は逝ってしまった。後悔というほど苦くはない。だが、そのまま忘れられるほど小さくもない。いや……やはり、後悔か」
海堂が──いや、空海が自嘲気味に笑った。
今私の中に流れ込んでくるのは、なんだ。例の念動力でもなく、私の思考でもなく──
「終わったことだ」
私はその声に身を委ね、流れるままに音にした。どこにあったのかも定かでない記憶が、次々に脳裏に蘇る。
出逢ってまもなく空海と私は熱心に意見を交わし、これからの日ノ本の新しい仏教を共に創り上げようと理想に燃えていた。
やがてお前は共に来るようにと強く迫るようになった。
私に天台法華の道を捨て、真に目覚めよと。
私が一人の僧であったなら。ただひとり真理を求め、歩むだけの者であったなら。
私はお前の背中を追い、どこまでも行っただろう。
「私と共に来てください。あなたなら必ず体得できる」
「しかし皆がその道を歩めぬのなら意味が無い。私は皆と歩みたいのです」
「まずは己でしょう。己が大日と等しいという成道こそ、溺れるものを救うことが出来るのです」
空海の熱意も、真意もよく分かった。
成道──己が仏と一体であると悟ることが、最終的に衆生を救うことになると、そのことは一縷の疑いもない。
だがそれは誰しもが目指せる道ではない。
空海や私が通った道を誰でもが通れると、私は思ってはいなかった。
彼は私を高みへ誘い、だが私は己に課せられた使命を見続けていた。
やがて彼は離れて行ったが、それでも私は共に歩めると思っていた。
お前はなぜあれほど怒ったのだ。
道は違えど、同じ月を見ていたのではないのか。
パチン、と薪が大きく爆ぜた。火の粉がふわりと小さく舞う。
空海はしばらく黙していたが、やがて意を決したように、「俺はお前に負けると思ったのだ」と少し笑って言った。
「負ける?お前が?」
「そうだ。お前には自我というものが限りなく無かった。もし*伝法灌頂を授け、約束通り俺のすべてを引き継がせていたら、お前の大きさに飲み込まれ、純粋な俺の体系は残らなかっただろう」
何を馬鹿な、と思ったが、空海はどうやら本気で言っているようだった。むしろお前ほど大きな人間はいないだろう。私はお前に比べればどれだけ愚鈍か、歯噛みするくらいであったのに。
「お前は己が無かったのだ。徹底的に滅していたのだ。お前の天台法華という意識もなかったろうし、俺の密教という意識もなかったろう。だが俺は違う。いいか、俺の方がよっぽど凡夫だったのだ」
私は驚いて空海の顔を見た。炎の明かりを受けて揺らぐ面は、何故か少し寂しそうに見える。
「俺は、俺の密教を完璧なものと信じていたし、悟りに至る装置としての密教の美しさに惚れ込んでもいた。
お前なら分かると思った。お前なら俺と同じ境地に来られると。だが、お前はいなかった。皆が歩めるようにと教団の制度や教育の整備に一生懸命で、俺の誘いには目もくれない。だから怒りに任せてあの手紙を書いたんだ。どうだ、凡夫の極みだろうが」
苦々しげな笑みのまま、空海が新たな薪をくべる。火はいったん大人しくなり、まもなく新しい木を吞み込むようにして大きくなった。
私はその真意を、驚きと、霧が晴れていくような気持ちで聴いていた。
正面切って私を罵倒したあの手紙。
後にも先にもお前があんなに感情をあらわにしたのはあの一通きりだった。
聞いたところで空海が言うように我が無かったとは思わないのだが、空海の言わんとすることは分かった。
「お前があの後、*戒壇院の設立をめぐって苦しい戦いを迫られた時も、俺は俺で必死だったのさ。お前は不器用だから正面突破以外の道を持たない。それを愚かだと周りは謗ったが、俺はいずれお前の意志が岩を貫くことを知っていた。
負けてはいられないだろう。だから手は貸さなかった。それが──心残りだよ。友として」
これほど、胸が熱くなったことはない。
私は胸元を強く握りしめ、ぎゅっと目を瞑った。
*伝法灌頂を授ける…密教の正式な後継者としてすべてを伝授すること
*戒壇院の設立をめぐる苦戦…天台宗の僧侶を輩出するための独自の施設を建設することを国に願い出たが、なかなか認められなかった。
開放的で隠すものは何もないように見えた山の明るい性分は夜に沈んで、代わりに不気味な底知れない姿を現していた。
蝉は名残惜し気にまだちらほら鳴いているが、キリギリスやコオロギの鳴き声がそれに取って代わって響いている。
泉さんは、夜の山を撮りたい、とカメラを用意しはじめた。最初はひとりで行くつもりだったみたいだが、光流も行きたいと言い出した。
「いいよいいよ、行って来いよ。真澄ちゃんと荷物番しとくよ」
海堂が、火をつつきながら言った。火を見るのが好きらしく、一人でたきぎを拾ってきては、燃やし続けている。
光流たちが行ってしまうと、ふたり、かまどの前に座って燃え上がる炎を見ていた。海堂は何本目か分からないビールをぐびり、とやり、私はウーロン茶をちびちびやっている。
