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第一章 黒猫の恋
第10話 黒猫の打算
しおりを挟むそれからどちらからも何も話をしない時間が流れた。
でも、その時間が嫌いじゃない。いや、寧ろ好ましかった。
彼女といると何故かささくれだった気持ちが湧かず、素直に本音で話をしても不快にならなかった。
一緒に過ごしてみて、きっと彼女の持つ雰囲気とか空気感がそうさせているのだろうと思った。
彼女は就活生だし、自分よりも随分と年下のはずなのに、何故だかとても心地よくて、彼女の前では外面とか建前とかそういうものが要らない、素のままの自分で居られる気がした。
出会ったばかりなのに何だか変な気分だ。
お互い口を開かず、ただ横にいるだけ。
それなのにふたりの間には温かい空気が流れているようだった。
暫くすると、彼女は握っていた水の蓋を開け一気に水をあおり、勢いよく半分くらいまで飲むとふぅと小さく息を吐いた。
可愛らしい外見に似合わず、結構男前な事をするなぁ、と目を丸くして見ていると、彼女は顔をあげて無理やり笑顔を作った。
「何だか泣いたらスッキリしました!見ず知らずの私のためにありがとうございました。」
「いや…それはこっちのセリフ。」
俺は頬の絆創膏を指差しながら笑顔を向けた。
すると、彼女がふわりと笑った。先程の作り笑顔ではなく、自然な笑顔で。
俺はその笑顔の彼女に手を伸ばすと、自然と彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
え?撫でた?!
俺は咄嗟の事に吃驚して固まり、そして、自分のやっていることを理解して慌てて手を引っ込めると、女の子はくすくすと笑った。
その笑顔が可愛くて、胸の辺りがギュンとしてこちらも連られて笑顔になる。この笑顔を見られるなら無条件でこの子のために何かしてあげたいと思った。
いつもは絶対に有り得ない感情に自分でも驚きを隠せない。
一体なんなんだ、湧き出てくるこの気持ちは…
よくわからない感情に翻弄され、頭が痛くなってきた。
でも、不思議と嫌ではないのだ。
思わず含み笑いを零した所で、ふと先程の話の続きが気になってくる。
聞くべきかそっとしておくべきか少し逡巡したが、やはり気になって仕方がないので、よせばいいのについ聞いてしまった。
「誰か、相談できる人いないの?」
「そうですね…東京にいたのは小学生までなので、こっちに知り合いいないんです。年金生活のおばあちゃんには仕送り頼めないので…学費と生活費のためにバイトが忙しくて、友達誰もいないんです。ほら、人付き合い苦手なので…ははは。」
両親を早くに亡くして、変わりに育ててくれた祖母に迷惑をかけないため、自分でバイトして学費と生活費稼いでいる?
なんだそれ…
相当な苦労をしているはずなのに、下心なしに人に純粋な善意を向けられる彼女に心が急降下するかと思う程、ガッツリと動いた。
「ねぇ、よかったら、今後受ける予定のエントリーシートとかある?俺、ちょっと見てあげるよ。」
気がついたら、口を滑らせていた。自ら面倒事に首を突っ込むとか、普段では到底有り得ない行動に自分でも吃驚する。
俺らしくないのは十分にわかっているが……
自分から協力すると言ってしまったわけだから、そこは責任を持ってちゃんとしたアドバイスをしてあげるつもりだった。
どうせ恐縮して断るんだろうけど、そんなの聞いてあげる気はサラサラなかった。
そして、彼女の返答は予想通り。
「えっ!そんな…そこまでご迷惑をおかけする訳には…」
俺からの申し出を聞いた彼女は酷く恐縮して、頭が取れるんじゃないかと思う程、首をブンブン振った。その予想通りの反応に俺は可笑しくて思わず吹き出す。
「ははっ。いいから。ほら、出して出して。」
「あ、はい…」
俺は足を組むとふぅと長い嘆息をして手を差し出した。その俺の勢いに負けた彼女は、漸くおずおずとエントリーシートを鞄から出すと、俯きながら俺に渡した。
◇◇◇
『仲原 名月』
○○大学政治経済学部 経済学科
英検1級、TOEIC900
おー…なかなかのハイスペ女子だな…
彼女から手渡されたエントリーシートを眺めながら、自分もそこそこハイスペックだと思っていたけど、やはり上には上がいるなぁと苦笑いする。
その他に書かれている事は、読書が趣味だとか、アルバイト経歴とか…まぁ、よく言えば無難で、悪く言えば主張のない内容だった。ここも改善の余地は十分あるが…
この大学、この学部なら官僚やら銀行員やら公務員やら…
日本の経済回す中枢にいてもおかしくない高学歴で引く手数多だろうに、何故20社も落ちるのか、俺は不思議で仕方なかった。
エントリーシートの内容はさて置き、問題はエントリー企業と職種だ。
正直エントリーしている企業、職種共に『仲原さん』のスペックが高すぎて、企業としては手に余る…オーバースペックなのだ。周りの社員との釣合が取れないのであれば採用しないだろうし、これは受からないのは当然だと思った。
緊張して俯いている仲原さんに、俺が感じたことや思ったことを詳細に説明すると、彼女は目を丸くして驚いていた。
「オーバースペック……考えたこと無かったです…私には中小企業が精一杯かと思ってたので…」
「うん、君は随分自己評価が低いようだね。大丈夫だから、自信持って。君ならもっと大手の方がマッチングすると思うよ。」
「大手…ですか……でも、私コミュニケーションに自信ないです…」
どこまでも自己評価の低い彼女に若干イラッとしたが、自己評価の低さは彼女のせいではなく、恐らく彼女の成育環境で何かしらあったのだろう。自分にも身に覚えがあるだけ胸が痛んだ。
俺はそんな彼女の持っている心の重石を取り除いてあげるつもりで、丁寧に諭すように話しかけた。
「大丈夫だよ。君、人とコミュニケーションちゃんと取れてるよ?」
「えっ……」
「ほら、今だって、ちゃんと俺の目見て話出来てるでしょ?俺ら、初対面だよ?」
仲原さんは、あっ、といい、少し何か考える素振りをしていた。
「それにこのアルバイト経験はとてもいいアピールになると思う。君さ、実は営業とか向いてるんじゃないかな。」
「営業ですか…考えた事もなかったです。」
「そう?じゃあ今から考えてみなよ。今まで通り、事務職で就活進めても上手く行かないかもしれないなら、発想の転換!やってみる価値はあると思うんだけど。」
「……なるほど。」
仲原さんは俺の話を聞いて、得心した、という顔になった。
ここまで来ればもう大丈夫だろう。後は彼女がじっくり考えて決めればいい事だ。
「そうそう。よかったら、これあげるよ。うちの会社、総合商社で、営業以外にも色々職種あるから受けてみたら?君くらいのスペックならうちの会社で何かしら仕事ありそうだよ?」
「総合商社…」
そこで選択肢のひとつとして、俺は営業用に持っていた会社概要のパンフレットを彼女に一部手渡した。
もしかしたら一緒の会社で働けるかもしれない、という多少の打算も若干ありつつだが…
「そこそこ大手だけど、君ならきっと大丈夫だよ。」
そう言ってからふと時計を見ると、営業部全体MTGの開始時間をちょっと過ぎた所だった。
「うっわ。やば、会議の時間過ぎてた!手当してくれてありがとうね。それじゃ、就活頑張って!」
「あ、はい!こちらこそ、色々とありがとうございました。」
「うん、来年会えるの楽しみにしてるよ!仲原さん。」
期待を込めて言ってみる。
そう言って、慌ててその場を後にした後で気づいた事。
彼女の連絡先を聞いていなかった。
せめて、名刺渡しておくんだった…
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