炎はゆらゆら揺らめき、ときどき爆ぜて音を立てる。
ふたりとも黙っていた。
気詰まりではなく、ただ舐めるようなオレンジ色の火の動きに魅入られている。
ふと、目に映るものが内側に吸い込まれていくような感覚がある。
火の奥に何かがいる。
山の闇に潜んでいた過去の声が、炎の奥から蘇る。
「思い出が懐かしいだけじゃないのは、苦しいもんだな」
海堂がやっと聴こえるくらいの声で言う。
私はちゃんと聴き取れたか自信のないまま、海堂をちらりと見やった。
「お前と再会してから、日に日に強くなる。炎を前にすれば……俺は嘘はつけない」
彼の声が、立ちのぼる。海堂は火を見つめたままだ。真意は分からない。だが、分からないのに自分の内側にざわつき始めた声がある。
そしてその声は、私の認識の外で動き出した。
「空海……」
「伝えられないまま、お前は逝ってしまった。後悔というほど苦くはない。だが、そのまま忘れられるほど小さくもない。いや……やはり、後悔か」
海堂が──いや、空海が自嘲気味に笑った。
今私の中に流れ込んでくるのは、なんだ。例の念動力でもなく、私の思考でもなく──
「終わったことだ」
私はその声に身を委ね、流れるままに音にした。どこにあったのかも定かでない記憶が、次々に脳裏に蘇る。
出逢ってまもなく空海と私は熱心に意見を交わし、これからの日ノ本の新しい仏教を共に創り上げようと理想に燃えていた。
やがてお前は共に来るようにと強く迫るようになった。
私に天台法華の道を捨て、真に目覚めよと。
私が一人の僧であったなら。ただひとり真理を求め、歩むだけの者であったなら。
私はお前の背中を追い、どこまでも行っただろう。
「私と共に来てください。あなたなら必ず体得できる」
「しかし皆がその道を歩めぬのなら意味が無い。私は皆と歩みたいのです」
「まずは己でしょう。己が大日と等しいという成道こそ、溺れるものを救うことが出来るのです」
空海の熱意も、真意もよく分かった。
成道──己が仏と一体であると悟ることが、最終的に衆生を救うことになると、そのことは一縷の疑いもない。
だがそれは誰しもが目指せる道ではない。
空海や私が通った道を誰でもが通れると、私は思ってはいなかった。
彼は私を高みへ誘い、だが私は己に課せられた使命を見続けていた。
やがて彼は離れて行ったが、それでも私は共に歩めると思っていた。
お前はなぜあれほど怒ったのだ。
道は違えど、同じ月を見ていたのではないのか。
パチン、と薪が大きく爆ぜた。火の粉がふわりと小さく舞う。
空海はしばらく黙していたが、やがて意を決したように、「俺はお前に負けると思ったのだ」と少し笑って言った。
「負ける?お前が?」
「そうだ。お前には自我というものが限りなく無かった。もし*伝法灌頂を授け、約束通り俺のすべてを引き継がせていたら、お前の大きさに飲み込まれ、純粋な俺の体系は残らなかっただろう」
何を馬鹿な、と思ったが、空海はどうやら本気で言っているようだった。むしろお前ほど大きな人間はいないだろう。私はお前に比べればどれだけ愚鈍か、歯噛みするくらいであったのに。
「お前は己が無かったのだ。徹底的に滅していたのだ。お前の天台法華という意識もなかったろうし、俺の密教という意識もなかったろう。だが俺は違う。いいか、俺の方がよっぽど凡夫だったのだ」
私は驚いて空海の顔を見た。炎の明かりを受けて揺らぐ面は、何故か少し寂しそうに見える。
「俺は、俺の密教を完璧なものと信じていたし、悟りに至る装置としての密教の美しさに惚れ込んでもいた。
お前なら分かると思った。お前なら俺と同じ境地に来られると。だが、お前はいなかった。皆が歩めるようにと教団の制度や教育の整備に一生懸命で、俺の誘いには目もくれない。だから怒りに任せてあの手紙を書いたんだ。どうだ、凡夫の極みだろうが」
苦々しげな笑みのまま、空海が新たな薪をくべる。火はいったん大人しくなり、まもなく新しい木を吞み込むようにして大きくなった。
私はその真意を、驚きと、霧が晴れていくような気持ちで聴いていた。
正面切って私を罵倒したあの手紙。
後にも先にもお前があんなに感情をあらわにしたのはあの一通きりだった。
聞いたところで空海が言うように我が無かったとは思わないのだが、空海の言わんとすることは分かった。
「お前があの後、*戒壇院の設立をめぐって苦しい戦いを迫られた時も、俺は俺で必死だったのさ。お前は不器用だから正面突破以外の道を持たない。それを愚かだと周りは謗ったが、俺はいずれお前の意志が岩を貫くことを知っていた。
負けてはいられないだろう。だから手は貸さなかった。それが──心残りだよ。友として」
これほど、胸が熱くなったことはない。
私は胸元を強く握りしめ、ぎゅっと目を瞑った。
*伝法灌頂を授ける…密教の正式な後継者としてすべてを伝授すること
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